2008年2月14日木曜日

「クローサー」を観る

これから書こうと思ってるシナリオの参考のために、たまには恋愛モノも観ようかということで、ジュリア・ロバーツとジュード・ロウとナタリー・ポートマンと、もう一人名前の知らない俳優さんの、4人のラブストーリー「クローサー」を観る。


ロンドンが舞台なんですが、ま、あんまりそこには意味はないっスね。街並みを生かしたショットとかも殆どありませんし。
まぁ、それはさておき。

この作品のシナリオで面白いのは、時間の、長いスパン(1年とか2年)の時間経過が一切表現されない、というところですね。出会った2人が、次のショットでいきなり、何ヶ月も一緒に生活してたり、カットを跨ぐと、結婚してて、しかも離婚の危機に陥っている、とか。

で、ワリとドロドロした泥沼系の“男女関係のもつれ”が題材なのにも関わらず、基本的に“会話劇”として作られているんです。ここも結構なポイントです。

ウィキペディアによると、この作品は、もともとは舞台として作られていたモノだそうで、会話劇であるのも、年月の経過がワリと唐突なのも、頷けるワケですが。


で、この、会話劇の肝である、セリフがとてもいいんですよねぇ。センスが凄い良い。
変に“シャレた”感じを狙った変化球でもないし、かといって、ベタだったり、ただ大袈裟なだけだったり、というワケでもないし。
それから、“行間の沈黙”で語らせるという、ライターにとってはある種の“逃げ”に頼ったりもしてないんですよ。もちろん、名優ぞろいですから、言葉だけじゃなくって、表情や身体はとても雄弁に感情を語ってますが。あくまで、ストーリーをドライヴさせるのは、会話。

特に、ストリッパーを演じるナタリー・ポートマンと、ジュリア・ロバーツにフラれて傷心の医師とがストリップ・クラブの中で交わす会話が良かったです。

会話が、ちゃんと一つ一つの積み重ねになってるんですよ。
唐突にアホみたいに飛躍したりとか、しないんです。
ナタリー・ポートマンが演じている、「エキセントリックな若い女性」というのは、言葉が、相手との会話の最中に脈絡なくポンポン出てくる、みたいなステレオタイプがあって、実はそれは、物語の書き手にとっては“都合が良い”アレだったりするんですが、そういう風にはならないんですよ。
一つ一つ、前後の関係がちゃんと成立してて、それでいて、少しずつ、関係性の深化なり破綻なりに近付いていく、という。
一対の会話の中でそれを成立させるのって、大変なんスよ。ホントに。



映像の質感は、この間観た「抱擁」と同じような感じで、とてもシャープな感じ。現代風、というか。
ま、デジタル機材で撮影したら、いまは、皆、こんな感じの映像になるんでしょう。
もちろん、テレビ画面で観るのとスクリーンに映っているのを観るとは、だいぶ感じが違ってくるんでしょうけど。



それから、俳優たちについて。
ジュード・ロウは、あいかわらず、存在感だけで演技する、みたいな感じで、いいですね。この人は、どこに立っても、どんなスタイルでいても、絶対微妙にフィットしてない感じがするんですよ。「自分の居場所はここじゃない」みたいな。どんな作品でも、そんな感じがするんです。そういう空気感というか。その奇妙な存在感は、凄い良いと思います。
逆に、ジュリア・ロバーツは、見事に、クールだけど実は芯の弱い、押しに弱い写真家、というのを見事に演じてますよね。彼女って、たまに思うんですが、そんなに美人じゃないよな、と。だけど、佇まいというか、“繊細さ”を表現するのが上手いんだよなぁ、と。だから、まぁ、出演する作品を観る度に惚れちゃってますけどね。あの、フェミニンな表情のリアリティは、抜群だと思います。ホントに。
そして、ナタリー・ポートマン。俺が個人的に、彼女の一番好きなところは、後ろ姿の歩く姿なんですね。「レオン」でもそうなんですが。この作品では、ラスト、ニューヨークの入国審査を終えた後の、独りで歩き去っていくショットで、それが見れます。
まぁ、その、ラストでのちょっとしたオチも含めて、実は彼女こそが、この群像劇の中心だったのでした、という。



ふと思ったんですが、この恋愛ドラマは恐らく、“経験者”向けなんだろうな、と。
例えば「失楽園」なんかは、不倫の“未経験者”向けなワケですよ。この作品は、そうじゃありませんよ、と。
“時間の経過”を自分の想像で補わなくちゃいけないのと同様に、キャラクターたちの心象も、実は結構、観る側の想像に委ねられている、みたいなところがあって。試される、というか、ね。そういう意味では“未経験者”には難しい作品だろうし、ま、ある意味では受け手を選ぶ作品ではあるのかなぁ、と。



ま、そういう、“経験者”向けの、良作でした。


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