2008年12月31日水曜日

「スナッチ」を観る

ガイ・リッチー監督の「スナッチ」を観る。

ま、ブラッド・ピットとベニチオ・デル・トロの共演っつーことでちょっとだけ話題になってたりした作品ですよね。
つーか、最近だとガイ・リッチーがマドンナと離婚して慰謝料をがっつり“戴いた”というニュースで話題になってたり。
ま、それはさておき。


結構期待して観たんですけどねぇ。
あんまり面白くなかったっス。



なんちゅーかねー。
やっぱ、編集が上手で、その辺の「切り刻み方」なんていうのは凄い巧いなぁ、なんて思うんですけどね。
なんつーか、全部、ただ流れていくだけ、という感じがしちゃうんですよねぇ。
「どこに喰い付けばいいんだい?」みたいな。

群像劇なんで、まぁ、個人的に群像劇が凄い好きっていうのもあるんで、その、そういう種類の物語の受け取り方、みたいなのは心得てるつもりではあるんですけど。

とりあえず間違いなく言えるのは、「何を語るか」ではなく「いかに語るか」の“いかに”が主題である、と。
「“こういう話”を“こんな感じ”で語ってみました」という、“こんな感じ”に。

で、まさにそこがキモなんだけど、実はちょっとだけ既視感があったりして。



う~ん。
違うのかなぁ。
そういうことじゃないのかなぁ。


要するに、長い物語を構築できないんですよね。きっと。監督の資質として、なんですけど。
短いプロットを編み込んで、長い作品に仕立て上げる、と。
その為には、大勢の登場人物が必要だし、語り口もこういう風になるし。
で、そういう“構造”が“構造”だけになってしまってる、と。
ブラピの「復讐の物語」と主人公の「無常の物語」、ダイヤ商と黒人たちの「ダイヤをめぐる冒険」。
絡み合ってない、というか。主題が。
ストーリー自体は、絡み合ってるんだけどね。でも、それはただ、時間軸が切り刻まれて、繋がってるだけで。
「共鳴」してない、というか。

そこら辺が、物足りない感じがするんです。


スタイリッシュだとは思うんですけど。ホントに。


まぁでも、こういうのを面白いって感じる時もあるしなぁ。
ただの個人的な流行りとか好みのアレなのかもしれませんね。


ま、イマイチ、ということで。

2008年12月30日火曜日

「阿修羅城の瞳」を観る

“椿”つながりで、なんて言うと怒られそうですが、市川染五郎と宮沢りえ主演の「阿修羅城の瞳」を観る。

これまた「う~ん」という感じ。
いや、面白いんですけどねぇ。

冒頭のアクションシーンで暴れまわる染五郎さんの立ち姿とか、シュッとしててホントに画になるし。やっぱりカッコいい。

だけどなぁ。
こういう世界が好きなだけに、ちょいちょいイラっとさせられちゃう瞬間っていうのがあって、その度に「う~ん」みたいな。

だいたい、この手の役に必ず宮沢りえが配役されるのは、どうかと思うんだよなぁ。“可憐な少女”って雰囲気じゃないもの。
(しかし正直、“樋口可南子―宮沢りえ”の並びっていうのは、俺ら世代の人間にとっては、けっこう凄いアレだね)

でも、樋口可南子の妖艶さはハンパないけどね。あのメイクと衣装のハマリっぷりは凄い。
でも、宮沢りえも、もう、そういう“妖艶”な感じを演じる女優さんでしょ。
最後の転生したあとの阿修羅の姿の時は、ハマってるから、演出側の意図としては、その雰囲気の方を優先して敢えて、ということなのかもしれなけど。
しかしねぇ。
普通に、宮沢りえは美しすぎますよ。マジで。


だいたい、宮沢りえが演じる「つばき」が、ねずみ小僧みたいな感じで登場するんだけど、それの意味がよく分からん。
その黒装束の盗人たちの挙動の処理が、多分CGとのアレなんだけど、ぜんぜん自然じゃなくって。
例えば「ダークナイト」ならば、そういうディテールのリアリティを徹底的にフォローアップすることで、リアリティとは違う種類の説得力を生み出してるんだけど、そういうのはぜんぜんないからねぇ。
単純に、宮沢りえが走る姿は、普通の女の人が走る姿なワケで、「くのいち」的な走り方とは全然違う、と。

それから、普通に前髪の感じがダサい。いや、それはともかく。

別に、それこそ遊郭の遊女、とか、そういうのでも良くないか? 
染五郎が「お前の全部を引き受けるって言っただろう!」みたいなセリフがあって、いい言葉だと思うんだけど、例えば“遊女の身請け”とかなら、そのセリフも強くなる気がするし。
宮沢りえの雰囲気にも合う気がするしね。

原作との兼ね合いで、原作には、映画にはないエピソードみたいのがあったりする、とか、そんな理由なんでしょうか。

中盤まで、演出上の小道具として頻繁に出てくる鏡は、俺は「人間=人間の鏡像≒オニ」という暗示なのかと思ってたんですけど、途中で「さかしま」(さかさま)という言葉が出てきて、それが「染五郎の鏡像」と「つばき」の2人の関係性のことも含んでいる、ということになってて。その辺は、なるほどな、と。

シナリオ上のアレで言うと、鶴屋南北の存在は面白かったですね。「お膳立てをする」みたいな。
ラストの、オニと人間が共生する、みたいなエンディングもいいし。(それは、宮沢りえと染五郎が結ばれたことの暗示だったりするワケで)



ま、でもやっぱり、染五郎という“御曹司”が見せる身のこなし、ですよねぇ。魅せるのは。“ニラミ”とか、全然いらないけど。



うん。
ま、こういうダークファンタジーも、好きです。
セットとか、結構カネかかってる気がしますけど、もっと本気になって作れば、もっともっと凄い作品になるんだろうなぁ、と。
そういう作品でした。

ちなみに、渡部篤郎の髪型は、べジータ。

2008年12月28日日曜日

「椿三十郎」を観る

森田芳光版の、つまり織田裕二主演の「椿三十郎」を観る。


う~ん。
リメイク、ということで。


まぁ、すげぇ面白いんですけどねぇ。それは。
成功かどうか、ということであれば、それは成功した、という感じなんでしょうけど。


やっぱり、シナリオの筋立てが面白いんですよねぇ。それに尽きちゃう、という気がしてしまう、という。
それはリメイクの場合、あんまし関係ないかも、と。



ただ、やっぱり時代劇ってまだまだすごい可能性があるんだって、これはもう何年も前からずっと思ってることなんだけど。
北野武監督の「座頭市」山田太一監督の藤沢周平原作の一連の作品、是枝裕和「花よりもなほ」、そしてこの森田芳光監督。
時代劇ルネッサンスって、ポロポロ芽になりそうな作品はあるんだけど、大きな潮流にはなってないですよね。「あずみ」や「どろろ」は、また違うんだろうし。「鬼太郎」もね。


それから凄い思ったのは、やっぱりトヨエツ。このダークヒーローっぷり、というか。
目元に漂うニヒリズム感っていうのは、ホントに唯一無比って感じで。好きです。
声も。

織田裕二は、どうなんでしょうか? 三船敏郎とどうしても比較しちゃうんだけど、それだと、織田裕二という俳優を真っ直ぐに見れないような気もするし。でも比べちゃうのも、自然な見方だとも思うし。
個人的には、セリフの言葉と本人の演技が、いまいちしっくり来てない、という気が。
間がハマってない、というか。

例えば、佐々木蔵之助や西岡徳馬なんか、ホントにハマってて、改めて“腕”を見せつけられた、という感じなんだけど。

ハマってない、ということで言うと、鈴木杏もいまいち。顔の造りとヅラがフィットしてない気もするしね。
なんか、額から上のバランスが合ってなくないっスか?


それからもう一つだけ気になったのは、音がキレイ過ぎる、ということ。もうちょっと“汚し”があっても良かったな、なんて。雰囲気を出す、という意味では。
「パパーン!」じゃなくって「ヴァヴァ~ン!」みたいな。ホンのちょっとだけ、ヒズミやユガミがあると、音が太くなるんですよね。
ま、それは勝手なアレです。
音楽自体は、もちろん素晴らしい。間も含めて。



殺陣は、良かったですよねぇ。斬れ味がシャープで。
“疲労”という新機軸を打ち出してるってことだったけど、それも良いし。死体を映さない、というアングルワークもいいし。
もちろん、ラストの、十字路での対決も、素晴らしい。


うん。やっぱりトヨエツが効いてるような気がします。織田裕二より背が高いんだ、みたいな驚きも含めて。
あの立ち姿とか、髷の似合いっぷりも、良いし。




繰り返しになりますが、時代劇って、もっともっと可能性があるハズ。

うん。

2008年12月21日日曜日

「ラスト・キャッスル」を観る

ミッドナイト・アートシアターで、ロバート・レッドフォードが主演の「ラスト・キャッスル」を観る。


なかなか面白い作品でした。
舞台は、軍の刑務所ということで、かなり大掛かりなセットの中で、延々と男ばっかりが出てきてワッショイワッショイやるんですが、しっかりとしたテーマもありつつ、ドラマもありつつ、カタルシスもありつつ、「明日に向かって撃て」的なオチもある、という。


レッドフォードは、命令を無視して独断作戦を決行して、それが失敗して部下を(8人)殺されてしまうという“過ち”を犯して、軍の刑務所に服役する、という役柄。彼は「歴戦の戦士」で、軍関係者にその名前が広く知れている、という。

この、設定の“案配”が、凄い良くって。
軍人だから、その階級というヒエラルキーがあるんだけど、それと同時に個人の人格が集める“尊敬”というのがあって。
それから、舞台が刑務所なので、看守側と受刑者たち(作中では「プリズナーズ」って言われてます)の関係があって。
この「関係性」が激突する、という。人間関係という「構造」が激突する、というか。

冒頭、所長の軍事コレクションみたいのがあって、それを、“受刑者”である主人公が、「戦場経験のない人間の好む趣味だ」みたいに言うんですね。
このセリフが、まぁ、セリフ自体の説得力もそうなんだけど、作品の中に観る側を一気に引き込む、かなりキラーなセリフ、というか。

また、このイントロダクションの作りが良くって、5分くらいで全部一気に説明しちゃうんですよ。舞台と、背景と、登場人物のだいたいのところを。
で、そこまでくると、だいたい何が起きるか、分かっちゃうんだけど、でも、全部説明しちゃう。
舞台も、最初から最後まで、ずっと刑務所の中だし。(しかも、独房とグラウンドと、所長室、あとは食堂ぐらいしかでてこない)


階級というか、それを示す、肩章か。
肩章に支えられたヒエラルキーと、個人に対する尊敬に裏づけされたヒエラルキーが激突する。

面白いのが、「敵役」の所長が、例えば私利私欲というか、裏で違法にカネを儲けてる、とか、そういう人物じゃない、という部分ですね。いわゆる、普通の悪人のようには描かれてない。
彼は彼なりに、実は正義を遂行している人物で。
ただ、作中では「バトル・フィールド」って言葉で言われてましたが、実戦の経験がない。例えば心理学とか、そういうのを学んでる、みたいな描写もあって。
そういう「指揮官」。


この「指揮官」というのが、作品のテーマなんですね。

カリスマの周りに、他の人たちはホントに自然に集まってきちゃうんだけど、しかし同時に、担がれたカリスマというのは、彼らの生命や人生をも背負ってしまう、と。
まぁ、リーダーとは、そういうモノなんですけど。

所長に対抗することになる主人公は、ガッツというか、精神力というか。懲罰に、衆人環視の中で、耐え切ってしまうことで、逆に尊敬を集める、とか。
それから、言葉。「黙ってついてこい」じゃなくって、周囲の“兵卒”たちの士気を高めてしまう言葉を持っている。
そういうのは、資質もそうんだけど、経験によって身につけたものでもあって。それは、戦場での、ということなんだけど。所長には決定的に欠けているのが、それで。

という描写がなされるワケですね。


彼に感化される、彼の戦友の息子、というクセ者が出てくるんですけど、彼のビルドゥングス・ロマンもなかなか良くって。



う~ん。
なんか、うまく説明出来ませんねぇ。



ちょっと切り口を変えると、ワリとリベラルなスタンスを持っているレッドフォードが、こういう軍人(しかも、歴戦の勇士)役を演じるっていうのは、ちょっと意外な気もするんですけどね。

でもまぁ、彼は彼なりの愛国心というのがあって、それの発露ってことなのかもしれませんね。

でも、「実戦経験がない司令官」というのは、今となっては、ブッシュの暗喩だったりして、面白い。



あ、あと、所長の鼻息がずっとシューシュー聞こえる、という演出は良かったです。ボンクラっぽくって。話しかけても1回必ずシカトするところ、とかも。


あとはなんだろうなぁ。
カメラワークも、上手。これはホントに、デカいセットの中で撮影する、ということが巧く働いている、ということなんでしょう。きっと。(この間の“トークショー”で、その辺を勉強してきたばかりでした)
グラウンドと、そこを見下ろす所長室や監視塔の、上下の位置関係みたいのを利用したショットは、とても上手でした。いっつも、チラチラそっちの方を見上げてる、とかね。


でもホントに、これはシナリオの、というか、企画の勝利なんでしょうね。刑務所のセットの中で丸まる撮る、という。
しかも、ただの刑務所じゃなくって、軍の刑務所だ、というところが。

普通に描こうとしても、こういう複雑な関係というのは、なかなか難しいですよね。説明だけで半分ぐらい終わっちゃいそうだし。
それを「軍の刑務所」というだけで、オッケーになっちゃうワケですから。



うん。
脱獄モノもいいですけど、こういう刑務所モノも、いいですな。


という感じで。

2008年12月19日金曜日

今年は「社会派」でしたね。

新聞に、今年の映画業界を回顧して、という記事が載ってたので、ご紹介。

戦後の黄金期に比べ、現代の日本映画には志の低い作品がはびこっている、との主張をよく耳にする。しかし最盛期の公開本数は500本を超えていた。つまり数本の名作を無数の凡作が支えていたのだ。凡作は淘汰されたに過ぎない。
08年、日本映画の公開本数は412本と、3年連続の400本台に達した。数年前まで200本台だったのがウソのような盛況だ。量が質を担保する。そんな命題を実証するように、日本映画は低迷期を脱し、秀作や話題作が目立った。
本数が増えれば、これまで触れにくかった社会問題に挑む冒険的な企画も現れる。若松孝二監督は「実録・連合赤軍 あさま山荘への道」で、新左翼運動がたどり着いた結末を総括した。
阪本順治監督は「闇の子供たち」で人身売買や臓器売買に鋭い視線を投げかけた。極めて硬派な主題ながら、劇場には幅広い層の観客が詰めかけた。


日本映画の好調と対照的に外国映画は寂しい1年となった。特にアメリカの娯楽大作が不振を極めた。
ただ、娯楽大作が不振な時のアメリカは社会派の傑作群を生む。40年前のアメリカン・ニューシネマが証明している。今年も、石油王の破滅を描く「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」や殺し屋と保安官の追跡劇を冷徹に活写する「ノーカントリー」、巨大企業と戦う男を追った「フィクサー」がアカデミー賞を争った。
しかし、それがアメリカン・ニューシネマのようなうねりになるかは分からない。社会現象には若い観客の熱狂的支持が不可欠になる。彼らが映画に求めるもの。それは主人公への憧れだ。自らの手本にしたくなるライフスタイルだ。「俺たちに明日はない」や「イージー・ライダー」にはそれがあった。ラストは悲劇だが、彼らの生き方は格好良く輝いていた。現代の主人公は最初から重苦しい。誰も真似たくはあるまい。

若者が熱狂する主人公は若い作り手から生まれる。

まぁ、ぼちぼち「若い」とは言えなくなってきた“お年頃”ですけど、オイラも頑張ろう、と。


でも「最初から重苦しい」っていう指摘は、ちょっとグサッときたなぁ。

そういう時代なんだよ、ということだと思うんだけど、でも、それを物語を作るときの“言い訳”みたいにするのも、良くないワケで。



うん。


次に書こうと思って暖めているアイデアの、ヒントになったかもな。その辺は。

ま、もちろん、書いてみたいな分からない部分でもあるんだけど。


というワケで、「回顧」というより、「ちょっとしたヒント」という感じでした。


2008年12月11日木曜日

「殺しのはらわた」を観る

吉祥寺のバウスシアターにて、篠崎誠監督の「殺しのはらわた」を観る。


いやぁ、良かった。
実は、この作品を観るのは二回目なんですが、まぁ、面白い作品ですな。

バウスシアターって(メインのスクリーンだけなんですけど)音がとにかく良くって。
この作品の良さの一つは、理由が理解出来ないほどの、(音楽も含めた)音の良さだったりして。

ま、この稀代のカルトムーヴィーを上映する、というトコもバウスシアターらしいですが、この作品の良さを劇場の音響システムが引き出してる部分もあるんだろうな、と。

ま、偉そうな口ぶりですが、適当に書いちゃいました。



とにかく、面白い作品なんで、“拝観”する機会があれば、ぜひご覧になって下さい。
個人的には、ホントに篠崎誠さんという方は、日本の映画界の最重要人物の一人だと思ってるんで。


ま、個人的なソレはさておき。


上映の後に、その篠崎さんと、「どろろ」の塩田明彦監督、それから佐々木浩久監督の3人の「活劇のナントカ」というお題での、トークショーがありまして。
いやぁ、個人的には、こちらでお腹いっぱい。

久々に「講義」を聴いた気がしちゃいました。


「映画とは動きの創造だ」
「演出とは動きのハーモニーだ」
ま、そんなキラーなフレーズがポンポン飛び出す、という。

昨日は出てきませんでしたが、「演出とは仕草の発見だ」という篠崎さんのフレーズも、俺の記憶の中にはあります。




ただ大袈裟な死に方や、血しぶきじゃなくって、カットの繋ぎ方や見せ方だけで迫力は出せる。
一つのカットの中に動きが複数あると、観てる側は興奮する。
ただ“文学的”なだけでなく、動き、アクションこそが“映画”じゃないのか。

などなど。


短いカットを繋げていき、最後のキメのカットを、つまり撃つ方と撃たれる方をワンカットの中で処理する。


ワンカット(長回し)が目的化しちゃってるんじゃなくって、長回しで生まれてくるダイナミズムこそが目的である。そしてそれを、スタッフやキャストがよく理解している。

感情がフレームの外に広がっていく。それは、「自分たちの地続きのところにいる人」というリアリティを生みだす演出のこと。


などなど。


「アクション」による興奮を提供するには、その、脚本段階からしっかりと“撮り方”“見せ方”を練りこんでおくこと、ということと、同時に、実際にカメラの前に俳優さんが立った時に、つまりいざ撮影するという段階で、演出側が、そこにふさわしい「動き」を発見できるかどうか。
いやぁ。
ハードルは高いんでしょうけどね。



ま、勉強になりました、と。そういう「講義」でした。

実は、その前の日に、ちょうど「続・夕陽のガンマン」を観てたのもあって。
それもあって「フムフム」の連続でしたね。


篠崎監督の、「自主製作時代に、こういう作品を作りたかったんだけど、なかなか出来なくって、それが今になって作れるようになった」という言葉も印象的でしたね。
「静かな人間ドラマでも良かったんだけど」という。
実は、当時の自主製作の世界の先行世代が、ちょっと目の上のタンコブみたいになってて、こういう作風はイマイチ評価されてなかった、みたいなことも言ってて。(いや、ちょっと詳細と意図は違う感じかもしれませんでしたけど)




いやしかし、なんていうか、こういう「講義」って、とても面白いんだから、もっともっとオープンな場でガンガンやっていけばいいのにね。
雑誌の誌面だとか、映画ファン“業界”の中だけでやってるのは、もったいない。ホントに。

例えば、“動画”とトーク(あるいはテキスト)の組み合わせっていうのは、それがウェブ上にあれば、これはホントに相性が良いコンテンツとなるワケだしね。
まぁ、著作権の問題もいろいろあるんだろうけど。
でも、身近な監督さんの作品とかを使っても全然「講義」は出来るだろうし。“教材”として使われることが作品自体の商業的なアピールにもなるんだろうし。

ま、そんな話は蛇足ですね。

俺が知らないだけで、こういうのって、すでにたくさん行われてるんだろうしね。それで今のところの需要が満たされてるなら、それはそれでいいのかもしれないし。


というワケで、この辺で。
一応、こちらの“参考物件”もどうぞ。>>>こちら


あ、最後に。
藤田陽子さんって、キレイですよねぇ。好きです。


2008年12月8日月曜日

「ラウンド・ミッドナイト」を観る

ジャズ映画の名作「ラウンド・ミッドナイト」を観る。


まぁ、映画作品としてよりは、ジャズファンにとってのカルトムーヴィーみたいな扱いなのかもしれませんねぇ。
いい映画ですけど。

ハービー・ハンコックが作曲賞を獲った作品ですけど、彼もバンド・メンバーとして出演しています。(なかなか演技は上手い)


多分低予算というのもあったと思うんですが、特に前半のパリでの、暗鬱とした展開が続く部分では、ホントに地味な画がずっと続きます。
狭い部屋、狭いクラブ、狭いステージ、狭い客席、狭いアパート。

が。
ストーリーは、“愛”と“信頼”によって、主人公が蘇えっていくという風に展開するんですが、それに合わせて、画もカラフルさを「取り戻して」いく、という。

途中途中で挟み込まれる8ミリの映像も素敵だしねぇ。
特に、海岸での3人のショットはいいです。そんなに長い時間じゃないんだけど。


あとは、なんだろ・・・。
やっぱり、ディテールの微妙な部分が、ジャズを、というかジャズ史を少しかじってる人じゃないと分からない、というトコがあるのかなぁ。
麻薬のディーラーがウロウロしてたり、とか。(当時、彼らにとってジャズプレイヤーというのは最重要な顧客だったりしたんですよ)


でも、セリフも普通にカッコいいんだよね。
特に、酒を断つと決心するシークエンスは、超クール。



それから、もう1人の主人公(デザイナー)の、奥さんとの関係ですかね。「私は霊感じゃなかったの?」と。
作中で「霊感」と訳されているのは、「インスピレーション」ですね。
彼もアート系の職業なワケで、仕事のためには、そういうものが必要になってくるワケで。
彼が、老ミュージシャンを立ち直らせる過程の中で、彼自身も刺激を受けて、つまりインスピレーションを受け取るようになって、仕事が認められていく、という。
奥さんとの生活の中からは、それは得られなかったワケですね。
うん。
そういう意味では、見方によってはちょっと切ないかもしれませんね。


でも、なんつーか、「愛」もアートなのかもね。「愛」というか、「恋愛」というか。「結婚生活」というか。
でも、「アート」だから、易々と、他の「アート」に取って代わられてしまう、というか。
逆に言うと、それを両方ともは、得られない、というか。


まぁしかし、いい映画ですよ。
もちろん、音楽も。


個人的には、主人公が“失踪”しちゃったシークエンスの、緊張感を演出するための曲が、最高にクールでした。
サウンドトラック、欲しいなぁ。



ちなみに、個人的な「ジャズ映画」のベストは、「ジャズ・ミー・ブルース」という作品です。あんまり有名じゃないけどね。




2008年12月6日土曜日

偽ドクターの成り上がりストーリー

新聞に面白いニュースが載ってたので、ご紹介します。
千葉県で、65歳の「偽ドクター」が捕まった、というニュース。驚くことに、30年近く、他人の医師免許を使って「医師」として働いていたんだそうです。

すごいのは、自分の奥さんや子供たちにも、自分の仕事を明かしてなかった、というトコ。つまり、ずっと周囲を欺き続けてきた、と。


“経歴”を、箇条書きに。
・高校卒業後に、職を転々とする。65歳ですから、五十年近く前ですね。1960年前後。
・77年ごろ、人工植毛会社に勤務。毛髪の専門治療を行う高知県の病院に派遣される。そこで当時の院長の医師免許をコピーする。
・80年ごろ、東京の巡回健康診断の健診車の運転手として勤務。
・この後、問診などの医療行為を始める。
・86年ごろ、船橋市の診療所に非常勤の整形外科医として雇われる。


「医師」としては、カルテや医学書を見たり、勤務医の診察を観察して“独学”した、ということで、多分、健診車のドライバーとして働いてた頃に、側で見ていたんでしょうかね。
多分「これなら俺でも出来る」って思ったんでしょう。どっかのタイミングで。
あ、でも、ワリと早い段階で医師免許のコピーを入手してるから、結構前から“狙ってた”のかもしれない。


勤務状況と収入についても、けっこう凄いです。
・診療所で、整形外科医として週一回(月曜日)。これで月30万ぐらい。
・他の日は、診療所が派遣元になっている企業の巡回健診。これで年間1000万。
・船橋市夜間休日急病診療所の当番医。これは、1回の夜間勤務で7万~10万。
・トータルで1500万以上、だそうです。


本人のコメントとしては「最初はただカネが欲しかった。高収入が得られ、やめられなくなった」。
そりゃそうだ。
整形外科っつーことは、まぁ、だいたい打ち身とか捻挫だもんね。あと、タンコブとか。
骨折とか、もっと重傷の患者さんは、診療所みたいな小さなトコには行かないし。逆に風邪とか肺炎なんかは、内科とか小児科が扱うんだけど、そっちはさすがにちゃんと勉強してないと診察できなそうだし。


ちなみに、この診療所では、なんと「最古参」になっていたらしいです。採用時の院長さんはもう亡くなっていて、そういうトコも“発覚”しなかった原因らしい。



すごいよね。たまにこういうニュースって、あるけど。
あと、それこそテレビドラマのネタにもなってるし。アメリカのドラマでは、こういうのって結構多い気がする。
アメリカって、多分、州境を越えて「まったく別人になる」みたいなのが、ワリと発想しやすいのかも。



でも、よくよく考えると、働いていた会社が「人工植毛会社」っていうのも、ウケる。
要するに「ヅラ」の会社だもんね。
「毛があるように欺く」ためのアレですから。カツラって。
「毛」だけじゃなくって、もっともっと大規模に欺いていた、と。


うん。
なかなか深いストーリー。


というか、“主人公”のワリと屈折した感じの、「心の闇」的な部分にフォーカスしたら、それなりに面白いストーリーになりそうな気がします。



え?
しませんか?

2008年12月5日金曜日

小津さんについて。「自然主義でなく・・・」

新聞に、ドナルド・リチーさんという人のインタビューが載ってまして。


リチーさん(リッチーさん?)という方は、有名な方らしいんですが、俺は知りませんでした。
もっとも、顔と名前を知らないだけで、この人の文章にどこかで触れたことはあったのかもしれませんが。
ま、それはさておき。


友人の川喜多かしこさんに誘われたのは60年のことでした。松竹の大船撮影所で小津安二郎監督の「秋日和」の撮影を見学できるというのです。最も敬愛する監督だったから、喜び勇んで出かけました。


原節子の母と司葉子の娘が、伊香保温泉の旅館で会話する場面の撮影でした。全部で7分ほどの場面のために立派なセットが組まれていた。やっぱり小津組は別格なんだと感じました。
ところが、どうも様子が変なのです。2人の会話なら、ふつうは片方の位置から相手の芝居をまとめて撮り、次は反対側から同様に撮って、編集で一つにつなぐもの。でも、小津組の撮り方はまったく違いました。
役者がひと続きのセリフを言うごとに、「カット」と小津さんが声をかける。しかも撮影の厚田雄春さんにカメラの位置を変えるよう指示するのです。「もう1センチ、いやもう2センチ上かな」。
非効率きわまりない。うまくシーンがつながるのか心配になりました。
女優はその間じっと待っています。これから感情が高まる場面なのに、これで芝居ができるのか。案の定、司さんは泣く場面で涙を流せませんでした。戸惑う彼女に、小津さんは言いました。「涙はいいから。こうやって顔を覆ってごらん」
完成した映画を見て驚きました。バラバラに見えたカットが、独特のリズムをもって息づいている。微妙な構図の変化が情感を際立たせている。スーラが無数の点で絵を描いたのと同じことを小津さんはしていたのです。
自然主義ではなく、技巧を尽くして真実に迫る――日本映画の美学について大きな教えをうけた体験でした。

にゃるほどねぇ。


前に、是枝監督の講義を受けたときに、悲しく見える演技が出来ないなら、そう見えるように撮ればいい、と是枝さんが言い放っていたのを、結構強烈に覚えていて。
多分、同じことっスね。


「自然主義ではなく、技巧を尽くして真実に迫る」。
けっこうスゲェ言葉。心に刻みます。

2008年12月3日水曜日

作品を書きました

えー、先月ずっと書いてた作品を、HTMLで見れるようにしたので、良かったら読んでみて下さい。


タイトルは『 ReMind 』。
1時間ものなので、原稿用紙だと60枚の換算になります。



「つまらん!」というのでも結構ですので、感想も、是非。



こちらから >>>ReMind

2008年11月24日月曜日

「明日に向かって撃て!」を観る

ポール・ニューマンとロバート・レッドフォードの、というよりも、アメリカン・ニューシネマ期の屈指の名作「明日に向かって撃て!」を観る。


まぁ、傑作とか言いつつ、実はただ逃げ回ってるだけなんですけどね。2人が。
落ち目の2人が、なんだか惨めに追われまくって、そして死ぬまで、と。

老いを感じながら、顔も知らない追っ手を恐れながら、愛する女を捨てながら、最後には、言葉も通じない国で、無数の弾丸を撃ちこまれて死ぬ、という。
ただの愚かな犯罪者の物語。


じゃあ何がこの作品を傑作にしているのか。




何なんでしょうねぇ。ホントに。




部下を守ることすら出来ず、自分の女を守ることすら出来ず、泳ぐことすら出来ず、スペイン語を話すことすら出来ず、ただ自由に生きて、ただ死ぬだけの物語。




まぁ、P・ニューマンがメチャメチャかっこいい、というだけの理由では、ヒットもして歴史にも残って、という評価は得られませんからね。


じゃあ何か。


「そういう物語」を描いたから、という風にしか、俺としては言えないんですけど。
ま、ホントに素敵な作品ですよ。


音楽とか、あとは普通に、アメリカの西部のあの大地の広さとかも含めて。



あ、あと、改めて思ったのは、人間関係がシンプルなんだな、という部分。
なんせ、敵役の保安官は最後まで顔が出てこないし、ボリビアの警官や軍人たちにいたっては、言葉が分かりませんからね。
余計な説明はしないし、それはイコール、余計なカットを撮らない、ということだし。


で、その追跡中のシークエンスの構図は、いちいち、勉強になりますな。ホントに。



うん。
まぁ、感想っつってもこんなもんス。


2008年11月23日日曜日

「アモーレス・ペロス」を観る

「バベル」で思いっきり考え込んでしまった、イニャリトゥ監督のデビュー作「アモーレス・ペロス」を観る。


いやぁ、しかし、これはホントに、凄い作品だなぁ、と。改めて。
ホントに好きっス。

特に、闘犬場から自分の車へ犬を運んで、また戻って、ナイフで刺して、また車へ走って逃げて、を、ワンカットで見せるあのシークエンス。痺れる。ホントに。



で。

とりあえず、「バベル」はやっぱり、メッセージとしては若干後退してんじゃねぇのか、と。そういう風に思いました。やっぱり。

この作品の3人の主人公、つまり、若者(少年と青年の間ぐらい)、中年、老人の、3人の男が3人とも、最後は独りになってしまう、という結末に、俺は震えたのであって。
そして、「孤独」であることの悲劇性が一番強いはずの、老人が、「また会いに来る」という“メッセージ”を残して、そして、地平線に向かって“自分の脚で”歩き出す、という、そこの部分こそが、この作品の核だと思うんですよ。
「アモーレス・ペロス」とは「犬のような愛」という意味らしいんですけど。


犬のように愛し合い、と。
犬のように殺し合い。

そして最後は、犬としてではなく、ヒトとして泣け、みたいな。
「犬のような愛」が失われて初めて“ヒト”になる、とか、そんな感じ。

この作品のメッセージって、そういうことなんじゃないのかな、と。改めて、ですけど。



「バベル」はなぁ。なんだろうなー。
絶望の深さというか、不条理の質というか、そういうのが、いまいち弱い気がするっちゅーか。
自分でも上手くこの違和感みたいのをぴったりくる言葉で表現出来ないんですけど。


「21グラム」で描いた、真っ暗闇の泥沼から最後に手を伸ばしてギリギリで這い上がってくる、みたいな希望の描き方とも、ちょっと違うし。


う~ん。
いや、「アモーレス・ペロス」の感想じゃなくって「バベル」の感想になってますけど。

うん。普通に、「バベル」だと、「で、その三つが繋がってどうする?」みたいな感覚もあったりするんですよね。正直。「意味あるか?」みたいな。
まぁ、繋がってるからこそ「バベル」っていうタイトルなのかもしれませんが。
でも、別に繋がってなくても言いたい事はきっちり言えるんじゃねーの、とか。
いや、そういう話じゃないっスね。
やめます。



「アモーレス・ペロス」も、「三つの物語」に分かれているという形になってるんですが、実は正確には、「四つ」なんですよね。ガルシア・ベルナルのお兄さんの物語が、実はちょっと独立した形で、ちゃんとあって。
個人的には、結構そのシークエンスが好きです。

自分の奥さんに暴力を振るってしまったり、職場でガンガン浮気しちゃったり、強盗を働いてたり。
彼は彼なりに、自分が背負わされてしまっている不条理と闘ってるワケで。





その、なんていうか、要するにシナリオがいいってことなんスけどね。
これは、イニャリトゥ監督が書いてるんじゃなくって、別の人が書いてるんですけど。(「バベル」もそう)
だからまぁ、イニャリトゥ監督についての話じゃなくって、シナリオを書いた人についての話なんですけどね。延々書いてんのは。



しかし、よくこんなシナリオ書けるよな。ホントに。
それは、テーマもそうだけど、構造的にも。

あの、子犬が床下に迷い込むエピソードなんて、ほとんどギャグの世界に近い。というか、普通に考えたら絶対に思いつけない発想だと思うんですよ。

でも、作品中の全てのトピックが、結末に向かって、どれもしっかりと機能してるワケで。



その、あまりに深すぎるシナリオを、情け容赦なく、エネルギッシュに、正確に(時には無理やり)描ききる、イニャリトゥ監督、と。




いやー、なんだかグチャグチャの文章になってしまいましたね。
お恥ずかしい。
でも、ご勘弁を。


機会があったら是非観て下さい。ホントにいい作品ですので。


2008年11月21日金曜日

「ナイロビの蜂」を観る

フェルナンド・メイレレス監督の「ナイロビの蜂」を観る。


ちなみに、原題は「The Constant Gardener」。「ナイロビの蜂」は、意味が全然分かりませんね。「純愛ストーリー」みたいな意味合いを持たせたい邦題なのかもしれません。でも、イマイチ。
それならそれで、もっといいタイトルがあったんじゃないかなぁ、なんて。

まぁ、イマイチな邦題については、さておき。


舞台はケニア。主人公は、そこに赴任しているイギリスの外交官。
で、ざっくり言ってしまうと、主人公の奥さんが殺されてしまい、なぜ殺されてしまったのかを主人公が追うサスペンスの形を借りて、ケニアというアフリカの国の「貧困」とその地で行われている「搾取」と「不正義」を告発する、と。そういう作品です。


で。
正直、この、殺されてしまう奥さんのキャラクターに、個人的にまったく感情移入出来ず、そのまま見終わってしまった、と。
とにかく“イタい”人なんですよ。この奥さんというのが。登場したところから。

しかし、その美貌とキャラクターで、周辺のあらゆる男に愛されまくる、という。


ストーリーをドライヴさせる“動機”として、主人公は自分の妻の不貞というか、裏切りというか、そういうのを疑ってたりするワケですね。
段々それが明らかになって、なんていうか、純愛というか、「愛の物語」的に展開していくんですが、まぁ、なんちゅーかねぇ、と。
主人公のキャラクターというのは、原題で「ガーデナー」と言ってるぐらいですから、要するに、庭いじりが好きな優しい男、ということになってて、まぁ、美しいけどイタい妻に振り回され、裏切られてるんじゃねーかと疑いながら、仕事も追われることになり、なんだかんだで、という感じでストーリーが進んでいくんですが。
その、あんまりサスペンスの部分は、ね。正直、全部期待通り、という感じで。
あの腐敗の感じは、個人的には、既知な部分だし。



いや、ホントにねぇ。
あの奥さんのアレがねぇ。


例えば、“リアル”アンジェリーナ・ジョリーみたいに、夫にひっついて行った赴任先で、現実を直視することで“目覚めて”活動を始める、とか。まぁ、ベタっちゃベタですけどね。
でも、ああいう女性像を描きたかった、ということでしょう。


ついこの間、最新作「ブラインドネス」のプロモーションで来日してて、テレビで喋ってるのを観たんだけど、「自分はフェミニストだ」って言ってたんで。
まぁ、そういうことなんだろうな、と。


しかしねぇ。
主人公も奥さんも、イギリスじゃ、普通に「ちょいセレブ」みたいなクラスですからねぇ。ケン・ローチやマイク・リーに言わせりゃ「なんじゃそりゃ」ってなモンじゃないっスか?

いやまぁ、そういうことでもないか・・・。


うん。それはさておき。



いい作品だとは思うんですけどね。ホントに。
カメラの感じとか、メチャメチャいいし(こういうの大好きです。マジで)、映像は超キレイだしクールだし。
そもそも、テーマと、それを語るために作られた構造も、素晴らしい。


しかしっ!


最後の最後まで、ね。
入り込めない自分がいました。それはもっぱら、主人公の奥さんのキャラクターが、理由です。

メイレレス監督、ゴメンなさい。



あ、あと、最後に「サッカーをしている姿」で真犯人を示唆している、というシナリオは、いいですね。
これ、ホントに分かる人しか分かんないんでしょうし、ひょっとしたら、単なる俺のカン違いかもしれませんけど。
でも多分、そういう意図で、最後のショットは作られてるんだと思います。



いい作品なんだけどなぁ。

2008年11月20日木曜日

たまには「ほぼ日」も読む

えー、たまには「ほぼ日刊イトイ新聞」を読んだりもしまして。


今回はたまたま、梅田望夫さんという方が「召喚」されて、糸井さんと、任天堂の社長さんの岩田聡さんと、三つ巴でくんずほぐれつしてるんですが、せっかくなんでそこから、参考になる部分でも。


岩井 あの、私の経験から言うと、あるプロジェクトが上手くいく時って、理想的なリーダーがすべて先を読んできれいに作業を割り振って分担して、その通りにやったら出来ました、という感じの時ではないですね。

糸井 ああー、そうですか。

岩田 まぁ、とくに、僕らの仕事は、人を驚かせたり感動させたりすることですから、事前に理詰めで計画を立てることが難しいというのもあるんですが。一方で、どういう企画が上手くいくかというと、最初の計画では決まってなかったことを、「これ、僕がやっておきましょうか?」というような感じで誰かが処理してくれる時。そういう人がたくさん現れるプロジェクトは、だいたい上手くいくんです。逆に、そういう現象が起きない時は、完成したとしても、どこかに不協和音があって、ダメなんですよね。

糸井 「ただの完成品」が出来ちゃうだけですからね。

岩田 ええ。で、Wiiを作っている時なんかは、「ここがちょっと問題だから、やっておきましょうか」っていうことが今までのハードの中で一番多かったような気がするんです。きっと、そういうムードが出来てたんでしょうね。

糸井 面白いですねぇ。

岩田 あと、全体の方向性の話で言うと、Wiiの開発チームでは、開発のごく初期の頃から「Wiiはこういう機械にしたいんだ」っていう話をもの凄くたくさんしてたんですよ。だから、「こうありたい」というイメージはけっこう共有されていたと思うんです。そのうえで、現実的な問題が起こりそうな時に、誰かが発見して、自然と解決していくという感じで。

糸井 それも、「思わず解決しちゃう」んだろうね。総体がいい方向に向かっている時は、「問題があると解決しちゃう」といういい反応が連鎖してるんだと思うなぁ。



で、「そういうムード」を作るためには、つまり、「思わず解決しちゃう」という反応を引き出すためにはどうしたら良いか、という部分で。
梅田さんは、(いつものように)オープンソースについての例を引いて語っております。
正確には、オープンソースという手法を使って「Ruby」というソフトを開発しているまつもとゆきひろさんという方の言葉、ですね。
あくまでオープンソース・ソフトウェアの話ですから、あくまでヒントなんでしょうけど。

梅田 僕は、「Ruby」というオープンソースのプログラムを作ったまつもとゆきひろさんという人に「オープンソースの秘密」について伺ったことがあるんですけど、彼がとても興味深いことを言ってたんです。どういうことかというと、彼にはまず、作りたいモノがあるんですね。誰かの為に、というのではなく、「自分はこういうものが作りたい」と思って1人でダーッと作っていく。
そうすると、自然に適切な大きさの問題が生まれていくと言うんですね。例えば、自分の作りたいことが、この机いっぱいくらいの大きさだとすると、「この机いっぱいの大きさのものを作る」と宣言して作り始めるんだけど、人間ひとりの出来ることには限界があるから、まあ、一部分だけしか出来ない、と。そうすると、あいつが言ってたのに出来てない所がここにあるぞ、とか、作ったと言うけど欠陥があるぞ、とか、毎日毎日動きを続けていると、適切な大きさの問題が次から次に生まれるんだそうです。で、それさえ生まれれば、インターネット上にはそれを解決する人が現れる。新聞にクロスワードパズルが載っていたらそれを解く人がいるように、それをみんなが解いていくんだと。

糸井 逆に、その問題を、「解決したい」と思わせるように見せるという、魅力的な提案の仕方というのはありますよね。

梅田 そうなんです。だから、まつもとさんが言ってたのは、とにかく動き続けること。彼自身が動き続けていないと、新しい問題が生まれないんだと。だから、自分が止まっちゃうと、みんな他のプロジェクトに行っちゃうんです。



っちゅーことです。まぁ、ちんぷんかんぷんの人は、今日は勘弁して下さい。



で、今日はもう一つ。
「亀とアキレス」で、糸井さんの奥さまと夫婦役を演じた、北野武も「召喚」されてます。
もちろんここでは、演出論と、それと対になってる演技論についての部分を、ご紹介。

糸井 たけしさんの場合、演技する自分の他に、監督やってる自分っていうのがもう1人またいるわけで、たとえそれが自分の監督作品じゃないとしても、芝居やってる自分に対して点数つけますよね、きっと。その場合は、本気でやってる方が監督目線で「いいんじゃない」って言えるのかな。

たけし ウーン、人の作品に出る時は自分の芝居をどこに持っていくのかがちょっと複雑でね。本気でやって、その監督がOK出すかどうかはまた違うと思うわけ。

糸井 なるほど。

たけし だから、基本的には、さっき言ったように監督がOK出すような芝居をするの。あんまりやりたくない仕事を義理でやってる時は、極端に言うとリハーサルから、手抜いていて、本通しぐらいから力入れて、本番で、こう、気持ち入れた振りをするみたいな。

糸井 それでも、周りからは分からないし、監督もOKが出せるわけだ。

たけし ウン。でも、ホントは、本気でやってOKが出るのが一番気持ち良いんだよね、役者にとっては。

糸井 ああー。

たけし だから、黒澤(明)さんに、色んなこと言われまくって、仲代(達也)さんたちが「うーん‥‥」って悩んでたりするのもさ、アレ、本気でやってるわけじゃなくて、黒澤さんがいちばん気に入る演技を調整してるだけだと思うわけ。

糸井 それを見つけていくプロセス。

たけし ウン。だから、分かんないけど、「OK」って言われても、ホッとするだけで、あんまり達成感はないんじゃないかな。だって、人のOKに合わせるのは、気持ち良くないんだもん。

糸井 あー、じゃあ、監督としてのたけしさんは、芝居をやる人に、その気持ち良さを、出来たら味わって欲しいと思ってやってますね。

たけし ウン。ある程度ね。

糸井 「好きにやんなよ」っていうスタンスで。

たけし ウン。で、その人が好きな形でやって、それがオレと合わない人は、最初から使わなければいいだけの話だからね。

糸井 ああ、そうですね。

たけし 幸い、ずっと監督やってきて、「あの人の演技の方がいいな」とか、そういうことは言えるようになったから。だから、そういう風にして、役者以外も決まっていくから、「組」ってのが出来るわけで。

糸井 いわゆる、「北野組」がね。

たけし そうそう。ソレって、カメラマンのクセであったり、照明さんのクセであったり、けっきょくは好き嫌いがあって、好き同士が集まるのが「組」だから。役者もスタッフも、必然と同じ人になってくる。


ということでした。
たまには「ほぼ日」も読むと面白いよね。



2008年11月17日月曜日

「アイランド」を観る

マイケル・ベイ監督、主演はユアン・マクレガーとスカーレット・ヨハンソンの「アイランド」を観る。


主人公が、クライアントのDNAを完コピしたクローンで、その為の「培養施設」から脱出して、というストーリー。
説明するとちょっとややこしいんですが、クローンには、架空の“歴史”と“記憶”が刷り込まれていて、そこに疑問を持ったことから始まる、と。

ストーリー上に、幾つかポイントがあって、ひとつめはその、記憶が捏造だった、という部分ですね。「マトリックス」や「トータルリコール」と同じ感じ。

2つめが、主人公が、クライアントに臓器を提供したり、代理で妊娠・出産したりするために作られた、オーダーメイドのクローンだった、という部分。で、その“コピー”に過ぎないクローンにも、DNAの提供者であるクライアントの記憶が宿ってしまっている、と。そこはあんまり強調されてないんですけど、結構ポイントだと思います。

3つめが、逃亡した主人公の2人を追跡する、黒人のエージェント。彼の登場シーンが超クールで、「うわぁ、カッケー」なんて思ってたら、最後に、彼のポジションが反転して、という。個人的には、この展開が一番良かったですねぇ。「焼き印」がキーになってて。

その、クローンの立場が、ナチスに迫害されたユダヤ人たちのメタファーにもなってたりするんですね。
強制収容所のガス室だとか、解放されたシーンなんかも、そうだし。

クローンの置かれた立場を、民族的に差別されてきた黒人やユダヤ人のメタファーとしても描いてる、と。

そういうポイントを押さえてる、ということで、実はそれなりに深みのある作品だったりして。




というより、この辺をもっと深く描けば、全然違う作品になり得る「テーマ」ですよね。
なんせマイケル・ベイですから、そういう、優れたテーマや設定なんかも丸っきり、惜しげもなく、カーアクションやら空中戦の為に消費しちゃうんですけど。(まぁ、それで全然いいんですけどね)


でも、「ハンバーガーになる前の牛を見たいか?」とか、クローンのクライアント(当然、ユアン・マクレガーが二役で演じる)が全然“善い人”じゃなくって、とか、その辺の細かいところも良かった。

S・ブシェミーが出てくるあたりは、結構、雑な流れだけど。



やっぱり、「クローンの記憶」って、面白いトピックだよな、と。
「記憶」については、それが捏造可能であり、外部から“インストール”することも可能だろう、ということになってきてるし、さらに、個人を取り巻く環境、つまり「世界全て」が丸ごとニセモノで(シミュレーテッドリアリティ)、という設定も、物語の素材としての有効性はますます強くなってるしね。



うん。
いや、実はこの作品で“消費”されてしまっているアイデアって、上手に使えば、もっと全然違う作品が作れるな、と。もちろん、もっとずっと低予算で。シリアスな感じで。
この「アイランド」自体が、そういう「既存のパーツ」で造られてるストーリーだし。
そういう意味でも、面白い作品でした。



あ、あと、やっぱりスカーレット・ヨハンソンは綺麗だね。
“ファーストキス”という設定は、彼女にピッタシですね。ホントに適役。




2008年11月16日日曜日

「エピソード4 新たなる希望」を観る

パチンコのダースヴェーダーが出るCMを見たら、なんだか観たくなっちゃったので、「スターウォーズ」を観る。


まぁ、面白かったですね。ホントは「指輪物語」を借りようと思ってたんですけど。
「指輪物語」は、また次ですね。


感想は、特になし。
ま、改めてどうこうってアレでもないですもんね。


2008年11月14日金曜日

「バベル」を観る

アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の「バベル」を観る。


この作品は、実はワリと最近観て、その時感想を書けなかったもんで、せっかくなんでもう一度、ということで。観ました。


書けなかったのには理由があって、要するに「う~ん」と唸ってしまったからなんですね。
「これってどういうことなんだろう」と。首を捻っちゃったりしちゃって。


いや、やっぱり、一つの映画としては、素晴らしいんだと思うんですけどね。賞も幾つも獲ってますし。


しかし、と。
俺にとっては、実は結構問題作かも。

テーマはずばり、ディスコミュニケーション。コミュニケーション不全、と。タイトルは当然「バベルの塔」を指すワケで、「神」によって、バラバラな言語を話すようになってしまった人間たちは、二度とひとつにまとまることはなかった、という。

作品では、「神」が制裁を下すきっかけになった、「神への挑戦」(としての、塔の建設)にあたる部分や、お互いの言葉が分からなくなってしまった瞬間だとか、そういうことは描かれてませんよね。

人は既に、お互いのことを理解することが出来ず、その“不全”を、延々と描く、と。



例えば「アモーレス・ペロス」や「21グラム」は、ホントに傑作だったと思ってて。
特に「アモーレス・ペロス」は、個人的にはホントに衝撃的だったんですよ。

そこで描かれていた(と、俺が受け取った)のは、なんていうか、絶対的な孤独、というか。
「人は孤独なんだ!」という“前提”の圧倒的な肯定感、というか。「絶望」とか、そういうモノを前にして、ただただ1人で震えるしかない人間の姿、というか。
砂漠のようなところに、放り出された人間。そこでは、自分の日本の足で立つしかないのだ、と。自分の足で歩くしか、前には進めないのだ、と。
その、「1人で立つしかないのだ」という慄然とした事実を経て、初めて、目の前の、例えば“愛する人”だとか、“家族”だとかと、心を通わせることが出来るのだ、と。
「徹底的に孤独であること」を引き受けることで始めて得られる、他者との、ある「関係性」。



この作品では、あんまりそういう深遠な苦悩の深みみたいなところには、誰も降りていかないんですよね。
いや、あくまで俺がそう受け取ったってことですけど。そういう気がする、というだけです。そこはあくまで。


前二作での、もうホントにどん底というか、暗闇の淵の一番底から、ホンの一筋の細い光を頼りに(うん。まるで「蜘蛛の糸」みたいに)、もがきながら絶望に屈しないように闘う姿、というのが、そこまではない、というか。

う~ん。でも、そんなこともないのかなぁ。


いや、でも、なんかそこのところは、ちょっと後退してる気がするんですよ。


ただ「ディスコミュニケーション」のシチュエーションを描いてるだけじゃないの、という。極論しちゃうと。



とにかく、テーマは「ディスコミュニケーション」。
アメリカ人とモロッコ人。メキシコ人とアメリカ人。日本語と日本語手話。

日本人の“善意”のプレゼントが、子ども同士の無邪気な意地の張り合いによる偶発的な銃撃を生み、その混乱が、息子の結婚式のために帰国しようとするメキシコ人家政婦の身に降りかかる、と。
その、三つがグルッと回って繋がってる、というのは、よく分かるんですけどね。

ただ、最後の結論が「家族」というトコに落ち着いちゃってないか、というのあるし。
メキシコ人の家政婦は、迎えに来た息子と抱き合うし、日本人の聾の女子高生は、裸で(これは、幼年期に帰る、というメタファーってことでいいんでしょうか?)父親に寄り添い、アメリカ人(ブラピ)は、息子の声を聞いて涙ぐみ、と。

日本人の刑事は、おそらく独身なので、“家族”がいなくって、独り、新宿の思い出横丁(a.k.a.しょんべん横丁)のカウンターで酒を飲む、と。その日に出会った女子高生のことを思いながら。



そういう結論でいいの?
まぁもちろん、俺が主旨を間違って受け取っちゃってる可能性もあるんですけど。


ハッシシで気持ちを落ち着かせ、エクスタシーで精神を高揚させ、みたいな、要するにそういうのを使って言葉の壁を超える、みたいな描写もあるし。
そういうことかい? と。(さすがにソレは違うとは思うけどね)


観光バスに乗ったアメリカ人たちのシークエンスは、マジで良かったけど。
あの胸くそ悪さは、マジで監督のメッセージなんだと思うな。
そういう意味でいうと、日本でのシークエンスは、全部ダメ。それはしょうがないんだけどね。俺がしょんべん横丁のあの辺を良く知ってるっていうのもあるから。それは。



人間は、お互いに理解なんか出来ないんだよ。それは、話している言葉が違えば、当然。
同じ言葉を話す、すぐ近くにいる隣人同士でも、机を並べているクラスメート同士でも、それは無理なワケで。

例えば「トラフィック」や「メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬」では、お互いに違う言葉を話す(しかし永遠に隣人同士である)アメリカ人とメキシコ人の相克と、それを乗り越えたり克服しようとする「個人個人」の姿が描かれたりしてるワケです。
そこでは、隣人同士ですら、ということになってるワケで。ましてや、アメリカ人とモロッコ人なんて、という。
その、自分の言葉が通じないからっていう「途方に暮れる」感を描いてるワケじゃないでしょ? それが目的じゃないでしょ?



いや、それこそが描きたいテーマなのか? 実は。





あー、でも、そうか。
「アメリカ人の観光客」というのが、「バベルの塔」ってことなのかな。
世界すべてを自分たちの庭みたいに思っている、みたいな。それを「傲慢」だって言ってるのかも。
それなら、あの銃弾は、「神」の制裁なのかもしれないね。
トルコ人の村人たちに怯える、アメリカ人の観光客たちっていうのは、「神」によって言語をバラバラにされた人間たちの姿なのだ、と。


でもそれなら、メキシコ人たちの結婚式の幸福感の描写は、どういう風に解釈すればいいんだろう。
あの結婚式から砂漠の中を彷徨うところに落ちてしまうシークエンスっていうのは、無常というか不条理というか、そういう感じを作中で一番受けるシークエンスだと思うんだけど。


あれは、あの“幸福”な状態が、国境の検問でのやり取りで、つまりディスコミュニケーションで破壊される、ということなワケだけど。
“幸福”すらも、不条理に破壊してしまう、と。そういうこと?
でも、それじゃ、ガルシア・ベルナルが飲酒運転で、という意味合いがなくなってしまうしね。不条理感を強調するなら、あれは宴の次の日(酔いが醒めてから)でもよかったワケだから。



モロッコ人(これは多分、アフガニスタンの代替だと思うんですけどね)の生活と、日本やアメリカ人の生活を対比させてるのは、当然意味があるハズなんだけど、「神」の制裁は、モロッコ人に降りかかってもいるワケです。
長男が射殺され、恐らくあの家族は、崩壊してしまうでしょう。





「虚勢を張るな」とか、そういうメッセージってこと?
日本人の、タワーマンションに暮らす親子には、家族が“回復”されるけど、モロッコ人の家族からは、子どもが失われる。


アメリカ人の家族は、長距離国際電話で繋がりを確認することが出来るけど、モロッコ人の家族は、父親が町へ出かけていったら、そこは“父親不在”になってしまう。
アメリカ人の家族の子どもは砂漠で“奇跡的に”発見されるが、モロッコ人の親子は、山の斜面を走る姿を易々と発見され、射殺されてしまう。
メキシコ人の家政婦は、不法入国の罪を問われて国外退去させられ、国境で、歩道の敷石に呆然と座っているしかないが、アメリカ人の夫婦には、ヘリコプターが迎えに来る。(モロッコ人の通訳はカネを受け取らないし)

そういう不条理に、前二作では、そこにも救済みたいのがある、という風に描いてたと記憶してるんですよ。
その感じが、今回はない。


ない気がするんだよねぇ~。


どうなんだろうねぇ? そういうことじゃないのかねぇ?


う~ん。



まぁ、俺の解釈の仕方が間違ってるってことなら、それはそれで別にいいんですけどね。


う~ん。


とりあえず、アレだにゃ。
「アモーレス・ペロス」をもう一度観よう。そしたら、何か分かるかもしれない。



2008年11月11日火曜日

「善き人のためのソナタ」を観る

東ドイツを舞台にした「善き人のためのソナタ」を観る。

主人公は、東ドイツの悪名高き秘密警察(シュタージュ)の工作員。彼が、標的となった劇作家と女優が暮らす家を盗聴する、という。


それなりに面白かったんですが、なんかパリッとしない感じもあり、なんとも微妙な評価ですね。
ストーリーは、もの凄い単純化すると、超ダイナマイト・ボディの女優を巡って、恋人の劇作家と、“体制”の実力者である大臣と、それから主人公の工作員が、三つ巴で揉める、みたいな構造になってまして。

主人公の工作員は、ケヴィン・スペイシー似の顔と演技と存在感で、なんていうか、いわゆるギークな工作員を演じてまして。
その、ギークが「愛し合う2人」に憧れて、彼らのために自らを犠牲にして頑張る、という。
正直、ピアノ曲「ソナタ」は、あんまり重要なキーじゃありません。この邦題は、ちょっと失敗な感じ。まぁ、この邦題を付けたマーケティング的な理由は、分かるけど。


で、とにかく、主人公が憧れ、自分の人生を犠牲にしてまで守ろうとしたモノは、「2人の間にある愛」だったワケですね。
ここがミソで、「自由」じゃなかった、と。
劇作家は「この国は腐ってる」なんていうセリフを吐くんだけど、主人公は、国家や体制への恨み言は、最後まで語りません。実は最後まで、体制への忠誠心みたいなのは、揺るがなかったりするんですよねぇ。
制裁も、なんか受け入れちゃっているし。

主人公がここで、逃亡を図って捕まって、という展開になれば、壁崩壊のシークエンスなんかも、もっとドラマチックになったと思うし、銃殺ならそれはそれで、それなりの効果があっただろうし。
まぁ、そこは敢えて、ということなんでしょう。より静かなドラマを狙った、という。


個人的には、壁が崩れたあとの、秘密警察が保管していた監視の記録を閲覧するシークエンスが、とても興味深かったですね。
自分が盗聴されていた記録を、改めて読む、という。しかもそれは、主人公が“偽造”した記録だったワケで。
実は、自分の“記憶”を外部から入れ直すことで自分を取り戻す、という、温めているアイデアがあるんですよ。自分が誰だか分かんなくなって、外部に記録されていた“記憶”を、自分の人生として受け入れる、みたいな。
まぁ、それはさておき。


秘密警察にある自分の資料を閲覧できる、という、これは実際に行われていることなんですけど、とりあえずここの部分がとても重要なポイントなんだと思うんです。
実は作品のアイデア自体も、ここから出発してるんじゃないか、と。
ここにもっとフォーカスしても良かったんじゃないかなぁ、なんて。
いや、オスカー獲った作品に、生意気言っちゃいけませんね。



最後に、蛇足ですが。
実は、個人的に「ベルリンの壁」っていうのは、ちょっとだけ思い入れがありまして。
中学の文化祭の時に(確か二年生の時)、クラスの展示で、俺が出した「ベルリンの壁を教室の真ん中に作る」というアイデアが採用されたんですよ。
俺としては、浮かんだアイデアをぽろっと出しただけだったんですが、「それでいいよ」なんて言われながら、それがクラスの展示として採用されてしまって。
言い出しっぺってことで、なんか俺も、色々やらされたことを覚えてます。

で、なんと、「ベルリンの壁に穴を開けよう」ということになったんですよ。当時はまだ、壁は崩壊もなにも、ただ壁として東西分裂の象徴的な存在として、そこにあったんですが。
穴を開けて、東西を行き来できるようにしよう、という。
それから暫くして、マジで壁が崩れたワケです。ニュースであの映像を観た時、家族全員でびっくりしたことを覚えてます。


まぁ、それだけですけど。



東ドイツ。
でもホントに、つい2、30年前の話ですからねぇ。



ファシスト、社会主義、今だとなんだろう、イスラム国家とかかな?
そういう、「自由」を抑圧するモノと、人間は戦ってきたんだなぁ、と。一応、そんな感想もありますけどね。



2008年11月10日月曜日

「バットマン・ビギンズ」を観る

というワケで、「ダークナイト」の前作にあたる「ビギンズ」を観る。


う~ん。
まぁ、「ダークナイト」に向けての壮大なプロローグ、という感じなんでしょうかねぇ。

一応、この作品でバットマンの誕生秘話みたいのを語って、新しくシリーズを始める、ということなんでしょうけどね。
その誕生のストーリーがねぇ。

渡辺謙、なにもしてねぇし。

ポタラ宮ですか? みたいなトコだし。その辺は、マジでダサくて、いまいち。


ゴッサムシティの描写も、CGを多用して、モノレールとか、かなり架空の都市として作りこんでて。
「ダークナイト」では、このやり方での都市の描写はまったくなくて、それが成功してるので、後から観た俺としては、その辺もいまいち。
まぁ、モノレールという設定上、しょうがないのかもしれませんね。


そのモノレールが、20年間の間で荒廃してるっていう描写は、クールでしたけど。それは、社長代理の経営方針のせいだ、みたいな感じにもなってて。


とりあえず、誕生までが長いかなぁ。
「ビギンズ」っていうくらいだから、そこを描くのがこの作品なワケで、それはしょうがないっちゃしょうがないんだろうけど。
バットマンのリアリズムを再定義しよう、という。
面白いトコもあるんだけどねぇ。バットケイヴの設定とか(南北戦争時代から利用してた、とか)、好きですけど。後にバットシグナルになるサーチライトの磔も。


でもねぇ。
チベットで修行するっていって、忍者かよ、と。こちとら、忍者の国の日本人だぜ、なんて。アメリカ人は好きかもしれないけどねぇ。
「悪の組織」で育てられて脱走する、という「仮面ライダー」スタイルも、個人的にはダサいし。



あ、スケアクロウという、元は精神科医だったキャラクターを演じた俳優さんは、良かった。


で、やっぱりリーアム・ニーソンは、いいよね。
彼が出ると、ギュッと引き締まる感じがします。


彼の存在感もあるんだろうけど、リーアム・ニーソンが再登場したあとは、ストーリーがグッと良くなる。
それは、ゴッサム・シティ=ニューヨークってことで、その都市を狙うテロリストとして現れるからなんですね。
それはつまり、「9.11」のメタファーというか、アメリカが世界各地で犯している不正義という罪に対する反撃、ということを語らせて。
バットマンとの戦いが「正義v.s.正義」なのだ、ということを、ちゃんと描くワケです。

これが「ダークナイト」になると、敵は、内側というか、シティの(外部からのテロリストではなく)犯罪者という設定になって、同時に、人間の心の闇みたいのとの闘いになるワケですね。
マフィアの“組織”もそうだし、ジョーカーもそうだし、トゥーフェイスもそう。


「ビギンズ」では、敵は外にいる、と。それを迎え撃つバットマン。
この語り口は、凄い良いと思いました。あんまり徹底されてないのもあって、伝わらない人もいると思うんだけど。
でも、ウェインタワーはモロにロックフェラーセンターなデザインだしね。
モノレールは、「ER」にも出てくる、シカゴの高架を走る電車みたいだけど。
(多分、ゴッサム・シティの描写は、ニューヨークとシカゴを両方合わせた感じで設定されてますよね)



しかし、この「ビギンズ」から「ダークナイト」への飛躍っていうのは、かなり凄い。
「ダークナイト」はホントに傑作だと思うんだけど、「ビギンズ」は、正直、そうでもないから。シリアスな語り口で語るアクション作品、という感じかな。

でも、この飛躍っぷりを考えると、「ダークナイト」は、到達点じゃなくって、絶対に通過点にすることが出来るような気もする。
もっと凄いのが作れちゃうんじゃないの?
なんか、「次回作には躊躇している」みたいなコメントが出てましたけど。そんなことないでしょう。もっと凄い作品が出てきますよ。きっと。


まだロビンも登場してないし、キャットウーマンだってそうだしねぇ。
あとは普通に、スケアクロウをもっと観たい。


そう考えると、「ダークナイト」の次作、超期待っスね。うん。


2008年11月8日土曜日

師匠と一門

NHKの、深夜の再放送で、桂米朝師匠を追ったドキュメンタリーをやってて、途中から観たんですが、惹きこまれちゃいました。とても面白かったです。



個人的には、落語をナマで観た事はないんですが、まぁ、興味はある、というか。
その、人間関係というか、彼らが生きている空間というか。

ウィキペディアの一連の項目が、とても面白いんで、興味がある方は、どうぞ。(>>>こちら


ご本人の人生そのものもとてもドラマチックなんですが、それに加えて、一門が凄い。

ドキュメンタリーの中で、米朝師匠が「弟子を超えたライバル」と言っていた枝雀。
枝雀さんは、「笑い」を極めようとしたあげく、鬱病を患い、自殺してしまいます。

そして米朝さんが「同志」と言っていた吉朝。
吉朝さんは、ガンで亡くなります。師匠米朝さんとの落語会の12日後に。


それからもちろん、ざこばさん。南光さん。

実子の、小米朝。息子さんは、師匠(かつ実の父親)の師匠だった米團冶を襲名しました。

まぁ、俺が知ってるのは、そのくらいまでですけど。(孫弟子、曾孫弟子も、もちろん、沢山います)



で、一門を率いて、上方の落語そのものを「復興」した、というストーリー。
弟子を大勢育て上げ、「これで安心」みたいなことを言って。「ここから落語が滅びるなら、それは、落語という芸の運命だ」みたいな。
芸の「復興」っていうのは、これは生半可なことじゃ出来ませんからね。
まず、無形ですから。それから、一つの“産業”として成立させる、ということでも。



弟子を従えて、その弟子とのやり取りを聴かせる「よもやま噺」という会がドキュメンタリーでも紹介されてたんですが、その受け答えが、また面白い。
弟子が悶絶するような、粋で洒落てて、とにかく笑っちゃう感じ。




落語の一門といえば、立川談志率いる立川流とか、まぁ分かりやすい例でいうと(落語じゃないんだけど)ビートたけしの下のたけし軍団とか、破天荒というか、そういう、いかにも「厳しさ」みたいなイメージを持っちゃってたんだけど、米朝さんは、そんな雰囲気でもなく。


うん。



大きな師匠と、それを支える一門の弟子たち。
ドラマチックだと思いました。

2008年11月7日金曜日

「マイ・ブルーベリー・ナイツ」を観る

ウォン・カーウァイ監督、ノラ・ジョーンズ主演の「マイ・ブルーベリー・ナイツ」を観る。


いやぁ、ウォン・カーウァイ・イズ・バック!!!という感じでしたねぇ。あの王家衛が帰ってきた! という感じ。

王家衛監督初の英語作品というで、まぁ、誤解を恐れずに言えば、「恋する惑星」のあの感触が戻ってきた、という感じ。個人的には。
かなり低予算で作られてるっぽいし。


しかし、いい映画だ。

話としては、なんてことのないストーリーなんだけどね。

こんなシナリオを書いてみたいよね。ホントに。


切れ味のいい短編小説を読んだ後、みたいな感じ。余韻をずっと楽しむ、みたいな。
ストーリー自体が、主人公のノラが2つのエピソードに巻き込まれ型で語られる、みたいな形になってて、ノラ自身のストーリーと併せて、全部で三つのパートに分かれてて。
まぁ、全部いいですよ。ストーリーは。


あとは、ショットがいちいち、クール。
一番好きだったのは、最初のシークエンスで、ノラが“遅刻”した夜の、ジュード・ロウがノラを待ってるトコ。あれは一応監視カメラの映像ってことになってるんだけど。カウンターの中に座って、そわそわしながら入り口を見てる、というヤツ。


まぁ、「恋する惑星」に戻った、ということで、ノラがフェイ・ウォンなワケだけど、警官のトニー・レオンとフェイ・ウォンが出会ったのも「お店」だったし。
それから、次のシークエンスでは、ノラと「警官」のエピソードが出てくるしね。

個人的には、ノラの唇ががっちりフィーチャーされてて、嬉しかったです。
王家衛っていうのは、かなりフェティッシュに女性を撮る人で、作品云々とは別に、その辺がツボだったりするので。今回のノラの唇のショットも、最高ですね。


しかし、ホントにスタイリッシュに撮る人だよなぁ。
ちょっと、呆れてしまう程、というぐらい。


ノラもいい。
ふんわりした存在感で。
繊細なんだけどエキセントリックじゃなくって、カワイイんだけど美しすぎるって感じじゃなくって、清楚って感じもなくって(鼻血も似合う)、地に足を付けた普通の女の子なんだけど、かといって普通過ぎる感じでもなくって。
自意識を上手く剥ぎ取った王家衛の演出もあるんでしょうけど。でも、ノラというミュージシャンが最初から持ってた資質なのかもしれないな。
自分をさらけ出すことに慣れているのかもしれないし、逆に、そうやってさらけ出すことの意味とか価値とか効果を知ってる、とか。
まぁ、装飾を削ぎ落としたスタイルのミュージシャンですからね。
いや、素晴らしいです。あと、普通に声が素敵なんですよねぇ。良かったです。



うん。ナレーションも、王家衛のスタイルですから。


う~ん。感想っていっても、こんなモンかなぁ。
あんまりグダグダ語らせない、というのも、王家衛の作品の性格の一つなのかもしれませんね。

ホントに、いい作品でした。


次作は、どんな方向になるんでしょうかね。


2008年11月6日木曜日

「バイオハザード」を観る

ミラ・ジョボビッチ主演の「バイオハザード」を観る。
この間読んだ、大塚英志さんの「ストーリーメーカー」で紹介されていたので、勉強がてら、観てみました。


ちなみに、大塚英志さんの本では、こんな感じ。

言うまでもなく原作はコンピューターゲームであり、映画としての水準は映画史に残るか否かといったものではありません。しかし、ゲームが原作であるが故に、かなりシステマティックにストーリー開発が行われたのではないかと推察されます。
分析してみる限り、キャンベル/ホグラーの(物語論)かなり身も蓋もない援用のように思え、メッセージをすっぽりと欠いた「物語」だけがそこにある印象を持ちます。
もっともぼくは、中途半端に何かポリティカルなメッセージを「物語」に背負わせるよりは、構造しかない空洞の物語の方に好意をもちます。
映画『バイオハザード』はその意味で「物語の構造」にのみ忠実な作品なのです。


というワケで、まぁ、「物語の構造」論的に言えば、という作品でした。
「行って帰る」「賢者・贈与者」「使者・依頼者」「敵対者」「偽の主人公」「主人公のシャドウ」などなど。

勉強になるな、ということで。




で。作品自体の感想も、一応。
まぁ、ミラ・ジョボビッチが、とにかくキレイですよね。ホントに。
それに尽きる、という感じで。美しいっス。
脚キレイだし。

演技はイモみたいに感じちゃうけど。でも、そんなこと、この作品に関しては関係ないワケで。
ミラが闘いまくってれば、それでいいんですからね。


あと、音楽が良かった。効果音も含めて、すごい効果的で。
原作のゲームは、俺は全く触れたことがないんで、分からないんだけど、ひょっとしたら、関係してるのかもしれませんね。

音楽は、トレンド的に言えば、全然最先端じゃなくって、良くないんだけど、演出としては、もの凄い効果的なサウンドでしたね。
これはグッド。良かったです。


ということで、まぁ、続編があるんですが、別にって感じスかね。「ストーリーメーカー」と併せてどうぞ、という感じです。


2008年11月5日水曜日

富野由悠季監督が吠える

「コンテンツ」を扱うイベントでの、富野さんの講演録がネットで紹介されてまして。
ミクシィやはてなでも取り上げられていたので、チェック済みの方もいると思いますが。
ここでも、抜き書きの形でご紹介。



 デジタルやインターネットが決定的に有利なのは、マンツーマンの作業が可能だけれど、そのスタッフが目の前にいる必要がないという部分
。それ以上の機能は基本的に認めたくないと思っているぐらいです。便利だから全部利用するのはいかがかと思うが。技術は全否定しているわけではないということも了解していただきたい。


 チームワークやスタジオワークは決定的に重要です
。こういう所に集まって仕事しようとしている人たちはほとんど我が強いんです。隣の人の言うことは絶対聞きたくないという人がほとんど。だからダメなんです。お前程度の技能や能力でメジャーになれると思うな、なんです。

 宮崎駿は1人だったらオスカーなんか絶対取れませんよ。個人的に知っているから言えるんですが。彼は鈴木敏夫と組んだからオスカーが取れた。組んだ瞬間僕は「絶対半年後に別れる。こんな違うのにうまくいくわけがない」と思いました。知ってる人はみんなそう思ったんです。

 それがこういう結果になったということは、あの2人が半分は自分を殺して半分は相手の話を聞いたんです。みなさん方も、お前ら1人ずつじゃろくなもの作れないんだから最低2人、できれば3人か4人。スタジオワークをやる気分になってごらん。そしたらあなたの能力は倍、3倍になるはずだから。オスカー取りに行けるよ、という見本をスタジオジブリがやってくれているんです。

 当事者はそういう言い方しないから脇で僕がこう言うしかない。宮崎さんが公衆の面前で「鈴木がいてくれて助かったんだよね」と本人は絶対言いません。どう考えてもあの人、1人では何もできなかったんです。「ルパン三世」レベルでおしまいだったかもしれない。本人に言ってもいいです、知り合いだから。

 そういう時期から知っているから、そこでの人の関係性も分かってますから。我の強い人間のタチの悪さも知っています。みなさんもそうですよ。隣の人に手を焼いているとか、「あいつがいなけりゃもっと自由にできる」と思ってる人はいっぱいいるだろうが、若気の至りでそう思ってるだけだから。

一番目指さなくちゃいけないのは、34~35までに、40になってもいいと思うけど、パートナーを見つけるべきだということです。もっと重要なのは、その人とキャッチボールができるフィールドを手に入れていくこと

 ビジネスを大きくしたいなら、そこで必要なのはチームワーク。悔しいけど相手の技量を認めるということです。僕は例えば安彦君の技量は全部認めます。あの人の人格は全部認めません。大河原さんの技量は認めません。大河原タッチは大嫌いです。でもそれは絵のタッチのこと、デザインはまた別です。「惚れたら全部正義」と思うのがいけない。何を取り入れて何を捨てるか、ということをしなくてはならないんです。

 僕の場合はサンライズという制作者集団があって、その上にフリーの人間が乗っかって1つの作品を作るという構造があったから良かったと思います。1人の人間の365日の生活費を保障するのはとても大変なことです。ですからそういう関係でない、スタジオワークを完成させていくということはとても大事なことです。



特に最後の部分がポイントですね。フリーの人間が、サンライズという組織の上に乗っかって作品を作ったから、良かった、という。
スタジオという技能集団がいて、富野由悠季という頭脳が、その技能集団を手足として使って、自分の頭の中にあるアイデアを具現化していく、と。
その時に、スタジオが求める「商業性」と、頭脳であるクリエイターの「作家性」を、同時に成立させる、という感じでしょうか。

映画でも、スタジオ・システムとか、プログラム・ピクチャーというのがあって、そういう環境から名作が生まれる時っていうのは、「頭脳」と「技能集団」が同じように機能してる時だと思うんですよね。

その、スタジオワークという意味で、チームワークが大事なのだ、と。
コミュニケーション能力が高くない人が多いですからね。とにかく。それは、世代的な特徴としてもそうなんだろうし、この分野にいる人の特徴ということでも、そうだし。


それから、富野さんのインターネット評も、面白い。「ツール」としてのみ、評価する、という。
うん。
究極的には、ウェブっていうのは、そういうものだからね。
だから、本質突いてますよ。富野さんは。


2008年11月2日日曜日

「物語の構造」論

アスキー新書から出てる、大塚英志さんの「ストーリーメーカー」という本をご紹介。




世の中に存在している「物語」には、ある「構造」というのがあり、その「構造」を分析し、理解しよう、と。まず。


「物語の構造」というのは、実はかなり以前から興味はあって。(まぁ、当然っちゃ当然なんですけど)


で、この本では、その「構造」の説明と、同時に、「構造」を利用して、実際に「アイデアの欠片」から、ストーリーを構築してみよう、ということが説かれています。
「構造」というのは、ある「定型」のことを指すんですが、その「定型」を、構成する要素ごとに分解して「機能」を説明し、さらに、その「定型」に沿って、新しい“オリジナル”のストーリーを作ってみよう、と。(正確には、「ストーリー」ではなく、「プロット」というモノを作ることになるんですが)


「構造に従って書く」ことに対して、自分の固有性を制限され作り手として個性が奪われると感じる方もいるかもしれませんが、このような「肉付け」や「選択」の中にこそ、より明確な作家性が具体的に発現するとぼくは考えます。

「物語の構造」から物語を創作する、という行為は、自分の固有性の発露として「表現」を試みたい人々には、生理的に受け入れがたいものだと思います。
ぼくは個人的には作り手の自意識がただ投げ出されただけの「自己表現」に、殆ど意味を見出せません。その種のアートや文学にありがちな「自意識」は、「物語の構造」によってバイアスをかけられ、鋳型にはめ込まれ、ようやく人様にお見せ出来るものになるというのが、本書の立場であるのは言うまでもありません。



ぼくが申し上げたいことは良くも悪くも「構造」は容器に過ぎない、ということです。
そこに補填される個別の物語によって、時に「構造」は歪み、変形し異質のものに変わりさえします。そもそも村上春樹がそうであったように、「構造」で結ばれるところのパーツは借用品のジャンクであっても何の問題もなく、「構造」も約束事としてあらかじめそこにあるものです。
けれどもそれが個別の作り手によって個別に物語られる時、そこに固有の物語はそのつど成立します。



と、そういうことですね。

本格的に(つまり、アカデミックに)物語論や「物語の構造」論、創作論を学んでいない俺としては、機会があれば、こういう“理論”に触れてみたいと思っていたんです。前々から。
まぁ、本屋のその手の書棚に行けば、そういう内容の本は、それこそ沢山あるんですが、パラパラめくって、その度に、持った手から棚に戻して、と。度胸やら根性やら決心やら、あとは普通にお金がなかったりして(時間も)。

それともちろん、俺自身が、「自分の固有性の発露」をしたいとただ考えていた、ということも、あります。
「構造を持つモノ」として「物語」を学ぶ事、つまり「構造から創作する」方法を学ぶ事は、自分自身の「固有性」が損なわれる結果に繋がるんじゃないか、と。
やっぱり俺も、そう思っていたんですよ。


もちろん、今でもその考えは、俺の根本にあって、別にそれを捨て去る、ということでもないんですけどね。


でも、まぁ、いい機会だし、ということで。


いや、とても面白い本でした。ホントに勉強になります。


2008年10月31日金曜日

「ダークナイト」を観る

銀座シネパトスへ出かけていって、「ダークナイト」を観る。


いやぁ、傑作。まぁ、そういう風に言われてましたけどね。
その通り。素晴らしい作品でした。

実は、前作の「ビギンズ」を観てなくって、例えばバット・モービルが登場したときにはホントにびっくり。
超クール!
この“新型”の造形って、前作からなんですってね。

個人的に、東京・八王子出身なもんで、ちょうど中学時代、バットマンビルというのが出来て、そこに飾ってあったバット・モービルの実物大のレプリカを目にしていた人間としては、“新型”の登場には二重の驚きでした。
うん。そういう意味では、前作を観てなかったのが、かえってよかったのかも。驚きが大きい、という意味では。


で、もうひとつ正直に白状すると、「コイン≒トゥーフェイス」ということも忘れてたんですよ。
今回は、マジでストーリーにハマり過ぎて、途中までマジでジョーカーだけだと思ってました。えぇ。


で、その、トゥーフェイスも含めた、タイトル「ダークナイト」の言葉のダブルミーニングが素晴らしいですよね。


さて。ホントに圧倒されちゃって、色々ありすぎちゃって書けないぐらいの感じなんですが、ひとつづつ。
とりあえず、ストーリーのスピード感が凄いですね。
これは、受け手の側が持っている情報量の多さ(バットマンについて知らない人はいませんから)を最大限に利用したストーリーの作り方をしてる、というのが大きいんですね。
まぁ、俺みたいに、うっかりコイントスについての“裏”を知らないヤツもいたりするんですが。

例えば、バットマンというキャラクター自体を説明しないといけないとすると、表の顔はブルース・ウェインで、超カネ持ちで、両親が殺されて、とか、スーパーマンとは違って超能力は無い、とか、そういうことを描かないといけないんですが、今作では、そういうのは一切なし。(当然ですけど)

で、大事なのは、他の部分でも、そういう、いわゆるありふれたのギミックを徹底的に使うことで、「余計な説明」を省いてるんです。
“組織”という言葉、イタリアンマフィア、倉庫で行われているマフィアの会議、マフィアと同じテーブルに座っている黒人のギャング。チャイニーズマフィアと、その表の顔である中国系企業。
警察の腐敗、腐敗の告発、それによって受ける脅迫。
マネーロンダリングという言葉や、投資ファンドという言葉、などなど。
そういう細かい設定の背景を、いちいち説明する事はまったくしない。全て、自明のこととしていく、と。
なおかつ、その量がハンパないワケですね。

コミックという原作からの情報と、それ以外の部分の、いわゆる現実の世界からの情報と。
例えば、冒頭の銀行強盗で、あのマスクが映っただけで、観る側は「あ、ジョーカーだ」と分かるワケです。一発で。
バットマンがショットガンをぶっ放したら、それはニセモノだ、ということも分かるし。
中国人の企業家が出てくるのも、ごくごく自然に感じれるし、登場する弁護士が、その強欲さゆえにバットマンを窮地に追い込む、とか、そういうのも、現実社会の情報を受け手が既に持っていて、それを作り手側がコントロールしてるワケです。
イタリアンマフィアというのは、これはちょっとアレなんですけど、「他のファンタジー」からの流用なんですね。つまり、現実の世界の情報とはちょっと違う。だけど、それも使う、と。

まぁ、東浩紀の言い方を流用すれば、「データベース消費」という言葉になるんですが。
受け手が共通して持っているデータベースを“参照”しながら、物語を語る、という。



ということで、その情報量で、ストーリーをブーストさせる、と。
これは完全なカン違いだったんですが、個人的には、トゥーフェイスの誕生は次回作への布石なのか、とか思っちゃってて。それくらい、お腹いっぱいだった、と。
もちろん、そんなことはなかったんですけどね。

逆の言い方をすれば、同じ時間の中で、時間軸に沿ってストーリーを進ませるだけでなく、そのストーリーに付随する情報をパンパンに膨らませて、受け手に渡す、と。
受け手側は、ストーリーを追いながら、その裏側にあると認識することが出来る情報をも、同時に咀嚼してるワケです。


ストーリーの分量を増やそうと思ったら、必然的にテンポを上げなくてはいけなくって、つまり、受け手にしっかり説明する時間がなくなるワケです。
だけど、それを逆にしなければ、テンポはあがって、必然的に、内容的に沢山のことを語ることが出来る、と。
トゥーフェイス誕生までで、既に一本分の映画を観た、ぐらいの感じになってる、と。





で。
とにかく、シナリオが素晴らしいと思うんですよ。
ファンタジーとリアル、という2つのフェーズがある、と。で、まぁ、以前のバットマンシリーズ(ティム・バートンのとか、ですね)というのは、ファンタジーに振り切ってたワケです。
当然、コミックが原作ですし、舞台も架空の都市だし、別にリアルである必要は全然ないんで、別にそれでいいワケですけど。
スパイダーマンも、同じ。
で、例えばロード・オブ・ザ・リングでは、完全なファンタジーなんだけど、そこにいかにリアリズムを注入するか、ということで色んなことをしてるワケですね。CGやらなんやらで。スターウォーズも同じ。
そうすることで、ファンタジーが、ファンタジーとしてより強化されるワケです。リアリズムを注入することで。
ポイントは、ここで注入されるのが「リアリズム」である、ということですね。
猿の惑星しかり、ブレードランナーしかり。


この「ダークナイト」を傑作にしてるのは、ファンタジーに注入されているのが、正真正銘の「リアル」である、というトコにあるんじゃないか、と。
もちろん、バットマンというキャラクター自体に、最初からそういう要素が含まれていた、ということもあるし。
それから、最初に挙げた、情報量とも関係してて。つまり、コミックからの情報というファンタジーと、現実社会というリアルに由来する情報。その両方をこのボリュームで見せられると、受け手側は、もう大変ですよ。
没入です。作品に。


その、バットマンではなく、ジョーカーやトゥーフェイスに注目すると、彼らは、もうホントに完全な「リアルな世界」の住人である、という風に描かれているワケです。
レクター博士が空を飛ばないように、ジョーカーも空を飛べないし、ケヴィン・スペイシーのジョン・ドゥやカイザー・ソゼが空を飛ばないように、トゥーフェイスも空を飛べない、と。

彼らはみな、人間の、悪意や強欲や自己愛や恐怖、あるいは人間社会の腐敗や不信や絶望から産み出される存在なワケで。
その、“悪”の背景をどう描くか。
ファンタジーにリアリティを肉付けする、とか、リアルに物語(という名前の虚構)を構築する、とか、そういう方法論とはちょっと違って、既にあるファンタジーと、既にある(当然ですけど)リアルの、両方に立脚してしまう、という。
分かり難くなってますね。

当然、バットマンなんて、現実には絶対に存在し得ないキャラクターだし、世界なんだけど、リアルに、その、バットマンが生きているファンタジーを、引き寄せる、という感じ。



いや、作品の本質から、ズレてますね。



とりあえず、役者陣は素晴らしい。ヒース・レジャーはもちろん、ゴードン警部のゲイリー・オールドマンも、素晴らしいですね。もちろん、検事(そして、トゥーフェイス)役の熱演も。
あと、受刑者役の、あの人。

あの、フェリーの中のシーンはホントに最高だと思ってて、あの群像劇だけでも、どんだけカネかかってんだ、と。カネと、労力。
あのシークエンスを、あれだけ説得力のある演技と画で作る、という、製作陣のエネルギーを感じちゃいますよね。


“アリバイ”作りのためのバケーション、なんていうのも、エスプリ効かせてますって感じで、上手だし。
「香港」と「Phone call」のダシャレは、サブかったけど。


あと、建築現場を“ソナー”で透視するショットの、半透明みたいなCGは、カッコよかった。
あのシーンのスピード感っていうのは、半透明で見せるというのが、結構いい方向に影響してるんじゃないかな。

“エンロン”みたいな、盗聴システムの描写もクール。
あれはまぁ、CIAとかの、対テロ捜査で市民を盗聴していることの、ワリと直球なメタファーにもなってるんだけどね。


ブルースとアルフレッドしかでてこない、あの“ファクトリー”の造形もクールだったしねぇ。
そういう意味では、美術はホントに良かった。マシンの造形もそうだし、CGもそうだし、トゥーフェイスの顔面もそうだし。(ベッドのシーツに血が滴ってるのとか、ヤバイでしょ)


あと、音楽が良かった。かなりシンプルな、というか、古典的な使い方だったと思うんだけど、それがすごい効果的で。
音楽については、DVDでもう一度観るとかした時に、ちゃんとチェックしたいですね。
勉強になるハズ。
あ、あと、クラブのシーンで、かかってるのが変なトランスとかハウスじゃない、というトコも好印象です。



う~ん。
自分で書いてるクセに収拾つかなくなってますね。


この辺でやめておきます。

何言ってるか分かんなくなってますけど、まぁ、いいです。
とにかく、素晴らしい作品だった、と。そういうことですな。


「ダークナイト」傑作です。



2008年10月28日火曜日

「悪霊喰」を観るものの

月曜映画で、ヒース・レジャー主演の「悪霊喰」を観る、ものの、途中で寝ちゃいました・・・。


まぁ、つまらなかったから、と言えばそうなんですが。

作品の内容は、キリスト教の「赦し」とか、異端とか、まぁ、なんとなくそういう感じのモノ。ホラーテイストですが、タイトルからは、もっと悪霊がグイグイ来るかと思ってたんですが、そういう感じではなかったですね。

作品のテーマとか、背景とかは、別に嫌いじゃないんですけどねぇ。破戒僧とかも。


原題は「The Order」。「ジ・オーダー」ということで、意味はちょっとアレなんですが、「注文」とか、そういう意味なハズで。
「告解の注文」とか、そういう意味でしょうか。

主人公が追いかける敵は、依頼者の「罪」を赦してやる、ということを生業としているんですね。
なので、その「依頼」のことなんスかねぇ。まぁ、なにせ、最後まで見てないんで、アレなんですけど。


それとも、うっすら記憶に残ってる映像をラストシーンだと想像すると、その敵役が、主人公に「依頼」していた、ということを指すのかもしれません。確か、後を継げ、みたいなことを言っていたので。


監督さんは、「LAコンフィデンシャル」や「ミスティック・リバー」といった名作の脚本を書いた人。
両作とも、ミステリーの形式を取りながら、謎を解く・追う人間の方の暗闇を描く、みたいな共通点があったりして。
その意味では、この作品にも、ちゃんとその構造は現れてますね。


映像としては、とにかくひたすら暗いんですが、アングルがちょっと特徴的だったかもしれません。あおり、というか、下から見上げる画が多い、と。

それから、「罪」を、CGで具現化した、実体化させて表現してるんですが、それが、マトリックスのあの蛸みたいなマシーンとクリソツでした。何か共通のイメージがあるんでしょうか。



というワケで、寝てしまってスイマセンでした。


明日は、ヒース・レジャーの「ダークナイト」を観に行くつもりです。楽しみ。


2008年10月24日金曜日

「ペイルライダー」を観る

午後のロードショーで、クリント・イーストウッド監督・主演の(ちなみに、製作も)西部劇「ペイルライダー」を観る。

正直、“ペイルライダー”って言葉の意味が分かりません。西部劇でライダーっていうぐらいだから、さすがにバイクじゃなくって、馬に乗ってる人のことだは思うんですが。ペイルって、なんて意味なんでしょうか。
騎士とか、そんな意味なのかなぁ。

今週の午後のロードショーは、まぁ、今週に限らず、テレビ東京はイーストウッド作品のラインナップが結構凄くて、この辺の作品をワリと執拗に放送してくれるんですが、今週は、西部劇。
で、この作品は、イーストウッド本人が監督もして、主演もしてます。

作中の、「中年の親父」と「少女」のプラトニックな愛、というのは、後々の傑作「ミリオンダラー・ベイビー」にも出てくるモチーフですよね。「初老」と「いい歳した女」に変化してますけど。



さて。二十年前に作られたこの作品ですが、いま観ると、ツッコミどころがもの凄い沢山ある、なにげに問題作かも、みたいな感じです。
まず、舞台は、当然西部劇ですから、アメリカの西部なんですけど、ゴールドラッシュ期の、金鉱堀たちのストーリーなんですね。で、まぁ、無法地帯である、と。暴力が幅を効かせている世界。

で。
舞台となる小さな町とその一体を牛耳っている男、というのが登場するんですね。大規模な装置を使って、谷を丸ごと切り崩して金を採掘している、という。
この男が、近くの渓谷で、細々と個人営業で金を掘っている男たちを追い出そうとしている、という話なワケです。
これは、まぁざっくりと言ってしまうと、大企業と個人の対比としてみることが出来るワケですね。もっと解釈を広げると、大企業・多国籍企業と、インディペンデントな個人。

で、「大企業」側は、カネで“力の行使”をしてくれるという、悪徳保安官を招聘するんです。カネを払えば、何でもやってくれる、という。
保安官は当然、「法の執行官」ですから。

つまり、「法の執行」という形の暴力が、私企業の営利の為に行使される、という形になってるんですね。大企業の意図に沿って、「法の執行官」が、個人に対して暴力を振るう、という。
これはモロに、現代の社会のメタファーとして成立しているだろう、と。大企業と行政機関が一体化して、個人を押し潰す、というのは、改めて言う必要がないくらいなアレですから。
つまり、「マネー」と「法が認めた暴力」ですね。

で、イーストウッド演じる主人公は、“個人”の側に立つヒーローとして登場するワケですが、彼は、ちょっと複雑で、最初はアウトロー的な、ガンマン的な顔で現れて、実は「牧師」でした、という形で正体を明かすんですね。
で、最後は当然、彼が保安官を倒すワケですが。
ここで、「信仰」と「暴力」が一致している、ということが示されている、と。

別に、ストーリー上、主人公が牧師である必要は、実はあんまりなかったりするんですよ。
ダークヒーロー然とした主人公が、「実は善の人であった」という構造は、例えば「子連れ狼」でもそうなんですけど、「子連れ狼」では、「子供を連れている」という要素が、「実は~」の部分を示しているんですね。
「親子愛に満ちた人物なのだ」ということですから。
例えば、アウトローみたいな、一見強面の男が、子供が転んだら優しく抱え起こしてやる、とか、そんな感じでもいいワケです。
暴力的な人間っぽいけど、実は本が好きで、インテリで、みたいな。画を描くのが上手い、とかね。ギターを弾く、とか。
ストーリー内で、別に宗教的な何かをするワケじゃないんですよ。主人公が。ただ、カラーをして、飯を喰うときに家族でお祈りをするってぐらいで。

つまり、これはモロに、「信仰」と「暴力」が共存している、ということが言いたいんだろう、と。あくまで俺の解釈ですけど。


で。
最後に、保安官と牧師が激突するワケですけど、ここでは、「マネー+法律」に支えられた暴力と、「信仰」に支えられた暴力との対決なワケですね。


で(“で”ばっかりですけど)。
ここで大事なのは、主人公が寄り添う側も、規模は違えど、同じような金鉱掘りたちである、という部分だと思うんです。

ここで、彼らが、例えば林を切り開いて農場を作ろうとしている開拓民だったり、それこそ宗教的な自給自足のコミューンだったり、ということであれば、もうちょっと美しいストーリーの構図になると思うんですが、結局、個人個人で慎ましくやってる、と言っても、金鉱掘りですから、結局は「山師」なワケですよ。
一攫千金ですから。目指すところは。

事実、ストーリー上でも、あまり美しく描かれてはいないんですね。彼らは。
隣人が小さな金塊を見つけたら、嫉妬するし、色めきたつし、で。
「大企業」に相対させて置かれているワリに、あんまり効果的ではない。

彼らも、基本的な動機としているのは、「マネー」なワケです。「欲望」なワケですよ。
巨大な金塊を掘り当てて、有頂天になって酒を浴びるほど飲んで、結果、調子に乗っちゃって、権力者の怒りに触れて撃ち殺されちゃうし、なおかつそこでは、父親に対して「救いに行かない」という息子の描写があるんです。「せっかくこっちは楽しんでるのに」みたいなことを息子が言うんですね。
つまり、彼らも、なんだかんだで「欲望」がその支えになってる。



悪徳保安官の側は、「マネー+法律」に支えられた暴力。
主人公は、「マネー+信仰」に支えられた暴力。

いや、結構地獄絵図ですよね。こう書くと。



一応、主人公は、牧師の象徴であるカラーを外して、その代わりに、暴力の行使手段である、拳銃とガンベルトを身につけるんですね。
つまり、「信仰」と「暴力」を取り替えるんです。
ただ、ここで大事なのは、取替え可能である、ということと、もう一つ、決して捨て去る、という描写じゃないことにあって。
貸し金庫の中に拳銃があるんですけど、今度は、カラーを、その中にしまうんです。
つまり、再びカラーを身にまとう、つまり、牧師に戻る時があるのだ、ということが示唆されている、と。
「信仰」を捨ててガンマンに戻るのだ、ということであれば、カラーを投げ捨てる、ぐらいの描写があっていいハズですから。
つまり、決して「信仰」を捨て去ってるワケじゃなく、便宜的に脱ぎ捨てているだけであって、いずれまた、その貸し金庫に戻ってくれば、牧師の姿に戻ることが出来る、という。




そう考えると、ちょっと飛躍しますけど、つまり、主人公の抱えるニヒリズムというのは、なんていうか、もの凄い根が深いモノなんだ、と。
最後、主人公は、誰にも別れの挨拶をすることなく、報酬を得るワケでもなく、少女の愛に応えることもなく、ただ黙って去っていくんです。


しかも、もっとややこしいことに、主人公と悪徳保安官との間には、かつて闘いがあったということが示唆されていて、つまり、個人的な復讐、みたいなが動機にもなってる、という描き方がされてるんですね。
「マネー+信仰+私恨」が支えているのが、主人公の暴力なのだ、と。


全然美しくないですよ、これは。
だからこその、ニヒリズム、ということなんでしょうけど。
だからこそ、主人公は、全てに対してニヒリズム的な立場を崩さない、と。それは、自分を取り巻く世界全てに対する絶望、ということなんでしょうか。

保安官と牛耳ってた男の死、という結果だけを残して、結局何も肯定しないまま去っていく主人公、というのは、つまり、信仰も、暴力も、私恨も、愛も、なにも得ないまま去っていく、ということであろう、と。

繰り返しになりますけど、あくまで俺の解釈ですけどね。


長々と書いてしまいましたけど。




あ、映像は、もの凄いきれいでした。色味も、いかにも80年代という感じは全くしないて、シャープな映像だったし。
もちろん、風景の良さもあって、山をバックに立つイーストウッド、なんて、むしろ狙い過ぎな感じ。
セルジオ・レオーネみたいな切れ味はないんだけど、むしろ、演技をしっかり見せる、という、イーストウッド節みたいな、ゆったりとしたカット割っていうのがちゃんとあって。
もっと評価されてもいいんじゃないかなぁ、なんて。

低予算だからでしょうかね。


あ、それから、クリス・ペンが出てます。雰囲気いいですよね。この人は。
ペン兄弟とは、ずっと繋がりがあったんですね。



というワケで、個人的にはツッコミどころが沢山ある作品でした。
巨匠に向かって、生意気ばっか言っちゃって、スイマセンでした。


2008年10月22日水曜日

あ、これ面白いかも

新聞に、BS局が製作するテレビドラマで新しく導入された、メールを使った新しい“仕掛け”が紹介されてたので。

これ、結構面白い試みかも。
BS朝日で放送中の「ラストメール」というドラマだそうです。


ドラマの中で、主演の女性が携帯メールを受け取るのとほぼ同時に、事前に登録した視聴者の携帯にも同じようなメールが届く―。

大学生の主人公(女性)が、連絡のつかなくなった彼氏の家に行くと、携帯を発見。そこに届いたメールを頼りに彼氏を捜すが、そのメールは、死者が「思い残したこと」の代行を依頼する内容だったことがわかる。

視聴者が受け取るメールは、テレビより詳しい文面だったり、主人公が見られなかったメールを先に見られたりする楽しみも。
局にとっては、放送当日の夕方に配信確認のメールを送ることで、視聴を促す効果も期待できる。


なんていうか、ドラマを語る方法論を拡張していくような試みじゃないだろうか、と。ここから上手く発展していけば、というアレですけど。

例えば、いまでも、ドラマのサブプロットをネット上で配信する、みたいのが流行ってますよね。



もうかなり前なんだけど、「ザッピングドラマ」というのが放送されたことがあって。
確かアメリカで製作されたドラマだったと思うんだけど、TBSとフジテレビで、放送は深夜で。
一つのストーリーが、登場人物に沿って、2つの視点で語られて、それが別々の局で放送されて、視聴者は自分で“ザッピング”しながら、好きな方を観る、という。
もちろん、登場人物が重なってるシーンでは、同じ場面が映るし、別々に行動してるところでは、別々のカットが流れてて、同じシーンでも、アングルが違ったり、とか。確かそんな感じ。



画面で、時系列に沿って語られているストーリーをただ受け取るだけじゃなくって、メールやら何やらを使って、他のメディアも使って、その世界に入っていく、と。

特に連続ドラマっていうのは、“中6日”があるワケで。
だけど、この、放送がない時間・期間にも、やりようによっちゃ、視聴者を、ドラマの世界に繋ぎ止めておくことが可能なワケですよね。

「24」は、二十四時間をリアルタイムで追っていく、というのがウリなワケで。「ニック・オブ・タイム」も(観てないけど)確かそんな感じで。

じゃあ、「一週間」をリアルタイムで追ったらどうなるか、みたいな。


誘拐事件とかが起きて、刑事たちが犯人と被害者を追う、みたいなストーリーで、例えば「事件発生の2日後に、刑事の1人が聞き込みで、足跡を一つ見つけてきた」というのを、メールで、「事件が起きた」という回の放送の実際の2日後に流す、とか。

この、テキスト情報が手元に届くだけで、視聴者としたらテンションはかなり上がると思うし。

脅迫状にしても、放送の直前に、その脅迫状の文面がメールで配信されて、ドラマの放送が始まったら冒頭で、その脅迫状が届いて、みたいな。


もちろん、かなり練らないとショボショボになっちゃうのは間違いないんですけどね。



いや、俺がこの場でパパッと思いつくことを書くだけでも、色々アイデアが出てくるワケで。
その筋の人がちゃんと取り組んで力を注いで作ったら、マジで面白いのが出てくるんじゃないか、と。


うん。


いかがでしょうか?


2008年10月20日月曜日

嗚呼、此処ニハ浪漫ガ或ル

新聞に載ってた、「男はつらいよ」の特集記事が面白かったので、ご紹介。
最後の(そして、恐らくは最愛の)マドンナ、リリーを演じた浅丘ルリ子さんのご登場。

浅丘が「寅次郎忘れな草」でさすらいの歌手リリーを初めて演じたのは73年、33歳のときだ。それまでマドンナといえば良家のお嬢さんだったり、貞淑な婦人だったり。
監督の山田洋次から最初に示されたのも、北海道の牧場で働く女性という役だった。浅丘は自分の細い手を見せる。「わたし、こんな手をしているんですよ」
宝石の似合うその手を山田はじっと見た。しばらくして浅丘に台本が届く。「場末のキャバレーを渡り歩く歌手」に変わっていた。
(リリーのセリフ)「ね、私たちみたいな生活ってさ、普通の人とは違うのよね。あってもなくてもどうでもいいみたいな、つまりさ・・・あぶくみたいなもんだね」

浅丘の胸のなかで、渥美は寅さんと分かちがたく生きている。いまも渥美を語るとき、つい「寅さん」といってしまう。
男くさくて粋で不良っぽくて、照れ屋で優しくて可愛くて、そしていつも笑わせてくれた。「私は愛していました。ほかのどのマドンナよりも、愛していました」
リリーがいた(奄美の)青い屋根の民家を、南の島の人々は「リリーの家」と呼ぶ。いま住む人はないが、近所の人が雑草をむしり、掃除する。いつしか、こんな伝説も生まれた。
――テキヤ稼業を引退した寅さんは、この島でいまもリリーと暮らしている。海辺で釣りをする島の子たちに旅の昔話を聞かせている、と。


いい話ですなぁ。



なんつーか、「アリとキリギリス」の話じゃないけど、寅さんはキリギリスなんだよね。
で、歴代のマドンナはみな、アリだったんですよ。キリギリスとアリの恋物語。

そして、葛飾柴又の団子屋さんたちもみんな、アリで。
満男は多分、キリギリスだけど。

寅さんっていうのは、アリに憧れ続けて、アリに恋し続けたキリギリスだったのだ、と。
フラれ続けちゃったワケだけどね。


でも、リリーもキリギリスだったんだよねぇ。


リリーもやっぱり、多分、ずっと、アリに憧れてて、だから寅さんとも何回もすれ違いになっちゃってて。


まぁ、最後に、リリーとの物語で終わって、良かったよね。
今はリリーと暮らしてるんだ、という「物語」を、今も紡ぐことが出来るワケだから。

それは、とても幸福な終わり方なワケで。


「男はつらいよ」、好きですか?
俺は好きっス。




2008年10月19日日曜日

「レイクサイド マーダーケース」を観る

なぜか、土曜の午後というワケの分からない時間に放送されていた、青山真治監督の「レイクサイド マーダーケース」を観る。

とりあえず言っておきたいのは、このタイトルが超クールってトコですよね。原作は「レイクサイド」という小説(著者は東野圭吾)なんですが。
ちなみに、訳したら「湖畔の殺人事件」ってことで、とたんに火曜サスペンスになっちゃうんですが。(確かにキャストもそれっぽいけど)。
でも、「レイクサイド マーダーケース」ですからね。語感がクール。


もう一つ気になったのは、ワリと観る側を選ぶな、ということ。それは、いわゆるリテラシーの有無ってことだけじゃなくって、「世代」じゃないかなぁ、と。

これは、かなり極私的な、ちょっと正直なアレの吐露なんですが、この、青山さんたちの世代の作る映画って、嫌いだったんです。10年くらい前の話なんですけど。
(あ、今は違いますよ)
世代論でっていうのは、俺が勝手にそう一括りにしてるだけなんですけど。
「なんで、こんな小さな物語ばっかりなんだよ」と。映画館に行って、そこにある新作のチラシを全部持って帰って、作品の紹介を読んで、いつもそう思ってて。
まぁ、今なら、その意図や価値や意味や、そうならざるを得ない理由だったりとか、諸々が理解出来るんですが。当時は、そうだったんです。
「友だちが出来ないとか、先が見えないとか、そんな話ばっかりじゃねぇかよ」と、まぁ、そんな風に思ってたんですね。
なおかつ、「そこから先に進んでない」気がしてたんです。ステップアップしていってない気が。別に、監督本人が望めば、同じ場所に留まり続けてもいいワケだし、もちろん、実際は前進・深化してて、それに俺が気付いてないだけ、ということだったんでしょうが、(あくまで)当時は「そこを退いてくれないと、次の人間が出て来れないんじゃないのか?」という感じで。
そんなことをついついポロッと言ってしまったばっかりに、橋口亮輔監督のファンの人とちょっとした口論みたいになったこともあったりして。

いや、全部若気の至りですよ。正直な告白をしてるってだけで、今はそんなことは思ってません。

で、この作品は、4年前に公開された作品なんですが、監督(と、原作者)は恐らく、同世代に向けてこの作品を放ったんじゃないんだろうか、と。「家族」というテーマで。

正直、「親なのに子どもを理解出来ない」なんてセリフ、あんまりピンと来ないんですよね。俺としては。
もちろん、俺に子供が出来たら、また変わってくるんでしょうが。

まぁ、“理解”云々はともかくとして。
その、「“親”とはこうあるべきだ」という規範がまずあって、という物語ですからね。規範に対する葛藤とか苦悩とか。
もうちょっと世代が下ってくると、だいたいその規範自体がもうなくなってたりするワケで。

例えば「積み木ナントカ」でもそうだけど、「家族が壊れていく過程」を描く作品、というのが、ある時代においては、それこそ大量に作られたワケです。「家族ゲーム」もそうでしょうけど。
で、その後には、「壊れた家庭を修復しようとする親」とか、「父親」とか、「守ろうとする母親」とか、そういうのに主題がスライドしてくる。子供が家族を繋ぎ留めようと奮闘したり、とか。
で、この作品では、「せめて外枠だけでは」とか、「崩れている家庭を受け入れようとする父親」とか、そんな姿が描かれる、と。作中、誰も“修復”しようと動いたりはしませんからねぇ。つまり、ここで描かれている家族の姿というのは、既に壊れていて、その状態に誰も何もどうしようない、という。途方に暮れちゃっている感じ。子供すらも。
唯一(正確には、トヨエツも、ですけど)継父だけが、まだどうにかなるんじゃないか、と、無精ひげ面で叫んだりする。
で、それを、「いかにも青臭い」的に描く、と。

個人的には、“その先”に今はフォーカスしたい、みたいな感じなので。


うん。この作品でも、最後にトヨエツが示唆してたりするんですけどねぇ。あの、親たちに浴びせる罵声こそが、実は、次のアウフヘーベンの素となるアンチテーゼ(もしくは、テーゼそのもの)なんだと思うんですが。



と、なんだか生意気口調でつらつら書いてしまいましたが、個人的なアレは、とりあえずここまで。



作品は、まぁ、素晴らしいですよね。昼間にこんなブツを観ちゃったおかげで、今日のバイトは全く身が入りませんでした。

最初の20分くらい、登場人物たちの白々しさを表現する為に、徹底的に「間」を外してるんですね。“最初の”というのは、死体が現れる前まで、ということで、それ以降は、「間」のズレはなくなって、まぁ、ピタッピタッとキッチリ撮っていく、と。登場人物たちも、本音全開になりますからね。
柄本明さんなんか、ホントに気持ち悪いし。(ちなみに、俺はスズナリ劇場の前で、ご本人を見かけたことがあります。なんか、下着みたいなランニングを着て歩いてた記憶が・・・)
それから、黒田福美さんも、そうとう気持ち悪い。顔がキレイなだけに、余計にそんな感じです。

トリック自体は、まぁ、オリエント急行ネタというか、そんなにビックリはしないんですが、やっぱり、その動機ですよね。「血の繋がり」というのが最後に伏線になってくるとは、思ってなかったので。

そして最後の、実は5人が喪服を着ている、みたいになってて。それが、継父の「青臭さ」みたいのを逆説的に浮かび上がらせている、という。
「死んだ人を弔う気持ちはあるのだ。でも」という形になってるワケです。黒い服の5人が林の中に並ぶ姿が。

その辺の、情報の盛り込み方、というか、情念の描き方、というか、まぁ、ビンビンですな。

音楽もクール。調べたら、松尾潔さんが音楽を担当してました。さすがKC。分かってますね。



あ、それから、世代の話に戻っちゃいますけど、実は「世代間闘争」にもなってるんですね。柄本さんが「若いだけじゃないですか」ってセリフを言ってますが、その、死んじゃう彼女の若さが、憎かったりするんだろう、と。
それは、子供たちに対しても、そうだろうし。
自分たちの価値観に対する、若い世代からの挑戦があって、それに対して必死に抵抗している物語でもあるんじゃないか、と。

あとはまぁ、鶴見辰吾と杉田かおるの夫婦役というキャストですよね。これは完全に、同世代へのメッセージでしょう。もちろん、薬師丸ひろ子もそうだけど。



つーワケで、この辺で。昼間にテレビで観たっていうことで、画面がちょっと明るくなってたのが残念ですかね。あんまり“暗闇”って感じになってなかったので。夜中とか、それこそ映画館で観れば、もっと黒味が効いてて良かったんだと思います。
あ、あと、別荘の“汚し”が足りないかな、なんて。いかにも新設したセットです、みたいな外観になってたので。
いや、無理やりケチ付けてもしょうがないっスね。
いい作品でした。



2008年10月15日水曜日

語りたい何かを語る。デジタル技術がそれを可能にする。

新聞に、興味深い記事が載ってたので。
アフリカのナイジェリアという国で、(世界の基準からすると非常に安価で)作られた“映画”が、産業として勃興しかけている、というような記事で。
ハリウッドにちなんで、「ノリウッド」と自称しているらしいです。ボンベイ(インド)でボリウッド。ちなみに、下北にあるヤツはトリウッドですね。

ノリウッド映画は恋愛や家族愛、部族間の争い、立身出世物語、汚職など、ナイジェリアの日常が題材。言語は公用語の英語が大半を占める。
(ある監督の手法は)ビデオカメラ1台を駆使、照明や音響なしで2週間ほどで撮る。ロケ地は近所がほとんど。ハリウッドのような特撮もアクションも、ボリウッドのような派手な歌や踊りもない。題名と同じテーマ曲が流れ続け、場面は大半が室内で、人物の語りが中心だ。

ナイジェリアでは60年代から映画が作られていた。ただ映画館にかかるのは米国の西部劇など外国映画が多かった。しかし80年代のクーデターで経済が崩壊すると、輸入も国内製作も難しくなり、治安悪化で映画館の廃館が続いた。映画監督はテレビドラマに移り、映画産業は消滅しかかった。
ところが90年代に入ると、安価なビデオプレーヤーやVCDプレーヤーが家庭に普及し始めた。高画質で撮影できるホームビデオカメラも発売され、高額なフィルム専用カメラでなくても簡単に撮影できるようになった。
さらに海外で働くナイジェリア人が一時帰国した際、ノリウッドのVCDを持ち帰ったのをきっかけに海外にも広がり始めた。欧州ではアフリカ映画専門のチャンネルがノリウッド映画を取り上げ、ロンドン郊外のアフリカ人が多く住む地区ではVCDが店に並ぶ。アフリカの娯楽に飢えていた世界中のアフリカ人社会で火がついた。



監督の1人「派手な特撮やアクションはない。アフリカの現実を我々の手法で表現する。それがノリウッドなんだ」
「ここでは誰もが映画監督だ。ちょっとした日常の出来事を誰かに伝えたいと思ったら撮ってしまう。無から作り出されるマジックなんだよ」

地元のラゴス大学の教授「安物のカメラで撮った映画は世界から笑い物にされたが、ナイジェリア人は作り続け、デジタル技術の進化で花開いた」

現地の映画学校で教える現役の監督「アフリカ人である利点を生かせ。アフリカ訛りに誇りを持て。ノリウッドには、何かが秘められている。可能性は無限だ」


とのことです。

データとしては、製作費の平均は150万円ぐらいで、年間で約2000本が製作されているんだそうです。市場の規模は450億円、とのこと。
流通メディアはVCDで、150円~300円くらいで売られているんだそうです。

まぁ、その単価や、ナイジェリアの経済事情を想像するに、450億円というのは、これはかなりの規模の産業じゃないか、と。
ポイントは、世界中に流通されている、というトコですね。VCDというメディアの形で。まぁ、海賊版とかの問題もあるらしい、とも書かれていますが。



産業としての側面もそうですが、しかし同時に、製作者たちの力強い言葉ですよね。自身に満ちた。


うん。

映画が誕生して、100年ちょっと。
まだまだ、映画は作られ続け、物語は語り続けられていくのだ、と。世界の何処かで。



良いことだ。


2008年10月12日日曜日

「ソードフィッシュ」を観る

シネマ・エキスプレスで、「ソードフィッシュ」を観る。


結論から言ってしまうと、あんまり面白くはなかったんですが、ちょっと参考になったかなぁ、という感じの、まぁ、佳作ってヤツですかね。
ざっくりカテゴライズしてしまうと、B級アクション映画ということになるんでしょうが、クラッキング(ハッキング)をストーリーの要素の中に取り入れている、という。そこら辺が“新味”ってことなんでしょう。
主人公はハッカーで、彼を中心に、犯罪組織とFBIがいて、犯罪組織も実行部隊と黒幕で対立があって、という風に、色んな人たちが入り乱れる、という造り。
その“人間関係”的には、最後にどんでん返しがあるんですが、そこはそんなにグッとはこないです。というより、つまらない。


ジョン・トラボルタが、カリスマびんびんの組織のリーダーを演じてるんですが、ストーリーの途中で、彼の“本性”というか“動機”というか、“目的”が明かされるんですね。本人の口から。
で、それが、サブい。かなり。
明かされた瞬間、もの凄い空虚な感じになるトコは、逆に面白いぐらいですけど。
最初の30分ぐらいの、「1人目のハッカー」が殺されたり、上院議員がよく分からなかったり、という部分は、結構よかったりするんですけどね。
ドン・チードルだし。


で、ハッカーが主人公ということで、アンチ・システムなハッカー・カルチャーと、(最初はそういう風に見える)ヤクザなアウトローたちの雰囲気(空気感とか、そういうアレ)とが、ワリと上手にミックスされてて、そこは良かったですね。
多分、「暴力」を担当する人たちと、「クラッキング」の人たちを、ちゃんと分けてるのが、上手くいってる理由だと思うんですが。
クラッキングの描写自体は全然カッコ良くないんですが、出身大学の古いコンピューターにプログラムを置く、とか、ちょっと面白かったし。



あとはまぁ、無駄なアクション・シーンが満載で(カネはもの凄い掛かってます)、なおかつハル・ベリーを中心にお色気もたっぷりで、そういう意味でもB級感はばっちり。
あとは、FBI幹部のダメ官僚っぷりや、全く意味なく、広告代理店の会議室が破壊されたり、そういう部分にはライターの意図を感じてしまったり。
まぁ、その辺は、ハッカー・カルチャーに寄り添ってる、ということなんでしょう。



あ、それから、画面の色味で、ずっと黄色が強調されてて、それは印象的でした。冒頭のシークエンスの夕陽の色とか、結構クール。





という感じでした・・・。


2008年10月9日木曜日

香川照之が黒沢清を語る

先週、新聞に掲載されてたんですが、香川照之さんが「出会う」というタイトルでコラムを寄稿してまして。
ちょっと長いんですが、ご紹介します。

1997年の9月は、私にとって不思議な転換点となった。「蛇の道」という小さな映画で、私は黒沢清という男が監督する映画への出演を受けた。

男は同年、「CURE」というホラー作品のヒットで一躍時の人になる。しかし当時の私は、俳優がある演技をする時の「意味」などを監督にいちいち尋ねて「俺は考えてるぞ」的姿勢を過度に示す、若者の誰もが迷い込む落とし穴に深く陥っていて、脂が乗り、映画の手法を知り尽くしていた黒沢清のとってはひどく厄介な存在に映ったに違いない。
黒沢清はそんな私に実に具体的な指示を出した。いや、出さざるを得なかったと言った方が妥当だろう。
「ええと、ここで三秒経ったらあのドアまで歩いて、そこでしばらくじっとして下さい。で、おもむろにですね、こちらに歩いてきてくださいますか。あ、こっちに来る意味は、全然ありません
この、「意味は全然ない」という言葉を、その時私は何度聞いたことか。俳優の動きは「意味」を伴って初めて存在すると信じていたささやかな私の孤塁を、男はものの見事に破壊した。私は言葉を失った。

しかし、である。一つの意味を理屈で懇々と説明されるよりも、「意味はない」と先手を打って言われた方が、俳優という生き物は、非常事態発生とばかりに自分自身の中に自らの行動原理のようなものを急いで探し出し、理屈では想像し得ない直観的動きに瞬時にシフトする場合があることに次第に私は気づき出した。目から鱗、だった。私は、今度こそ本当に言葉を失った。
この作品以来、私は、事前に計算した「意味」を、あるいは計算そのものを演技の中に求めることを辞める決心をした。少なくともそう努めようとした。それが、私が黒沢清から貰った宝だ。


香川照之さんという人は、ご存知の通り、猿之助さんのご子息なワケですけど、その、本人は東大を出ている、という、非常にインテリジェントリィな人間でもあるんです。
まぁ、この、過度に“理屈っぽい”文章を読めば、その人柄がなんとなく分かると思うんですが。



その香川さんが、32歳の時の“出会い”ですね
で、その香川さんの俳優としてのキャリアを見てみると、やはり、この黒沢監督に言われた「意味は全然ない」という一言が、大きな影響力を持っていたんだな、ということが何となく感じられたりして。



だって、昔は「静かなるドン」とかやってた人ですからね。


まぁ、黒沢清偉大なり、と。そういうことで。


2008年10月8日水曜日

空を飛ぶカメラ

今日は、風景を専門に撮っているカメラマンのご紹介。この間は「ミニチュアに見える」風景写真ですが、今日は、空を飛ぶカメラマンです。ちなみに、写真家ではなくって、映像作家です。
DVDも発売されてますが、俺は、テレビのニュース番組かなんかで“作品”を始めてみました。

多胡光純という方です。
モーターパラグライダーという装置で空を飛ぶんですけど。

この浮遊感は、ホントに独特。


ちなみに、モーターパラグライダーというのは、パラグライダーと、モーターで回すプロペラ(背中に背負っている)を組み合わせたヤツです。


機会があれば、観てみて下さい。


2008年10月7日火曜日

「イントゥ・ザ・ワイルド」を観る

新宿のテアトル・タイムズスクウェアで、ショーン・ペンの監督作「イントゥ・ザ・ワイルド」を観る。


月曜の午前中の回だったんですが、お客さんは思ったりよりいましたねぇ。ちょっと不思議な感じもしましたけど、まぁ、悪いことではないっスね。


正直、これといった感想はなかったりして。
もちろん、とてもいい作品なんですけど。

この作品には原作があって、実際に、もう15年以上前になるんですけど、アラスカで若者の遺体が発見されて、その若者について取材して書かれたノンフィクションというのが書かれて、それをショーン・ペンが映画化した、と。
もちろんS・ペンのことですから、自分で製作も兼ねて(つまり、映画化権を買ったりとかも自分でやって)、自分の手で映像化して、と。


とにかく、この、実際にアラスカで死んだ(当時は)名も無い若者の存在が、まず或るワケで。
原作となったノンフィクションも、この作品も、やはり彼の存在(意思と行動、そして死)に対して受けた衝撃みたいなのが、そもそもの始まりなワケで。


欺瞞に満ちた両親の人生に対する疑問。それはつまり、自分のアイデンティティへの疑問になり、両親への憎しみや怒りや、まぁ、そういう諸々となる、と。
それが、アラスカ行への動機になるんですね。

で、その道中を丹念に追っていく、という造りになっているのが、この作品。
ってぐらいの感じなんですよねぇ。

旅の途中の出会いと別れを描いていく、と。


いや、ホントに素晴らしい作品だと思うんです。
映像美も素晴らしいし。(そういう意味では、あの映画館で観たのは、ホントに大正解かも)



ただ、これはホントに正直に吐露すると、自分とあまりにも重なってる部分があって、なんていうか、「痛い」気がしちゃって。
真っ直ぐ観れない。

もちろん、別に「ウチの両親」が、作品と同じような“欺瞞”を抱えていたワケでは、全然ないんですけど。
つまり、動機は全く違うんだけど、やっぱり似たようなアイデンティティ・クライシスを経験してしまっていたので。

結局、俺は“戻ってきた”ワケですが。



まぁ、でも、きっと、ショーン・ペンにも、そういう経験があったのでしょう。
監督に限らず、原作を書いたノンフィクション作家も、映画を評価したような人たちも、誰もがみんな、そういう経験や、願望や、まぁ、それに近いモノを持っていた、と。

そういうことですな。



うん。



そういう、俺にとっては、極めて個人的な部分に触れる(別に揺さぶるって程ではないにしろ)ような作品でした。




2008年10月6日月曜日

そう。日常はかくもドラマチック

新聞には、「投稿」というのがありまして、要するに読者の方の文章が掲載されている、と。
今日は、その中で、ちょいと俺の琴線に触れたモノを、ご紹介。
なかなかドラマチックですよ。


雨が上がったので、1歳半の息子を連れて外へ出た。長靴を履かせて公園へと向かうと、大小の水たまりがたくさんできていた。
まだ話せない息子が「キャー」と歓喜の声を上げ、水たまりめがけて走り出した。いつもは母親べったりだが、私が近くにいることだけを確認しながら、一番大きな水たまりにためらう様子もなく入っていく。
私も幼いころは“おてんば”だった。親の目を盗み、外に出ようとして戸に足を挟み、親指のツメを2度はがした。母親は思い出すだけで肝をつぶすらしい。

その日の夕方、息子ははしゃいで家の中を走り回り、転んであごをドアの桟にぶつけた。大泣きする息子のあごをあげて確認すると、真一文字にできた傷から血が流れていた。
これから先が思いやられると、帰宅後の夫に息子のけがを見せると、夫が黙って顔を天井に向ける。見ると夫のあごにも息子と同じ形の傷跡があり、そこだけヒゲが生えていない。
そうか、両親ともこうなんだ。どうやら、腹をくくるしかないらしい。

いい話ですなぁ。




今日は、もう一つ。
隣に、50代半ばの男性が引っ越してきた。単身赴任で時々家族がやって来る。だが、1人の時でも、がちゃりと玄関のドアを開ける時、必ず「ただいま!」と言うのが聞こえる。私はいつも台所で「おかえり!」と小声で返している。

これもイイ! 映像が目に浮かびますねぇ。
これは恐らく、マンションかアパートなんですね。


これは、単身者用の小さなマンションだと思うんです。恐らく。単身赴任の人が暮らしてるぐらいですから。広くても1LDKでしょう。
つまり、“投稿者”も、単身者の可能性が高い、と。女性か男性かは、投稿の文面からは分かりませんが。


ただし!

これが女性ならば、まぁ、ある程度、ストーリーが浮かんできますよねぇ。この後に続くストーリーが。


うーん。ドラマチック!

2008年10月5日日曜日

模型のような風景写真

2006年の木村伊兵衛賞という写真の賞を受賞して(梅佳代さんという方と同年の受賞でした)、俺みたいな素人でも知ることになった、本城直季さんという方がいまして。


まぁ、作品(写真)を見れば、「あぁ、この人か」と一発で分かると思うんですが。


で、最近、その写真に似た雰囲気の映像(動画)を、チラホラと見かけるようになりまして。


本城さんは、具体的には「被写体深度を浅くして」撮る、ということらしいんですね。


で、こちらの会社では、それっぽい動画に加工します、というサービスを提供してるらしい。
もちろん、カネを払って利用する気はサラサラありませんが、サンプルを見てみると、面白いので。>>>こちら


本城さんの手法っていうのは、なんとかレンズというのが必要らしいんですが、フォトショップにも、それっぽく加工できる機能があるらしく・・・。


動画でやれたら、面白いですよね。
まぁ、実際そう思ってる人が既にいて、だからCMなんかでも使われてるんでしょう。




個人的には、その、フィクションとメタフィクションの境界とか、もちろんフィクションとノンフィクションだとか、そういう区分けに使えないモンかねぇ、と。簡単に言うと、バーチャルとリアル、みたいな。



よくよく考えると、これって、“既に一般化しているモノ”を加工すると“リアルと認識される”みたいなことですよね。
つまり、“写真”という「二次元の描写」を、あたかも実際にミニチュアを見ているかのような、「三次元のモノを見ている時の視界のような写真」に加工するってことですから。

写真っていうのは、人の見ている(認識している)映像とは違う形で現実を切り取るモノですもんね。むかしは白黒だったワケだし。


ま、その辺のゴチャゴチャしたのはいいや。



とりあえず、今日はこれだけ。

2008年9月30日火曜日

ゴルゴっ!

フランスで、とんでもない事件が起きたそうです。

受刑者が刑務所を見下ろす丘の上から狙撃され、殺害される事件が発生した。殺害された受刑者は犯罪組織に関与しており、殺人事件で取調べを受ける直前だった。



なんと、刑務所に服役中の受刑者が、刑務所の外から狙われて撃ち殺される、という。


凄い!


まるでゴルゴ13!


いやぁ、実際にあるんですなぁ。こんな事件が。

2008年9月25日木曜日

メモを幾つか

ずっと作品の感想が続いてたんですが、その間に、新聞の記事で幾つか参考になるトピックがあったので、ここでまとめて書き残しておきたいと思いまっす。


面倒なので、詳細は省略。


まず、「ポネット」を撮った、フランスのジャック・ドワイヨン監督。即興的という演出法について。

「事前の本読みはなしで、いきなり撮影に入る。2つのカメラで同じシーンを15回から20回撮影し、良かったテークを使う。テークごとに役者と話すが、役者が疲れ始めた頃に、まるで恩寵のように突然いいシーンが撮れる」
撮影は必ず脚本の順番に撮る。理由は「映画の進行と共に役者が進化していくから」

「本読み」っていうのは、何を指すんでしょうかねぇ。リハーサルのことか、それとも、役柄についての打ち合わせのことか。それとも単に「本読み」なんでしょうか。
ただ、本番を「15回~20回」もやる、というのは、要するにそれが“リハ”になってるってことですからね。
1回や2回のテイクでいいシーンが撮れることもある、ということなんスかねぇ。ダメな時は、20回でも粘る、という。
まぁ、その辺の真意は良く分かりませんが、「疲れ始めた頃に~」という部分は、ポイントですね。



次は、連ドラで、TBSの「Tomorrow」について。ちなみに、俺は観てないっス。主演は竹野内豊と菅野美穂。いわゆる“社会派”ドラマですね。

病院再生という社会問題を提起しつつ、心のひだに響く人間ドラマに着地できたのはなぜか。リアリティーにこだわりすぎると虚構への飛躍が難しくなりそうだが、「人物の背景や設定がしっかりしていたので、自然に人物が動いていった」と、番組のプロデューサー。

“設定”をしっかり固めておいて、その上で、人物を自由に動かす、という。“自由に”というのは、物語に沿って、ということでしょうね。
「このキャラクターならどうするか?」という時に、「こう動かないとストーリーの構成上困る」というアレではない、と。「キャラクターが自然に動く」ということで。
いや、実際にやろうとなると、これが一番難しいんですが。

「人物の背景や設定をしっかり」作っておく、と。“しっかり作る”とは、リアリティーに裏づけされたディテールのことだったり、“役”を越えた、演じる“役”に対する“肉付け”みたいなことでしょうかね。

うん。難しいですが、これは普遍的な、ストーリーテリングの本質でしょう。きっと。



さて、次は、知り合いが試写でみて「良い」と言っていた、「コドモのコドモ」のレビュー記事から。

コドモたちは役を超えて、自然で真剣だし、演出の萩生宏治は全力投球する。生命の誕生に出会い、映画の内、外、いいも悪いも、なくなってしまう。

だそうです。知り合いは、演出が「ゴツゴツしている」と言ってて、それが新しいって言ってました。
そういう、何かがある作品なのでしょう。



最後に、ジャンピエール・アメリス監督。ちなみに、俺は、この方は全然知りません。

「私にとって子供について語ることは映画を語ることに等しい。しばしば映画に救われていた子供時代の記憶が、そのまま映画の記憶として蓄積されているのです」

イイ話ですな。

俺個人の話をすると、あんまり子供時代の、そういう“映画体験”というのは無いんですね。
ただ、やっぱり俺も、「救われた」クチで。
それは、もうちょっと大人になってから。というより、ハタチを超えるぐらいの頃ですよね。今でも、あの頃みた映画を思い出したり、見直したりすると、色々悩んだり苦しんでたりしていた自分を思い出しますね。


なんて、ちょっとセンチメンタルになったところで、今日は終わり。



2008年9月24日水曜日

「へヴン」を観る

月曜映画で、「へヴン」を観る。


いやぁ、凄い作品でした。2002年公開作品だったということで、観てなかったことを後悔しましたねぇ。

取りあえず、何が凄いって、画の「構図」です。凄い。
パーフェクツ!

取りあえず、冒頭のフライト・シュミレーターの映像で、いきなりびっくりさせられちゃって、で、問題は、その後。
エレベーターの一連のシークエンスが、凄すぎです。マジで。
主人公が乗っているエレベーターが下りてきて、後にそれに乗ることになる親子が、そこに向かって歩いて行くカット。その前の、ビルの壁面を上昇していくエレベーターとか。

とにかく、一つ一つの画の“キマり方”がハンパない。

で、ちょっとデータを調べたんですが、「ラン・ローラ・ラン」で名前を売ったドイツの監督さんです。名前は、トム・ティクヴァ。まぁ、ご存知の方は多いと思うんですが、恥ずかしながら、俺は知りませんでした。ちなみに、最新作は「パフューム ある人殺しの物語」です。DVDが出たばっかりのようなので、さっそく、近いうちにレンタルしたいな、と。

で。
「撮影」がフランク・グリーベという人。ティクヴァ監督の作品全部にこの人の名前があるので、多分、この人とのコンビで監督が作り上げているんでしょう。

しかし、この画の説得力は、ハンパないですよねぇ。


シナリオが、これは別の“巨匠”が書き遺していたモノで、その、時代設定がちょっとボヤかしてあるんですね。
一応、現代のイタリア(トリノらしい)なんですけど、ワリと、トリックというか、仕掛けの部分が古くさくて、下手したらウソ臭さが出ちゃうようなアレなんですけど、この監督の画ぢからで、有無を言わせず納得させてしまう、という。受け手の側を。

映画というのは、物語を映像で“語っていく”ワケですけど、この、「俺はこの話を語っていくのだ」という迫力がある、というか。画面に満ちている、という感じ。それが、ビシビシ伝わってきちゃって。

もちろん、主演のケイト・ブランシェットの凄味もあるんですけどね。
ただ、個人的には、彼女の存在感にフォーカスしたアレはなくって、どちらかというと、画の全体の構図とコミで、良かった、という感じです。

彼女の、無機質な(と、表現して構わないと思います)雰囲気が、硬質なタッチのライティングと、とてもマッチしてて。

無機質な場所でのシーンだけでなく、後半の、イタリアの田舎の田園風景を映すシークエンスも、もの凄い綺麗ですしねぇ。
電車の、トンネルの中のショットとか、最高でした。



う~ん。



これ、個人的に、レンタルじゃなくって、DVD買ってもいいかも。家に置いておいて、たまに見返すぐらいの感じで。
「ラン・ローラ・ラン」もチェックしてみないとなぁ。多分、そうとう勉強になるハズです。


というワケで、観てから24時間ぐらい経つんですが、全然冷静に語れません。


2008年9月23日火曜日

「ヴァージン・スーサイズ」を観る

ソフィア・コッポラ監督の「ヴァージン・スーサイズ」を観る。

ソフィア・コッポラ監督の、これが、デビュー作ですよね。確か。
当時、随分話題になったって記憶してます。


で。
記憶といえば、なんですが。
この作品を観た、知り合いの女の子と、この作品の印象が全く違っていた、という経験がありまして。

彼女も、いわゆる「映画監督志望」だった人で、当然、一緒にいると、色んな作品について話したりするようになるワケで。
で、当時のソフィア・コッポラは、なんつーか、「Xgirl」がどうのとか、スパイク・ジョーンズがどうのとか、グランド・ロイヤルの周辺がどうの、とか、そういう諸々のトピックが、色々あって。
日本の「女の子」に、もの凄い影響力があったんですよ。
で、多分、彼女も、それにモロに影響を受けてて。

で、当然、その、彼女の、この作品に対する評価がもの凄い高くて、その、評価が高いこと自体は、別に俺も納得してたんだけど、観て、受け取っている内容が、俺と全然違っていたんですね。
「あぁ、そうか。そういう風に観るのか」と。なんか、結構、カルチャー・ショックじゃないけど、そういうのがあったりしたんですよねぇ。


どういう事かと言うと、俺なんかは、「語り部」になってる男の子の視線に、完全に同化しちゃうんですよ。
つまり、作中で語られている通り、「彼女たちは何処かへ行ってしまった」と。なんだか、分かんないまま。

もちろん、分かるんですよ。理屈では。彼女たちの自殺(複数形で、スーサイズSuicides となっているところは、ポイントです)の、理由は。
でも、それは、そう語られているからであって、それ以上の何かは、あんまり感じなくて。

ところが、あるタイプの女の子っていうのは、それ以上の“共鳴”というか“共感”というか、そういうモノを感じるみたいで。
最初に死んでしまう女の子についても、作中では、ホンの少ししか触れられないんですが、逆に「それで十分!」みたいに感じる人も、いるんですね。

いや、この作品を否定しているワケじゃないですよ。
逆に、凄いな、と。そう思ってるんですけど。


まぁ、例えば、キレ味が抜群の時のマイケル・マンの凄さを、普通の女の子が、絶対に感じとれないのと同じようなモンで。


この作品のマーケットからは、俺は、疎外されているのだ、と。

だけど、敢えて“誤解”と書きたいんだけど、誤解を生んでいる原因は、作品にもあって。
それは、男の子に“語り部”をさせているところ。
これが、「ロスト・イン・トランスレーション」になると、そういう、「男の目線」からは、観れないようになってるワケです。(「マリー・アントワネット」は、未見なんで、分かりません)

何が言いたいかっていうと、「だからしょーがねーだろ」と。カン違いしちゃっても。



まぁ、でも、なんていうか、ああいう「抑圧」みたいのを、女の子っていうのは、日常的に感じていて、そういう部分に、ソフィア・コッポラの感性が、共鳴してるんだろうな、と。
これはホントに、「だろうな」っていうアレなんですけどね。


うん。
だから、俺なんかが、電話越しに、ポップ・ミュージックのレコードで「会話」するシークエンスにグッときたり、「そういえば、俺にも、あんな頃が・・・」なんて、初めての彼女のことを思い出したり、そういう感想っていうのは、多分、あまり意味のないことなんでしょう。
残念ながら。
この作品は、愛されながら、同時にそれが、束縛であり抑圧である、という、世界中の女の子の為の作品なのだ、と。

女の子に恋したり、愛したり、フラれたり、裏切られたり、なんていう、バカな男の子の物語は、別のヤツが作ればいいんだしね。


と、いうことで。良い作品でした。