ワリと最近、住環境が劇的に変わりまして、BS/CSが観られるようになったんです。
今までは、地上波だけでしたから・・・。
で、チャンネルが多すぎて戸惑ったりとか、テレビ番組表が分かんないとか、そもそもチューナー(のリモコン)の使い方がよく分かんなかったとか、そういう時期も乗り越えまして。
(USBで繋げたHDDに予約録画する、なんてことも、出来るようになりました。)
で、と。
シドニー・ルメット監督の「その土曜日、7時58分」を、観ました。
そもそも監督が誰だっていうのもまったく知らない状態で観たんですが、イーサン・ホークが助演で出てます。なんだか情けない次男坊を好演。
イーサン・ホークはでも、アレですね。
いわゆる「ハリウッドのスター」になる道もあったと思うんだけど、こういう渋い役だったり、“汚れた”キャラクターを演じたりっていう、なんていうか、イイ感じのヤツだよな、というか。
“スター”であることには間違いなんですが、その、インディペンデント系やローバジェット作品に出て、自分のネームバリューで製作と集客にも貢献する、みたいな。
ハーヴェイ・カイテルやトミー・リー・ジョーンズに通じる、ね。
イイ感じですよね。
で。
ストーリーは、説明なく、一種の倒叙で始まります。
倒叙と、ループというか、時間を遡って繰り返したり、という。
とにかく全編に渡って“緊張感”でたぎる、という言い方がいいと思うんですけど、張り詰めているというよりも、たぎる。滾る。
テンションが高い、ということではないんですね。
ピンと張ってて、それがどんどん強くなる、というか。
で、倒叙(の一種)とループ(の一種)という“語り口”が、この“緊張感”をチャージしてるワケです。
ある一つの“結節点”(その時間が「7:58」ということです。8時直前、という。)があって、そこに向かって、何度も何度も繰り返される。
その“結節点”というのは、ある悲劇なんですね。
なので、“崩壊点”というか、“融点”というか、とにかく、そこで「壊れる」「崩壊する」。
つまり、「崩壊する」ことが分かっているポイントに向かって、何度も何度もストーリーがドライブされるワケです。
繰り返されるたびに、色々な背景が明かされる、という構造になってて、それが、もうどの角度から語られても最後には「崩壊する」ことが分かってるワケで。
これがですねぇ。
なんかもう、どうしょうもない気持ちになってくるんですよ。切ない感じだったり、憐情だったり、やるせない感じだったり。
まぁ、その感情はとにかく、“緊張感”をチャージしている。
もう一つ。
これは「映画という表現形態に因る話法」だと思うんですけど、例えば「覆面を被っている男」が、最初は誰だか分からない。
だけど、時間軸がループして改めて語られると、その男が誰だかが分かる。
で、そこで、観る側に対するミスリードが仕掛けられてるんですね。
これが巧いです。
いわゆる「最悪の結果」を知ってて、ちょっと「アレ?」みたいなのがあるんです。やや「救いがある結果」を想像してしまう、あるいは、期待してしまう。
しかし、みたいな。
この、もう一つの“語り口”のギミックが隠されていて、これも、“緊張感”をチャージしていく。
もちろん、黒味を強調した、シャープな質感の画もそうだし、余計な説明をしないシナリオもそうだし、セリフや演技のミニマリズムも、というか、とにかく全てが、“緊張感”を支えているんですね。
で、悲劇とその背景・意味を明かしていくことで、父と息子、兄と弟を巡る、これはある種の定番とも言えるんだけど、そういうストーリーを、物凄いシンプルに語っていきます。
2人の息子を得た父。なんかいつまでたっても情けない弟。
弟を愛する父に、心の中で静かに反抗心を燻らせてきた兄。
熾烈な競争社会(であるアメリカ社会)が強いるマチズムを、兄は、虚勢として身に纏っているワケです。
虚勢を張る自分の心を、高級アパートの一室で嗜むヘロインで癒し、つまり、自分の家庭ですらない、という。
いやもうホントに、どんどん奈落の下の方下の方に、話が進んでいく。
悲劇の終着点に向かって。
いやホントに。
どこまでいっても救いのない話なんですけど、でも、映画としては、素晴らしいです。ホントに。
こういう作品っていうのは、「映画にできること」を少しずつ拡張している、という気がするんですよねぇ。
まぁ、そう言葉にしてしまうと、なんか陳腐な感想になってしまうんで、ちょっとアレですけど。
でもまぁ、そういうことです。
うん。
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