2009年3月11日水曜日

バザン曰く「映画とは何か」

新聞に、アンドレ・バザンというフランスの映画批評家についてのコラムが載っていたので、ご紹介。
コラムを書いているのは、野崎歓さんという、東大の准教授という肩書きの方。


バザンという人は、ヌーヴェルヴァーグを先導した1人、ということでいいみたいです。カイエ・デュ・シネマの創刊者の1人、ということで。
ウィキペディアの当該項目には、「精神的父親」なんて表現もあります。


映画は写真から成り立っているという単純な事実に、バザンは批評の基盤を据えた。人の手の加わらない、対象物の機械的再現が映画を支えている。
そこから、現実をまるごと捉える「リアリズム」こそが映画本来の目的であるとする主張が生まれる。

同時代のルノワールやロッセリーニ、ウェルズらの作品から、バザンはあらかじめ想定された意味やストーリーには還元されない「曖昧」な現実を、そのまま凝視する姿勢を学んだ。彼らの作品の「深い画面」と「長回し撮影」に、世界と対峙する映画の倫理を見出したのである。
そんな彼が、安易な編集技術や政治的メッセージへのもたれかかりを許さなかったのは当然だろう。

一徹な理想を抱きながら、「不純」さにこそ映画の豊かさを認めたところに、批評家としての度量の大きさがあった。
小説や絵画といった隣接領域との連関を重視し、テレビの登場も肯定的に捉えようとした。探検映画や児童映画、特撮やアニメーションまでもが、動物と子供をこなよく愛したこの批評家の視野には、くっきりと収まっていた。

ロラン・バルトの写真論や、ジル・ドゥルーズの映画論に、バザンの影響はたやすく見て取れる。
それ以上に昨今の、中国語圏を中心とするアジア映画の新たな展開は、バザン的な映画が鮮烈な輝きを放ち続けていることの何よりの証しだ。
文化革命後、イデオロギーを脱した思考を模索する中国文化人たちは、『映画とは何か』の中国語訳をむさぼり読んだという。

「現実を信じる」映画に希望を託したバザンの思考は、バーチャル映像に翻弄され続ける現代の我々にとって、貴重な反省と抵抗のよすがとなる。

「映画論」であると同時に、「映画批評論」でもあるコラムですね。
『映画とは何か』っていうのは、バザンという人が書いた評論集なんだそうです。


「あらかじめ想定された意味やストーリーには還元されない曖昧な現実」「不純さにこそ映画の豊かさを認めた」と。
作り手(監督、シナリオライター、カメラマン、美術、俳優たち)が作ろうとして作った映像の中に、作ろうとはしていなかった“他のモノ”が、映り込んでしまっている。
そここそが、現実であり、“不純物”であり、しかし、それこそが映画なのだ、と。

それを「現実の投影」としてすくい取り、言葉によって明らかにし、作品としての映画の「背後の物語」として付け加える。
あるいは、その作品を、「背後の物語」を手がかりに、歴史であったり社会全体であったりという、「より大きな物語」の中に、位置や居場所を提案する。
ま、そういうのが批評の力なのかな、なんて。

分かりませんけどね。批評家じゃないんで。


しかし、「リアリズムこそが映画本来の目的である」と。

バザン。
いつか、その理論に触れる機会があればいいなぁ、と思います。


0 件のコメント:

コメントを投稿