2008年6月9日月曜日

「デビル」を観る

午後のロードショーで、「デビル」を観る。

ハリソンさんとピットさんのビッグ共演ということで、ま、なんつーか、ワリと一時期(今もそうか?)、W主演みたいのが流行ったんですよね。善悪にそれぞれ主役級のスターを配して激突させる、という。「ヒート」とか「ジャッカル」とか。
バイ・プレイヤーとしての敵役ではなく、悪役にもそれなりの“正義”というのがあって、その“正義”同士の衝突を描く、と。まぁ、絶対的な正義というのがなくなって、全てが相対化されるというポストモダンならではのスタイルなのかもしれません。
なんつって。


さて。
NYのアイルランド系の制服警官をハリソンさんが演じるのに対して、ピットさんは、アイルランドのIRAの闘士の役。
ちなみに、“闘士”でも、イギリス政府側からみたら、100パー、テロリストなんですけどね。
IRAの闘士が、同じ民族の繋がりを辿って、資金と武器を調達しにNYへやってくる、と。



このブログは「映画について」語るモノなので、アメリカの“映画”についての限定ですが、アメリカ映画には、民族的な潮流というのが幾つかあるんですね。“民族的”という言葉が最適かどうかはやや不明ですが。

アメリカで生活する“彼ら”の物語を映画として語るときに、背景に、アメリカの社会と同時に、彼らの“本国”の姿も映し出していくことで、なんていうか、重層的というか、物語に厚みを出す、という。


一番分かりやすい例は、イタリア系ですね。ま、超有名なところでは「ゴッドファーザー」や、スコセッシの「グッドフェローズ」や、アル・パチーノの一連のマフィア物。
「ロッキー」もそう。“種馬”ですからね。


同じように、アメリカ社会には、アイルランド系という移民社会があるワケで。
この「デビル」もそうですし、「ヴェロニカ・ゲリン」という社会派ドラマに、あのJ・ブラッカイマーが製作で入ってたり。
ちなみに、警官という職業にアイルランド系は多いらしく、その手の作品で、パブでビールを、みたいな描写がされているのは、たいがいが、キャラクターがアイルランド系であるという表現になっているワケですね。


それから、特に映画界で力を持っているのが、ユダヤ系。J・ブラッカイマーも確か、ユダヤ系でしたけど。
代表は当然、スピルバーグで、例えば「A.I.」のアンドロイドが迫害されるシークエンスは、そのまま、ユダヤ人の迫害のメタファーになってるワケです。「シンドラーのリスト」や「ミュンヘン」という超名作は、監督自身がユダヤ人全体の歴史を背負ったからこそ生まれた作品なのでしょうし。


当然、アフリカ系アメリカ人たちも、自分たちの為の映画を作りますし。「シャフト」や「スーパーフライ」から、「マルコムX」、「フライデイ」、もちろん「バッドボーイズ」などなど。
残念ながら、黒人たちの作品には、“本国”との関係は希薄ですが。(それは、彼らが“母国”を奪われた、という歴史に因るんですけどね)


中国系というのも当然あって、ま、例えば、ブルース・リーから、ジェット・リーやチョウ・ユンファ。監督で言ったらジョン・ウーやツイ・ハーク。台湾も含めれば、アン・リー。
彼らは、映像的にわかりやすいエキゾチズムというのがあって、それが武器でもあるワケで。カンフーも含めて。


これからは、アメリカ国内でヒスパニックの人口(と、発言力)が増えるのに合わせて、中南米と繋がった作品が作られるんでしょう。
これまでは、どうしても、麻薬の供給地帯だとか、不法移民や犯罪者の母国、みたいな風に描かれることが多かったですけどね。
「アモーレス・ペロス」がそのきっかけになったのかなぁ、なんて。あと、「トラフィック」なんかは、その“繋がり”そのものが作品のテーマにもなってましたね。



と、長々と書きましたが、そういう、映画が作られる背景についても考えながら、「デビル」のような作品を観たら、面白いですよ、ということなんですよ。
アイルランドの内戦についてはもちろんなんですが、アメリカ国内のアイルランド移民たちと本国との繋がりとか。「ジャガイモ飢饉」とか、ね。


というワケで、作品自体については殆ど書いてませんが、実は、そんな程度の、普通のアレです。
冒頭の、フォードさんの顔をなかなか写さないとか、そのくらいで。

とかいいつつ、結構好きな作品なんですけどね。

えぇ。
もう何度も観てる作品の一つです。


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