2008年10月24日金曜日

「ペイルライダー」を観る

午後のロードショーで、クリント・イーストウッド監督・主演の(ちなみに、製作も)西部劇「ペイルライダー」を観る。

正直、“ペイルライダー”って言葉の意味が分かりません。西部劇でライダーっていうぐらいだから、さすがにバイクじゃなくって、馬に乗ってる人のことだは思うんですが。ペイルって、なんて意味なんでしょうか。
騎士とか、そんな意味なのかなぁ。

今週の午後のロードショーは、まぁ、今週に限らず、テレビ東京はイーストウッド作品のラインナップが結構凄くて、この辺の作品をワリと執拗に放送してくれるんですが、今週は、西部劇。
で、この作品は、イーストウッド本人が監督もして、主演もしてます。

作中の、「中年の親父」と「少女」のプラトニックな愛、というのは、後々の傑作「ミリオンダラー・ベイビー」にも出てくるモチーフですよね。「初老」と「いい歳した女」に変化してますけど。



さて。二十年前に作られたこの作品ですが、いま観ると、ツッコミどころがもの凄い沢山ある、なにげに問題作かも、みたいな感じです。
まず、舞台は、当然西部劇ですから、アメリカの西部なんですけど、ゴールドラッシュ期の、金鉱堀たちのストーリーなんですね。で、まぁ、無法地帯である、と。暴力が幅を効かせている世界。

で。
舞台となる小さな町とその一体を牛耳っている男、というのが登場するんですね。大規模な装置を使って、谷を丸ごと切り崩して金を採掘している、という。
この男が、近くの渓谷で、細々と個人営業で金を掘っている男たちを追い出そうとしている、という話なワケです。
これは、まぁざっくりと言ってしまうと、大企業と個人の対比としてみることが出来るワケですね。もっと解釈を広げると、大企業・多国籍企業と、インディペンデントな個人。

で、「大企業」側は、カネで“力の行使”をしてくれるという、悪徳保安官を招聘するんです。カネを払えば、何でもやってくれる、という。
保安官は当然、「法の執行官」ですから。

つまり、「法の執行」という形の暴力が、私企業の営利の為に行使される、という形になってるんですね。大企業の意図に沿って、「法の執行官」が、個人に対して暴力を振るう、という。
これはモロに、現代の社会のメタファーとして成立しているだろう、と。大企業と行政機関が一体化して、個人を押し潰す、というのは、改めて言う必要がないくらいなアレですから。
つまり、「マネー」と「法が認めた暴力」ですね。

で、イーストウッド演じる主人公は、“個人”の側に立つヒーローとして登場するワケですが、彼は、ちょっと複雑で、最初はアウトロー的な、ガンマン的な顔で現れて、実は「牧師」でした、という形で正体を明かすんですね。
で、最後は当然、彼が保安官を倒すワケですが。
ここで、「信仰」と「暴力」が一致している、ということが示されている、と。

別に、ストーリー上、主人公が牧師である必要は、実はあんまりなかったりするんですよ。
ダークヒーロー然とした主人公が、「実は善の人であった」という構造は、例えば「子連れ狼」でもそうなんですけど、「子連れ狼」では、「子供を連れている」という要素が、「実は~」の部分を示しているんですね。
「親子愛に満ちた人物なのだ」ということですから。
例えば、アウトローみたいな、一見強面の男が、子供が転んだら優しく抱え起こしてやる、とか、そんな感じでもいいワケです。
暴力的な人間っぽいけど、実は本が好きで、インテリで、みたいな。画を描くのが上手い、とかね。ギターを弾く、とか。
ストーリー内で、別に宗教的な何かをするワケじゃないんですよ。主人公が。ただ、カラーをして、飯を喰うときに家族でお祈りをするってぐらいで。

つまり、これはモロに、「信仰」と「暴力」が共存している、ということが言いたいんだろう、と。あくまで俺の解釈ですけど。


で。
最後に、保安官と牧師が激突するワケですけど、ここでは、「マネー+法律」に支えられた暴力と、「信仰」に支えられた暴力との対決なワケですね。


で(“で”ばっかりですけど)。
ここで大事なのは、主人公が寄り添う側も、規模は違えど、同じような金鉱掘りたちである、という部分だと思うんです。

ここで、彼らが、例えば林を切り開いて農場を作ろうとしている開拓民だったり、それこそ宗教的な自給自足のコミューンだったり、ということであれば、もうちょっと美しいストーリーの構図になると思うんですが、結局、個人個人で慎ましくやってる、と言っても、金鉱掘りですから、結局は「山師」なワケですよ。
一攫千金ですから。目指すところは。

事実、ストーリー上でも、あまり美しく描かれてはいないんですね。彼らは。
隣人が小さな金塊を見つけたら、嫉妬するし、色めきたつし、で。
「大企業」に相対させて置かれているワリに、あんまり効果的ではない。

彼らも、基本的な動機としているのは、「マネー」なワケです。「欲望」なワケですよ。
巨大な金塊を掘り当てて、有頂天になって酒を浴びるほど飲んで、結果、調子に乗っちゃって、権力者の怒りに触れて撃ち殺されちゃうし、なおかつそこでは、父親に対して「救いに行かない」という息子の描写があるんです。「せっかくこっちは楽しんでるのに」みたいなことを息子が言うんですね。
つまり、彼らも、なんだかんだで「欲望」がその支えになってる。



悪徳保安官の側は、「マネー+法律」に支えられた暴力。
主人公は、「マネー+信仰」に支えられた暴力。

いや、結構地獄絵図ですよね。こう書くと。



一応、主人公は、牧師の象徴であるカラーを外して、その代わりに、暴力の行使手段である、拳銃とガンベルトを身につけるんですね。
つまり、「信仰」と「暴力」を取り替えるんです。
ただ、ここで大事なのは、取替え可能である、ということと、もう一つ、決して捨て去る、という描写じゃないことにあって。
貸し金庫の中に拳銃があるんですけど、今度は、カラーを、その中にしまうんです。
つまり、再びカラーを身にまとう、つまり、牧師に戻る時があるのだ、ということが示唆されている、と。
「信仰」を捨ててガンマンに戻るのだ、ということであれば、カラーを投げ捨てる、ぐらいの描写があっていいハズですから。
つまり、決して「信仰」を捨て去ってるワケじゃなく、便宜的に脱ぎ捨てているだけであって、いずれまた、その貸し金庫に戻ってくれば、牧師の姿に戻ることが出来る、という。




そう考えると、ちょっと飛躍しますけど、つまり、主人公の抱えるニヒリズムというのは、なんていうか、もの凄い根が深いモノなんだ、と。
最後、主人公は、誰にも別れの挨拶をすることなく、報酬を得るワケでもなく、少女の愛に応えることもなく、ただ黙って去っていくんです。


しかも、もっとややこしいことに、主人公と悪徳保安官との間には、かつて闘いがあったということが示唆されていて、つまり、個人的な復讐、みたいなが動機にもなってる、という描き方がされてるんですね。
「マネー+信仰+私恨」が支えているのが、主人公の暴力なのだ、と。


全然美しくないですよ、これは。
だからこその、ニヒリズム、ということなんでしょうけど。
だからこそ、主人公は、全てに対してニヒリズム的な立場を崩さない、と。それは、自分を取り巻く世界全てに対する絶望、ということなんでしょうか。

保安官と牛耳ってた男の死、という結果だけを残して、結局何も肯定しないまま去っていく主人公、というのは、つまり、信仰も、暴力も、私恨も、愛も、なにも得ないまま去っていく、ということであろう、と。

繰り返しになりますけど、あくまで俺の解釈ですけどね。


長々と書いてしまいましたけど。




あ、映像は、もの凄いきれいでした。色味も、いかにも80年代という感じは全くしないて、シャープな映像だったし。
もちろん、風景の良さもあって、山をバックに立つイーストウッド、なんて、むしろ狙い過ぎな感じ。
セルジオ・レオーネみたいな切れ味はないんだけど、むしろ、演技をしっかり見せる、という、イーストウッド節みたいな、ゆったりとしたカット割っていうのがちゃんとあって。
もっと評価されてもいいんじゃないかなぁ、なんて。

低予算だからでしょうかね。


あ、それから、クリス・ペンが出てます。雰囲気いいですよね。この人は。
ペン兄弟とは、ずっと繋がりがあったんですね。



というワケで、個人的にはツッコミどころが沢山ある作品でした。
巨匠に向かって、生意気ばっか言っちゃって、スイマセンでした。


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