2009年4月6日月曜日

「ツォツィ」を観る

バリ・シネで「ツォツィ」を観る。

確か、この年(日本で公開されたのは2007年)の最重要作品のひとつだった印象を持っている、南アフリカを舞台にした作品です。

作品自体やストーリーに、爆発力みたいなのはそんなにないんですが、まぁ、いい作品ですよね。


舞台は南アフリカの、ソウェトというスラム(確か、南アフリカではホームランドなんて呼び方をしていたと思います)。
物語の背景としては、悪名高いアパルトヘイトが終わり、差別からは解放されたものの、依然として経済的には“底辺”に押し込まれている黒人(の、特に若者たち)、ということですね。
黒人の中にも経済的に成長している人たちがいて、ストーリーでは、主人公と、その“成功者”たちとの間にある断絶が描かれている、と。


なんていうか、やはり、スラムであったり、特に高層ビル群を背景にしたスラム、なんていうのは、映像的にはかなりインパクトがあって。
その、“荒廃”を描くのには、誤解を恐れずに言えば、“的確”なワケですね。
すでにそこにある画なワケですし。

この作品を、そういう「現実」とか「リアル」とか、そういう言葉で語ると、作品自体がシンプルなだけに、ちょっと安易な“感想”に陥ってしまいがちなんですけど。


ちょっと見方を変えると、要するに、例えば日本のオタクたちは、自分たちの「心の荒廃」を描くのに適した画が現実にないが為に、わざわざ虚構の世界を“平面世界”に作り上げて、わざわざその世界が危機に陥って、わざわざその登場人物に仮想恋愛する、という形式をとりつつ感情移入していく、という“手順”があったりして。


ま、それはさておき。


この作品で最後に掲示されている“救い”とはなんだろうか、と。
あるいは、“救われない”こととは。

救われる現実もあるだろうし、救われない虚構もあるだろうし。
あるいは、単に救われない現実も。


「子供を返したら一緒に暮らしてくれるか?」と主人公は問いかけるワケですね。
で、その問いに、回答は返されない。
それは、彼女が、「返したら」の先を知っているからですね。逮捕されるであろう、ということを。
実際、大邸宅の門の前で主人公は逮捕されちゃうしね。

その大邸宅って、結構すごくて、生まれたばかりの“赤ちゃんの寝室”でさえ、主人公の暮らす家よりデカい、という、この圧倒的な経済の格差の、不条理。


ただ、その、テーマっていうのは、そこから一歩踏み込んでたりもしてるんですね。父親、母親との関係、ということで。
主人公の母親は、病気(おそらく、エイズ)に罹っていて。父親は無知ゆえに(その無知は、貧困に因るものなんでしょうけど)、主人公と母親との関係を嫌って。
そもそもの“屈折”は、そこにあって。

偶然“手中”にしてしまった赤ん坊に固執してしまうのは、その赤ん坊が、主人公の「未来への希望」なのではなく「失った過去」を追体験させてくれるから、ですね。

結構、そこはポイントなのかなぁ。
未来じゃなく、過去と現実だけが語られている、という。
未来がない、つまり、未来を語れない、ということの悲劇性。




という感じでしょうか。やや中途半端な終わり方ですけど。




あ。
音楽は、良いですね。使い方は、定番っちゃ定番ですが。鋭さと熱さを持った音を、完璧な間で入れていく、という。

カメラは、こちらもあまり凝ったことはせず、構図と色味で勝負しよう、と。この、低い位置から、スクウェアなアングルで真っ直ぐ撮る、という画は、力があって良いです。ライティングも含めて、作品の力強さを支えているのは、このカメラワークなんだろうな、なんて。


そんな感じで。何度も繰り返し観たい作品ですね。

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