2009年3月26日木曜日

掌編「パフェとケーキ」

今月はずっと、シナリオを書いてまして。
コンクールに応募するための作品を。


で。
このブログの更新が全然できてない、と。映画を観てないので。
要するに、ネタ切れってことなんですけどね。


で、あんまりブログをほっておくのも良くねーだろ、ということで、すげー昔に書いた、掌編のシナリオでも載っけておこうか、と。
掌編というより、“スケッチ”って感じですかね。ワンシーンを切り取っただけ、みたいなアレです。

タイトルは「パフェとケーキ」


○マンションの一室
  男と女、二人で暮らしているマンション。
  夏。二人は結婚している。子供はいない。
  ダイニングキッチンには明かりがついていなくて、
  洗面所と、他の部屋からの明かりが漏れている。
  仕事から帰ってきた女が、玄関からダイニングに入ってくる。疲れた顔。
女「(疲れた声で、部屋を見渡して)ただいま…」
  ソファに、体を投げ出すようにドサッと腰を下ろす女。フーッと大きく息をつく。
  男が風呂から上がってくる。バスタオルを腰に巻いただけの男。
男「ん、お帰り。今?」
女「うん。ただいま…」
男「遅かったな…」
  冷蔵庫を開ける男。
女「うん、ちょっとトラブルあって…。怒られちゃった」
  中から缶ビールを出し、もう一つのチェアに腰掛け、プシュッと缶を開ける。
男「疲れてんな、顔が…」
女「うん。疲れてるもん」
  ビールに口をつける男。
女「…」
男「…顔洗ってこいよ…」
  頷いて、ゆっくり立ち上がる女。

○ファミレスの店内・客席
  Tシャツに半パンという格好の女が一人で座っている。
  店員が、大きなフルーツパフェとチーズケーキを持ってくる。
  嬉しそうな女の表情。無邪気にパフェに喜ぶ感情が、大人の顔の下に見える。

○同・トイレ
  用を足していた男。風呂上りで髪はまだ濡れている。手を洗いながら欠伸をする。

○同・客席
  向かい側に置かれたチーズケーキの皿を、
  自分のパフェの隣に引っ張ってくる女。
  男が席に戻ってくる。欠伸で涙目。女の向かい側の席に戻ろうとするが、
  反対側に二つ並んでいることに気付く。
  笑って、自分の隣をポンと叩く女。
  女がシートの端に体をずらし、笑いながらその横に座る男。
  × × ×
  パフェとケーキを食べている二人。

○歩道
  ファミレスから帰っていく道。男はポケットに手を突っ込んで、女はその少し後ろを
  歩いている。
  立ち止まる女。気付いて、振り向く男。
  手を差し出す女。片方の手をポケットから出して、女の方へ伸ばす。
  手を繋いで深夜の歩道を歩いていく二人。

ま、こんだけのアレです。


ちょうどこれを書いた頃、妊娠が分かった夫婦というテーマで、「ケーキふた箱」という短編を撮ったんですね。
で、その同じ夫婦で思いついたアイデアが幾つかあって、それの一つです。確か。


ワリと、「今の自分」にはない感覚だよな、という感じなんですよねぇ。



ということで、今日はネタ切れ対策でした。

2009年3月23日月曜日

「エンド・オブ・デイズ」を観る

シネマ・エキスプレスで、シュワルツェネッガー主演のゴシック風味のアクション作品「エンド・オブ・デイズ」を観る。


なにげに面白い作品でした。
というより、なんか使えそうなアイデアのヒントみたいなのが詰まってた作品だった、というか。

この作品自体は、普通のB級アクションなんですけどね。



舞台は、1999年のNY。ミレニアムを迎える“世紀の大晦日”ですね。いわゆる「世紀末思想」がネタになってます。
「地上に復活するサタンと交わる女性」という存在が、バチカンで、預言者(予言者)によって予言され、彼女を巡って、復活したサタンと人間たちが戦う、と。

面白いのは、「カルトとしてのキリスト教」が描かれている、というトコですね。
ま、ベタっちゃベタなんですけど。

で、そのカトリックの宗派内にも路線の対立があって、いわゆる実力行使容認派は、「予言された女性」を殺してしまうことで、サタンの企みを封じよう、と。もう一つが、殺人は教義で禁じられているワケだから、「予言された女性」を殺す事は出来ない、という。

この2つと、主人公のシュワルツェネッガーとの対立があるんですね。
シュワは無神論者ってことになってて。「『信仰』じゃ戦えない。俺は『拳銃』で戦う」みたいなことを言ってて。

それからもちろん、サタンとの戦いもあって。

つまり、主人公から見ると、敵が三ついる、と。

もちろん、この作品はアクション作品なんで、要するに敵がいればいいので、その辺は適当に処理されちゃっているんですが、これって、ちゃんと突っ込んで掘り下げていけば、かなり面白いテーマになり得ると思うんですよ。


この作品では、ラストに、なんとシュワが『信仰』に目覚めてしまったりしてますけど。
まぁ、サタンと「世界の存続」を巡って戦えば、当然そういうオチにはなりますかねぇ。
ちょっと拍子抜けしましたが、ただ、バラ色のハッピーエンドでもないので、そこは、エンターテイメントに徹するべきというアレから考えると、逆にイマイチかも。ちょっと苦味が強すぎるっていうか。


それから、気になったポイントがあって。
それは、「『神の家』にはサタンは入ってこれないハズだ」という台詞。神父さんが言うんですけど。
だけど、サタンは全然気にしないで、普通に教会(『神の家』)に侵入してくるんですね。

これって、ホンモノの信仰が伴ってないからだ、みたいなことなのかなぁ、と思ったんですよ。
作中では、そういうことは一切語られてないので、これは俺が勝手に後付けしたアレなんですけど。

どんなに立派な建物があっても、立派な神像が飾られても、豪華な装飾がされていても、“ホンモノの信仰”がそこに存在してなければ、それは『神の家』じゃないのだ、みたいな。だからサタンに易々と踏み込まれてしまう、と。

そこからさらに、この作品でも主人公が女性を連れて逃げ回るシークエンスがあるんですけど、例えば、追っ手から逃げる為に駆け込んだ廃屋みたいな建物が、実は違法移民たちの地下教会だった、とか。
地下教会っていうのは、要するに、表立って活動できない教会のことですね。

今でも、中国なんかでは、バチカンは非公認なんで、地下教会があるってことですし。ま、いわゆる「隠れキリシタン」みたいな話です。

宗派が非公認じゃなくっても、信者たちの方がイリーガルな場合(不法滞在移民とか)も、地下教会ってあり得る存在だと思うし。(この場合の地下教会っていうのは、こっちですね)


ま、あくまで、そういうのがあれば面白いな、という話でした。



作品のディテールとしては、とりあえず冒頭のシークエンスが良かったですね。ヘリが出てくるところ。
いきなり、信号の、交差点のど真ん中にヘリが降下してきて、主人公たちをピックアップして再び上昇していく、とか。結構すごい。
しかも、交差点には無理やり降りたのに、犯人が逃げているビルの屋上には「障害物が多くて降下できない」なんて言ってて。
「逆だろ!」と。交差点に降りれるならビルの屋上なんて簡単だろ、と。

で、ヘリと地上の落差を利用した、上下動のアクションシーンのあと、そのまま地下の、地下鉄の廃線(廃坑?)に降りていく、と。
この辺の感じは、良いな、と。


あとは、サブプレイヤーとして、「ユージュアル・サスペクツ」のコンビが出てて、そこもポイント高いっス。

それから、サタンの手下がどんどん増えていく、というのも面白い。ホントに、味方が全部、という感じでしたからねぇ。
ま、キョンシーとかゾンビものとか、そういうのに近い感覚ですかね。



ま、普通に、シュワが出てるだけでリアリティーが全然なくなるってトコが、この作品の一番の欠点かなぁ。
身体がデカ過ぎて。

「スピード」がインパクトあったのは、なにげに、キアヌ・リーブスの身体がスゲー普通だったからっていうもあると思うんですよね。シナリオが抜群に良かったのはもちろんなんだけど。
そういう、俳優の身体のリアリティって、凄い大事で。

ジャン・クロードもそうなんだけど、身体がデカ過ぎて、それは正真正銘のマジもんの肉体なんだけど、その筋肉の量がもう嘘臭い、という。「そんなヤツいねーから」って感じで。

ま、アクションスターですから、それで当然なんですけどね。

でも、筋肉が多すぎると、スピード感がなくなる事は間違いないよね。切れ味は。
映像的には、むしろこの切れ味とかスピード感の方が大事だったりするワケだしね。
ま、いいんですけど。



という感じです。
なにげに、アイデアをたくさんもらった作品でした、と。


2009年3月16日月曜日

「パニックルーム」を観る

ミッドナイトアートシアターで、デヴィッド・フィンチャー監督、ジョディ・フォスター主演の「パニック・ルーム」を観る。

ちょっと遅れましたが、感想でっす。


ま、ハリウッドを代表する監督になりつつある、という、D・フィンチャーですが、ワリとこの人って、当たり外れがあると思うんですね。(いや、もちろん、どんな監督さんにもあると思うんですけど)

で、この作品は、外れ。
面白くて、いい作品だとは思うんですが、いわゆる“映像派”としてのフィンチャー節っていうのは、イマイチかなぁ、と。もっと振り切って欲しい、というか。


逆に、その“映像美”じゃない部分は、結構面白かったりするんですよね。
キャストも、J・フォスターはもちろんなんだけど、「黒い鶴瓶」フォレスト・ウィテカーは相変わらずの名優っぷりだし、もうひとり、覆面(目だし帽、本来はスキー用の、眼の部分だけ出ているニットキャップ)をずっと被ってる犯人役のヤツがいて、こいつが超イイ。


妙に足が細くて肩幅が広くて、みたいな、姿勢が猫背っていうのも含めて、体型だけで変な存在感があったりして。
こいつのキャラは、ホントにいいです。

あとはストーリーの展開ですよねぇ。
家一軒、避難用の部屋一つ、登場人物も親子2人(父親も少しだけ登場)と、3人組の犯人たち、というだけで、いかにスリリングに話を引っ張っていくか、と。
それはもちろん、シナリオの強さという部分なワケで。

実は冒頭の、背景説明に当たる部分が結構長くて、ちょっとイライラするんですけど、それはしょうがないですね。この導入部分は、「この作品は、いまから100分間、このスタイルでいきますよ」という宣言になってる気がします。


ポイントは、犯人たちの関係性ですね。上下関係というのがあって、それが、小さなトピックをきっかけに、動くんですけど、これが結構面白い。
事前の情報の誤り、持っている武器、それぞれの担当と特技、動機とやる気、アイデア、などなど。こちらの“心理劇”の主役は、もちろんF・ウィテカーです。


というぐらいですかねぇ。ここまで書いてきて、ハタと手が止まってしまいました。
娘さんの糖尿病というのは、ま、ありがちっちゃありがちですからね。特にアメリカ映画には、こういう設定が多い気がします。(グーニーズには喘息持ちのヤツがいましたよね)


エンディングもいまいち。

あ、でも、社会の格差についての台詞をF・ウィテカーが言うんですが、それは良かったです。
犯罪の動機としての「社会の格差」っていうを、ちゃんと織り込んでいる、ということで。

階層の、アッパークラスと底辺の人間が交わる“現場”のひとつが、実は犯罪(クライム・シーン)なのだ、という。

うん。
そんな感じでした。


2009年3月15日日曜日

フランツ・フェルディナンド!!

フランツ・フェルディナンドというバンドのPVをご紹介。




このノワール感は、かなり好き。

アメリカンなテイストですけど、バンドはイギリス(の、スコットランド)出身です。


音も好きなんだけど、ビジュアル面もかなりセンスがよくって、ジャケットもクールです。



このPVだと、ランドリーのショットが一番好き。

2009年3月11日水曜日

バザン曰く「映画とは何か」

新聞に、アンドレ・バザンというフランスの映画批評家についてのコラムが載っていたので、ご紹介。
コラムを書いているのは、野崎歓さんという、東大の准教授という肩書きの方。


バザンという人は、ヌーヴェルヴァーグを先導した1人、ということでいいみたいです。カイエ・デュ・シネマの創刊者の1人、ということで。
ウィキペディアの当該項目には、「精神的父親」なんて表現もあります。


映画は写真から成り立っているという単純な事実に、バザンは批評の基盤を据えた。人の手の加わらない、対象物の機械的再現が映画を支えている。
そこから、現実をまるごと捉える「リアリズム」こそが映画本来の目的であるとする主張が生まれる。

同時代のルノワールやロッセリーニ、ウェルズらの作品から、バザンはあらかじめ想定された意味やストーリーには還元されない「曖昧」な現実を、そのまま凝視する姿勢を学んだ。彼らの作品の「深い画面」と「長回し撮影」に、世界と対峙する映画の倫理を見出したのである。
そんな彼が、安易な編集技術や政治的メッセージへのもたれかかりを許さなかったのは当然だろう。

一徹な理想を抱きながら、「不純」さにこそ映画の豊かさを認めたところに、批評家としての度量の大きさがあった。
小説や絵画といった隣接領域との連関を重視し、テレビの登場も肯定的に捉えようとした。探検映画や児童映画、特撮やアニメーションまでもが、動物と子供をこなよく愛したこの批評家の視野には、くっきりと収まっていた。

ロラン・バルトの写真論や、ジル・ドゥルーズの映画論に、バザンの影響はたやすく見て取れる。
それ以上に昨今の、中国語圏を中心とするアジア映画の新たな展開は、バザン的な映画が鮮烈な輝きを放ち続けていることの何よりの証しだ。
文化革命後、イデオロギーを脱した思考を模索する中国文化人たちは、『映画とは何か』の中国語訳をむさぼり読んだという。

「現実を信じる」映画に希望を託したバザンの思考は、バーチャル映像に翻弄され続ける現代の我々にとって、貴重な反省と抵抗のよすがとなる。

「映画論」であると同時に、「映画批評論」でもあるコラムですね。
『映画とは何か』っていうのは、バザンという人が書いた評論集なんだそうです。


「あらかじめ想定された意味やストーリーには還元されない曖昧な現実」「不純さにこそ映画の豊かさを認めた」と。
作り手(監督、シナリオライター、カメラマン、美術、俳優たち)が作ろうとして作った映像の中に、作ろうとはしていなかった“他のモノ”が、映り込んでしまっている。
そここそが、現実であり、“不純物”であり、しかし、それこそが映画なのだ、と。

それを「現実の投影」としてすくい取り、言葉によって明らかにし、作品としての映画の「背後の物語」として付け加える。
あるいは、その作品を、「背後の物語」を手がかりに、歴史であったり社会全体であったりという、「より大きな物語」の中に、位置や居場所を提案する。
ま、そういうのが批評の力なのかな、なんて。

分かりませんけどね。批評家じゃないんで。


しかし、「リアリズムこそが映画本来の目的である」と。

バザン。
いつか、その理論に触れる機会があればいいなぁ、と思います。


2009年3月10日火曜日

「ミニミニ大作戦」を観る

金曜日のミッドナイト・アートシアターで観た「ミニミニ大作戦」の感想でっす。

普通にミニが好きなんで、良かったですね。


という感想では、一行で終わってしまうので、もう少しアレしないといけないんですが。


まず、ゴレンジャーで言うトコの赤レンジャー役の俳優が、イマイチなんですよねぇ。
ピンクレンジャーはシャーリーズ・セロンだし(超キレイ!)、適役はエドワード・ノートンだし、C・セロンの親父は名優ドナルド・サザーランドだし、ミドレンジャーはモス・デフだし、ということで、いい役者さんが揃ってるんだけど、猿顔でなんだかイモ演技のモサッとしたヤツが主役で、そこが最後までピンと来ない、という。
もうちょっとキリッとした、“リーダー”顔のヤツ連れてこいよ、と。作戦の立案を“担当”する役回りなんですけど、こいつが1番バカっぽい顔してんだよねぇ。


ただ、作品自体は、ちゃんとツボを抑えていて、面白かったりして。
ミニが、カワイイ外見とは裏腹に、かなりワイルドに疾走してて、結構それだけでも痛快感があったりして。

いや、普通に好きな作品です。


いわゆる“B級アクション”な感じなんだけど、それなりにお金かかってるし。ちょっとお色気もあるし。



この作品は、同名の作品のリメイクで、元の作品はイギリスで作られたモノで、そっちも観てみたい気になってます。
イギリス映画が、どういうカーアクションを作るのか。興味が湧きますね。
この作品のカーアクションは、普通の、LAが舞台ということもあって、いかにもアメリカ映画という感じの(上手ですけど)アレなんですけど。


ま、感想はこんな感じでしょうかね。
至極健全なアクション映画の良作、ということで。


すげー単純に、日本でもリメイクやればいいのにな。
東京を舞台にして。
面白いと思うけどね。

リメイクじゃなくても、いい感じにパクったりして。
東京の地下(非合法な世界の比喩じゃなくって、ストレートに“地面の下”という意味です)っていうのは、個人的にはかなりオイシいネタになるんじゃないか、なんて、ずっと前から思ってるんですよねぇ。


2009年3月9日月曜日

「ジャケット」を観る

土曜日の深夜にTBSでやってた「ジャケット」を観る。

“ジャケット”というのは、拘束着のことですね。
しかも、タイトルからは一切想像させない、タイムスリップねた。その拘束着がタイムマシンになってる、みたいな感じで。

と、書き出しは“イマイチ感”が出てますが、さにあらず、いい作品でした。

つーか、すげー良かった。


最後まで観たあとに、チラッとエグゼクティヴP(製作総指揮)の名前が出て、そこにジョージ・クルーニーとスティーヴン・ソダーバーグの名前があって、ちょっとビックリ。
2人が一枚噛んでたんですね。

ま、それはさておき。


湾岸戦争で記憶障害を負ってしまった若い男(若くないのか?)が主人公で、彼が、記憶障害ゆえに自分に被せられた濡れ衣の疑いを晴らすことができず、犯罪者を専門に収容している精神病院に入院することになる。
そこで、“マッドドクター”のヤバめな治療法の実験台にさせられてしまって、と。
ここまでが、かなり長い前置き。

ベトナム戦争が、いわゆるニューシネマ期の“作家”たちにテーマを与え、幾つもの傑作が(間接的に、あるいはそれは悲劇でもあるんだけど)そこから生まれたワケです。
で、この作品も、時代が変わって、湾岸戦争というトピックに対する、例えば反戦であるとか、そういうテーマの作品なのかな、とか想像したりもしたんですが、実はそうでもなく。

実は、ワリとシンプルなタイムスリップものでした。


誤解を恐れずに言えば、基本的には「バック・トゥ・ザ・フューチャー」と一緒ですから。

現在と未来を行き来して、未来で知ることが出来る情報を持って現在に帰って、現在の状況を良い方向に導くことで、暗かった未来を明るい未来に変える、と。


で。
この作品では、主人公が「あと何日かで死んでしまう」ということが、未来で主人公自身に明かされるワケです。
未来へ飛んでいった主人公が、そこで出会った人に、「あなたは死ぬ」と教えてもらう、と。
で、現在に戻って、あれやこれやがあるんですが、やっぱり主人公は死んでしまう。

ここがミソ。

それでも、未来は明るくなってる。

うまく言えないんですが、そこがマジで感動的なんですよ!


「自分が死ぬ」という運命は変えられない。それは受け入れる、と。
しかし、その前に、手紙を書いたり、人に会いに行ったり、ということをして、そして未来を変える。


その、変わった後の未来のシーンが、いいんですよねぇ。
同じダイナーから出てくるのに、前はそこのウェイトレスだった女性が、今は、病院勤務という“ちゃんとした職”に就いていて、そしてなにより、乗ってる車が全然違う。


去年、自分で書いたシナリオのテーマが「自己犠牲」だったんですけど、ちょっとそこら辺にも通じる感じがしちゃって、余計にグッと来たのもあって。



実は、シナリオとしては、あんまり上手く運ばれてなかったりするんですけどね。アラがあったり、適当だったり。
だいたい、どうしてタイムスリップするかも分からないし。

でも、そういうディティールはさておき、という力があるのも確かだな、と。
そう思いました。



というワケで、良作。収穫多し。
という作品でした。