2008年5月4日日曜日

「花よりもなほ」を観る

ダイヤモンド・シアターで、若き巨匠是枝裕和監督の時代劇、「花よりもなほ」を観る。


ま、“ミスター・リアル”是枝監督の、初の時代劇として話題になった作品ですよね。あとは、ジャニーズの岡田君と組んだってことでも。
が、それゆえに、俺は(勝手に)スルーしてたワケなんですが。


誤解でした。
監督には、謝りたい!


冒頭、最初の20分くらいは、なんていうか、キャラクターがもの凄い“時代”から浮いてるみたいな違和感がずっとあって、「むむむ…」って思いながら観てたんですけどね。
岡田君は岡田君のままだし、古田新太はいかにも古田新太だし、芸人さんはいかにも芸人さんだし、宮沢りえはいかにも宮沢りえだし。
「時代劇でしょ?」みたいな。



でも、途中で気付いたんですよ。
メタファーなのだ、と。



「赤穂浪士」が、イラク戦争のメタファーなんですよ。
イラク戦争というか、ブッシュ政権の、そのイズムのことですよね。
ネオリベラリズムと言われるアレのことではなく、「十字軍」的な、キリスト教原理主義的な、「我々は正義の遂行者である(しかも、世界で唯一の)」という、派兵の精神的な根拠となったと言われている、アレのことです。

赤穂浪士の討ち入りだけでなくって、「仇討ち・敵討ち」「武士道」などなど、全編に渡って、そのメタファーが散りばめられているワケです。
「9.11」の“報復”として、アフガンとイラクへの出兵が行われたワケで、その諸々の全てが、時代劇という“ある種の虚構”に落とし込まれている、という。
綱吉公による「お犬様」の御輿なんて、完全にブッシュ大統領のことでしょ。

しかも、劇中で、入れ子構造のように、「仇討ち」が虚構として演じられるという、手の込んだ仕掛けもありつつ。



そう。
具体的なイラク戦争というもののメタファーではなく、もっと大きな「物語」全体のメタファーなんですね。「仇討ち」を支える思想が、現代の、ある一つの「物語」の。
そして「そんなものは虚構なんだ」と言ってるワケですよ。戯言なんだ、と。“観客”に対してしか語っていない三文芝居みたいなモンなんだよ、と。


「桜が散るのは、来年も咲くからだ」とか、ね。
そんなモンのために、一つしかない命を失ってどうすんだ、と。桜に喩えるのは間違ってんだよ、と。
こんなにラジカルなセリフは、なかなか無いっス。



いや、そういう意味では、ホントにこれは、相当の力技ですよ。



吹き溜まりみたいな、ボロ長屋と、そこで暮らす人々っていうのは、まるで、ニートとかプレカリアートとかの直喩みたいだし。
そして、階層的には最下層の人たちが、そのまま、ブッシュ的な、戦争という「大きな物語」の当事者だったり、もしくは、直接的に巻き込まれてしまう、という現実も描かれていて。



そしてなにより、中盤から突如登場して、いきなり凄まじい存在感を放つ、夏川結衣のセリフ。
「ここから出るときは、今より不幸せになるときだよ」
いつかボロ長屋から脱出したいと願う少女に投げる言葉なんですけど。


それから、「仇討ちだけが生きる道じゃない」という、叔父上の言葉。


ま、この辺が、恐らく、監督のメッセージなんじゃないか、と。
それに賛同するかどうかは別に、「語り切る」という意味では、いや、凄いですよ。


そして、夏川結衣が「その中で生きろ」と言ったコミュニティが、救われた後、しかし最後に、マネタリズムに回収されてしまうというニヒリズム。



生きる道を、自分の手で掴んだ岡田君の、最後の笑顔。
「それでも救いはあるんだ」という。



ま、そんな感じで、ジャニーズを主役に招聘し、松竹と組みながら、そしてエンターテイメントとしての人情劇を装いながら、極めてポリティカルな、まさに是枝監督らしい傑作でした。



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