2008年12月11日木曜日

「殺しのはらわた」を観る

吉祥寺のバウスシアターにて、篠崎誠監督の「殺しのはらわた」を観る。 いやぁ、良かった。 実は、この作品を観るのは二回目なんですが、まぁ、面白い作品ですな。 バウスシアターって(メインのスクリーンだけなんですけど)音がとにかく良くって。 この作品の良さの一つは、理由が理解出来ないほどの、(音楽も含めた)音の良さだったりして。 ま、この稀代のカルトムーヴィーを上映する、というトコもバウスシアターらしいですが、この作品の良さを劇場の音響システムが引き出してる部分もあるんだろうな、と。 ま、偉そうな口ぶりですが、適当に書いちゃいました。 とにかく、面白い作品なんで、“拝観”する機会があれば、ぜひご覧になって下さい。 個人的には、ホントに篠崎誠さんという方は、日本の映画界の最重要人物の一人だと思ってるんで。 ま、個人的なソレはさておき。 上映の後に、その篠崎さんと、「どろろ」の塩田明彦監督、それから佐々木浩久監督の3人の「活劇のナントカ」というお題での、トークショーがありまして。 いやぁ、個人的には、こちらでお腹いっぱい。 久々に「講義」を聴いた気がしちゃいました。 「映画とは動きの創造だ」 「演出とは動きのハーモニーだ」 ま、そんなキラーなフレーズがポンポン飛び出す、という。 昨日は出てきませんでしたが、「演出とは仕草の発見だ」という篠崎さんのフレーズも、俺の記憶の中にはあります。 ただ大袈裟な死に方や、血しぶきじゃなくって、カットの繋ぎ方や見せ方だけで迫力は出せる。 一つのカットの中に動きが複数あると、観てる側は興奮する。 ただ“文学的”なだけでなく、動き、アクションこそが“映画”じゃないのか。 などなど。 短いカットを繋げていき、最後のキメのカットを、つまり撃つ方と撃たれる方をワンカットの中で処理する。 ワンカット(長回し)が目的化しちゃってるんじゃなくって、長回しで生まれてくるダイナミズムこそが目的である。そしてそれを、スタッフやキャストがよく理解している。 感情がフレームの外に広がっていく。それは、「自分たちの地続きのところにいる人」というリアリティを生みだす演出のこと。 などなど。 「アクション」による興奮を提供するには、その、脚本段階からしっかりと“撮り方”“見せ方”を練りこんでおくこと、ということと、同時に、実際にカメラの前に俳優さんが立った時に、つまりいざ撮影するという段階で、演出側が、そこにふさわしい「動き」を発見できるかどうか。 いやぁ。 ハードルは高いんでしょうけどね。 ま、勉強になりました、と。そういう「講義」でした。 実は、その前の日に、ちょうど「続・夕陽のガンマン」を観てたのもあって。 それもあって「フムフム」の連続でしたね。 篠崎監督の、「自主製作時代に、こういう作品を作りたかったんだけど、なかなか出来なくって、それが今になって作れるようになった」という言葉も印象的でしたね。 「静かな人間ドラマでも良かったんだけど」という。 実は、当時の自主製作の世界の先行世代が、ちょっと目の上のタンコブみたいになってて、こういう作風はイマイチ評価されてなかった、みたいなことも言ってて。(いや、ちょっと詳細と意図は違う感じかもしれませんでしたけど) いやしかし、なんていうか、こういう「講義」って、とても面白いんだから、もっともっとオープンな場でガンガンやっていけばいいのにね。 雑誌の誌面だとか、映画ファン“業界”の中だけでやってるのは、もったいない。ホントに。 例えば、“動画”とトーク(あるいはテキスト)の組み合わせっていうのは、それがウェブ上にあれば、これはホントに相性が良いコンテンツとなるワケだしね。 まぁ、著作権の問題もいろいろあるんだろうけど。 でも、身近な監督さんの作品とかを使っても全然「講義」は出来るだろうし。“教材”として使われることが作品自体の商業的なアピールにもなるんだろうし。 ま、そんな話は蛇足ですね。 俺が知らないだけで、こういうのって、すでにたくさん行われてるんだろうしね。それで今のところの需要が満たされてるなら、それはそれでいいのかもしれないし。 というワケで、この辺で。 あ、最後に。 藤田陽子さんって、キレイですよねぇ。好きです。 

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