2009年5月30日土曜日

「英雄の条件」を観る

午後のロードショーで、「英雄の条件」を観る。
書き忘れてた感想です。


個人的にこの作品は大好きで、ま、何度も観てるんですが、今日は感想として、この作品の「構造」について。

法廷モノっていうのは、その“ジャンル”があるぐらいなんで、映画という表現との相性が良い、ということだと思うんですけど、それは、ストーリーテリングの手法としての「論理性」と、法廷での審理を進めるにあたっての実際の手順の「論理性」というのが、上手く合致しているから、だと思うんですね。

で、この作品では、そこに「軍隊」という要素が加えられて。
俺は、アメリカ軍のことしか知らないんですが(もちろん、こういうジャンルの映画や小説やノンフィクションから仕入れた知識ばかりなので、間接的な知識ではありますが)、「軍隊」というのは、社会の基本的な要素を、そのまま自給自足する組織なワケですね。警察も、軍隊の中に「自分たちの警察」を持ってますし、医師も、「自分たちの医師」を育てるシステムを持ってますし、法廷も、同じなワケです。
軍事法廷の場合、検事(原告)も軍人、弁護人の軍人、被告も軍人、裁判官も軍人。そして、陪審員も軍人。

で。
この作品では、「国家」「軍人としての個人」「1人の人間としての個人」という、幾つかの階層が「構造」としてあるんですね。正確には、「国務省」「軍」「軍人として」「1人の人間として」という階層。

国務省に所属している大統領補佐官が、「国家」の層を表していて、被告(サミュエル・L・ジャクソン)に罪を被せようとする。
同じく「国家」に属しているはずの、被告に命を救われ、本来なら被告に有利な証言をすべきである大使は、「1人の人間」がもつ卑しさにつけこまれ、「国家」に有利な立場に“逃亡”する。
「軍」の層には、ここが一番微妙なんだけど、被告の心情的な味方になる、被告の上官と、もうひとりとても大事な役回りを演じる、検事役の男、というのがいて。そして当然、被告。

で。
主人公は、「1人の人間」としての苦悩も抱えているんですね。父へのコンプレックス、自分のキャリアへのコンプレックス、息子との関係、それらを比喩的に示す、アルコール依存症というトピック。

で、そういうのが全部、入れ子状になってる。
この、入れ子状になってる「構造」の巧さと、その使い方、運び方。

例えば、ラスト前に、補佐官に、「個人的な報復」を告げにいくワケです。つまり、階層を「1人の人間」がブチ抜いている。
この前で、老父と(小生意気な)息子に最終陳述を褒められて、「1人の人間」としての“葛藤”を超えているのと加えて、観る側は、ある種のカタルシスを感じるワケですよね。ここで。
「構造」が、ここで閉じている。
閉じた上で、被告が無罪、という、ストーリー上の大命題の回収があり、ストーリー自体も閉じる。

それから、この作品は当然、主演の二大スターの作品として語られるワケですけど、もう1人とても重要な役どころがあって、それは、ガイ・ピアーズの検事なんですね。
ともかくこの人の表情と立ち姿っていうのが、画面に緊張感を与えているワケです。
で、この人の、法廷での微妙な反応とかを、カットアップで上手に見せていく。
隠蔽されたビデオテープを巡って、補佐官が、自分に責任を負わせようとしているかのような発言に、鋭く反応する、とか。
大御所2人と法廷で対峙するには、それなりの存在感がないといけないワケですけど、その役目をしっかりと果たしていて。
ま、いいですよね。


それから、ベトナム戦争から中東での騒乱、という、シチュエーションの立て方も、まぁ、いかにも「好戦的なアメリカ」というか、「仮想的を作らずにはいられないハリウッド」というのを、作品自体の中で(結果的に)批評的に示唆してもいて。
結末として、ベトナム人のかつての仇敵と、敬礼を交し合う、というシーンがあるんですね。これはホントに微妙なショットで、「構造」的に言えば「軍」ではなく「軍人」同士として、「1人の人間」同士として理解し合えた、ということになるんだけど、かといって、もっと大事な、そもそもの“中東での問題”が全然解決してない、ということにもなってて。
特に赤十字の医師の描き方っていうのが、ね。
あまり良くないですよね。

彼らの“動機”をちゃんと描かない、というのは、ま、この手の作品の常套手段ではあるんですけどね。
敵方の指導者の姿を描かない、とか、語らせない、というのは。

ま、それも含めての「構造」ですから。

えぇ。
いい作品だと思います。

2009年5月27日水曜日

「ア・フュー・グッドメン」を観る

“軍人”特集らしい、午後のロードショーで、「ア・フュー・グッドメン」を観る。


ま、有名な作品ですし、今さら感想をどうこうってアレでもないんですけどね。

今回久しぶりに観て感じたのは、「エラい低予算なんだな」と。
いや、もちろん、スター揃いですから、ギャラやらなんやらは凄いんでしょうけど。

これ、殆ど室内だけで撮ってるんですよねぇ。
撮影場所を、かなり限定している。
ということに気づいたりして。


軍属の法律家たちのいるオフィス、キューバの基地の官舎とオフィス、法廷(廊下も含めて)、主人公の暮らすアパート、と、ざっとこんな感じ。あとは、モーテルの室内とか、酒場の店内とか、そんなモンですから。
これは、どれもセット内で撮影出来ますからね。

キューバの基地の敷地、という設定で、広い庭園みたいな場所が出てきますけど、こんなのどこにでもありますから。


あとは、スターたちの演技力と存在感だけで、という。
むしろ、そういう、ロケーションとかそういう“余白”がない分、観る側も役者陣の演技に引き込まれるようになってるのかもしれないし、演出側も、「そこに力を注ごう」という、ある意味では割り切りなんだけど、それは集中力にもなってるのかもしれない。

というかむしろ、セット撮影という、時間を比較的たっぷり使える環境を敢えて用意して、その中でいかに、迫力ある演技を引き出せるか、とか、そういうことなのかもしれないしね。

はっきりとした狙いの真意は分かりませんけど、まぁ、結果的にはいい作品なワケですから、前向きに解釈する必要はあるだろう、と。


内容は、ややボンクラな「エリート」で「二世」の制服組軍人が、現場の叩き上げの基地司令官と対立する、と。その対立劇の中で、そのボンクラが“一人前の男”として育っていく、と、そういうビルドゥングス・ストーリーですね。
ま、トム・クルーズの、キラキラな最盛期、という、そういう時期の作品。
個人的には、この主人公に対する共感は、正直全然出来ないし、結末も好きじゃないんですけど。

でもまぁ、そういう作品じゃないですもんね。


制服姿の(そして、巨乳の)デミ・ムーアはそれだけで観る価値があるし、ジャック・ニコルソンは、殆ど「居るだけで怖い」みたいな存在感だし、今はジャック・バウアーのキーファー・サザーランド(「24」)、ちょうどこの頃から“グッド・バイプレイヤー”路線を進み始めていたケヴィン・ベーコン(「スリーパーズ」)、“いい人”を演じて妙に収まりが悪いケヴィン・ポラック(「ユージュアル・サスペクツ」)、ちょい役でノア・ワイリー(「ER」)やキューバ・グッディングJr、と、まぁ、“役者”揃いですからね。


基本的には「法廷モノ」って扱いをされるんでしょうけど、(恐らく)予算の制約がそうさせてしまったと思われる、ある種の“密室劇”的な「室内劇」の構造も持っている、という、そういう作品でした。

シナリオの勉強にはいいかもね。うん。

という感じです。


2009年5月19日火曜日

ウィルス

ついに関西方面に上陸、感染拡大しているということが判明した、新型インフルエンザ。
ちなみに、神戸の高校生たちっていうのは、みんなバレー部で、ある学校の体育館で、何校かで練習試合をやって、そこで集団感染したんじゃないか、ということらしいです。



ちょっと前にも書きましたが、「ウィルス」は、いわゆる映画の題材としては、ポピュラーな部類に入るモノでもありまして。


ただ、今日は、例えばロメロ流の、ウィルス自体が人間を変容させてしまう、ということじゃなく、「ウィルスへの恐怖」が間接的に“社会”に引き起こしてしまう事態、というトコに。

海外での語学研修(短期留学みたいな感じだと思います)を終えて帰国した際に感染が分かって、成田空港近くのホテルに“隔離”されていた、という高校生たちについて、新聞にこんな記事がありました。

府立高校の生徒27人と教員5人、航空機のその他の乗客14人、乗員2人の計48人は、成田空港近くのホテル8~10階の部屋に1人ずつ滞在している。
一般客の立ち入りを防ぐため、棟内のエレベーターは8~10階の押しボタンに粘着テープが貼ってあり、8階の非常階段の扉には警備員が立っている。
朝、防護服に身を包んだ医師ら5、6人が各部屋を訪ね、「熱はないですか?」などと問診をしていく。
食事時間になると、マスクをした係員が各部屋に呼びに来て、生徒らもマスクを着けて、付き添われて10階の大部屋まで非常階段を使って移動する。3mmほど離れたテーブルに1人ずつ座って食べるという。
ある生徒は、一緒にホテルにとどまっている先輩と夜中に13時間、内線電話で話して徹夜した。「さみしくて、話すことがなくなってもずっと繋いでいました」
電子辞書に英単語や難読漢字を表示させ、紙に書き写して時間をつぶしている生徒もいた。「暇すぎて気が狂いそう。窓から飛行機を見ているけど、外へ飛び出したい」
(ある母親は)昼と夜の2回、携帯電話で話す。母親は元気な様子に安心しているが、「夜になると怖い」ともらした一言が気になっている。

これ、はっきりいって、PTSDとかが心配な状況ですよ。マジで。
「3mほど離れたテーブルに1人ずつ座って食べる」とか、結構ハードなシチュエーションだと思うんですけど。記事には、「互いに話すこともない」って書いてあるんですけど、逆に、顔は合わせてるんだけど話さない、っていうのは、精神的にキツいと思うし。
まぁ、携帯で話したり、メールがあったり、「ホテルの内線電話で」とか、そういうのはあるんだろうけど。
でも、ちゃんと顔を見て話せないっていうのは、キツいでしょ。さすがに、今の若い人でも。

「暇すぎて気が狂いそう」とか「夜になると怖い」とか、精神的に追い込まれてないと出てこない言葉だと思うし。

それから、「エレベーターの押しボタンに粘着テープが貼ってある」とか「非常階段で移動する」とか、部屋にやってくる医師が「防護服に身を包んだ」状態で来る、とか、それこそ離れたテーブルに1人ずつ座ってるとか、画としてもインパクトあるよね。想像すると。


同時に、ちょっと不謹慎かもしれないけど、そこは「ストーリーの着想」の発火点としては、あり得るワケで。



それから、こんなのもあります。

利用者の居場所を特定できる携帯電話の全地球測位システム(GPS)機能を活用し、感染症の世界的大流行(パンデミック)を防げないか――。総務省は今秋にもこんな実験に乗り出す。新型の豚インフルエンザの感染拡大懸念が強まるなか、注目を集めそうだ。

具体的には、携帯電話会社などがモニター全員の移動履歴をデータベースに蓄積。その後、1人が感染症にかかったとの想定で全モニターの移動履歴をさかのぼり、感染者と同じ電車やバスに乗るなど感染の可能性がある人を抽出し、注意喚起や対処方法を知らせるメールを送る試みだ。

こうした個人の移動履歴や物品の購入履歴を活用するサービスには、NTTドコモが提供する携帯電話サービス「iコンシェル」などがあり、今後もサービスの増加が見込まれている。ただ、プライバシーである移動履歴をどこまで共有して活用できるか、といった点は意見が分かれる。


まぁ、まだまだ実験段階なんだそうですけど。


要するに、「ビッグブラザー」ですよね。
監視されてる。

「あなたは感染者と接触しています」っていうメールが来る、と。「昨日乗ったバスで、感染者も乗り合わせていたので」という感じで。
行動が把握されてる、ということは、現在の居場所も把握されてる、ということですから、まぁ、“当局の担当者”が訪ねてくるワケですよ。防護服姿の。
で、一週間なり10日間なり、ホテルに“隔離”されてしまう、と。


う~ん。

ちなみに、こういう、空港で検疫をして、みたいな“水際作戦”をしているのって、日本と、あとは中国ぐらいらしいですね。ひょっとしたら、オーストラリアとかもやってるのかもしれないけど。
中国では、もっと大規模に“隔離”が実行されてて、その辺も結構ニュースになってましたね。



どうなんでしょうか?
例えば新宿なんかでは、全然マスクしてる人とか見かけませんけど。


でも、直接的なパニックというよりも、こういう、“ビッグ・ブラザー”的な、そういうシチュエーションの方が、「話のタネ」としては、興味があります。

「ウィルスへの恐怖」というより、「自分が感染する恐怖」ですよね。
より利己的な感情。「自分は感染したくないのだ」という、まぁ、人間誰でもそうなると思うんで、否定する気はありませんが、しかし同時に、“隔離”なんていうのは、「社会のために」みたいな麗句の元に実行されているワケで。



ということで。
うがい・手洗いはちゃんとしましょう!


なんつって。

2009年5月15日金曜日

「麦の穂をゆらす風」を観る

名手ケン・ローチの、カンヌでパルム・ドールを獲った名作「麦の穂をゆらす風」を観る。


まぁ、名作ですよね。
大英帝国の支配下にあったアイルランド、という題材は、アメリカ映画でも何度も語られていて、なんだか知らない間にずいぶん詳しくなったりしてて。
ま、そういう、「歴史を未来に伝えていく」みたいなことも、映画の力なんだなぁ、と。
ちょっとしみじみしちゃったりして。

ただ、ケン・ローチは“モノホン”ですからね。
エネルギーが違いますから。
画やストーリーは、アイルランドの“雄大な自然”とか、そういうのもあって、淡々と、とか、静かに、とか、そういう形容詞で語られたりするんでしょうけど、まぁ、たぎってるエネルギーが違いますよ。
ケン・ローチの魂がパンパンに込められた作品だと思います。ホントに。


ストーリーの骨格は、医師の道を捨てて「義勇軍」(当然、支配者のイギリス側にとってはテロリスト、ですね)に参加する主人公の目線で語られるんですが、その置き所が絶妙、というか。
最初は、「一緒には闘わない」と語らせておいて、駅のホームでの出来事が、彼の気持ちを変えるんですね。
で、わずかワンカットで、義勇軍に加わる、ということになって。

この時の、イギリス軍の兵士に殴打される運転手が、あとに“同志”として再登場するんですね。

この「元運転手」が、効いてるんです。
主人公の兄は、義勇軍の指導的な立場にいて、過去から現在まで、ずっと主人公に対して影響を与えてきた人物として描かれるんですが、やがて兄弟は対立する、というのがストーリーなワケです。

で、その元運転手は、主人公に対して「もう一人の兄」として現れるワケですね。


ストーリーの中で、少し唐突に、栄養失調で、というシークエンスが挿入されるんです。
ここは、物凄いさりげないシーンなんですけど、まさにここが作品のキモでもあって。

つまり、戦いの、というか、主人公が闘いに加わる動機というのは、「貧困」なワケですね。
これは、後から加わってくる動機でもあるんです。
主人公の動機ということとは別に、観る側(観客)に対して、アイルランド側の戦争の動機のひとつに「貧困」というモノがあるんだ、と。
この語り口の巧さには、よくよく考えれば考えるほど、凄みを感じる、というか。

つまりそこが、ストーリーの後半で語られる、「独立戦争」から「同胞同士の内戦」へシフトしていくキーなワケです。
「独立すればいい」のか、「貧困が解消されなければならない」のか。ここに対立がある。
そしてそこにこそ、この作品が語る悲劇性があって。

最初から語らない、と。
ここがねぇ。
かといって、前半部分に高揚感を持たせるとか、そういう演出でもなくって。
雇い主の圧力で、半ば仕方なく密告した幼馴染を“粛清”したり、とか。十分“苦い”ワケです。前半部分で描かれているモノも。

しかし、後半では、もっと苦い!


で、例えば、この前半部分でもひとつの映画になるワケですね。同じように後半部分でも、ひとつのストーリーとしてあり得る。
しかし、その両方は、この作品では同時に描かれなくてはならない。
限られた時間。
その為の、ストーリーを運んでいく手捌きの、スピード感、というか。決してセカセカした演出やカット割りではないんだけど、しかし、話の運び自体は結構なスピード感で。
かといって、語り切れてないシークエンスがあるかっていうと、そういう不十分感は全然なうくって。
要するに、無駄が無い、ということだ思うんですけど。

そういう巧さは、改めて感じました。

例えば、イギリス軍の士官が下士官に命令を下し、下士官が兵卒に「手を下す」よう命令し、そして次のカットでは、その兵卒が主人公たちの側に寝返って、と。
これをほんの数カットでサラッと見せられると、なんていうか、逆に強い説得力を感じたりして。


それから、同じ家が何度も“蹂躙”されるんですね。
ここは、ホントに唸りましたね。冒頭と、中盤、そして三度目は、「同胞たち」によって。
ここの「何度も匿ってやったのに」という老母の吐くセリフは、マジで強烈です。



「麦の穂をゆらす風」ですか…。
「麦」っていうのは、地に足を付けて生きている、アイルランドの生活者たちのことですよね。
で、「風」っていうのは、大英帝国のことではなく、「戦乱」そのもののこと。

「戦乱」が、地道に生きようとしている彼らを揺らしてしまう、と。
そこに悲劇がある、という。そういうタイトルだと思います。俺は。



うん。
まぁ、観る人によって色々受け取るモノが違ってくる作品でもあるかもしれませんね。
だからこそ名作なのかもしれないし。
人によって解釈が色々あるのは、ある意味では当然っちゃ当然なんで。

そういう意味でも、ぜひぜひ、たくさんの人に観て欲しい作品です。



ちなみに、実は俺は、ケン・ローチの作品はあんまり観た事がないんですが、観た作品の中に、「大地と自由」という、これまた物凄い傑作がありまして。
スペイン内戦を題材にした作品なんですが、これも個人的には大好きで、お薦めの作品です。

この「麦の穂をゆらす風」の、後半部分でもひとつの映画としてあり得る、というのは、この作品のことでもあります。興味がある方は、「大地と自由」もぜひどうぞ。


2009年5月14日木曜日

「レオン」を観る

午後のロードショーで、リュック・ベッソン監督の、キャリア上の屈指の名作でもある、「レオン」を観る。

久しぶりだったんですが、結末を知ってても(むしろ、知ってるだけに)、なんて哀しい気持ちになるんだ、と。
そんな作品っス。
この作品は色々言う人もいますが、ま、個人的には断固支持したいな、と。


この作品のポイントは、“暴力”を描いているワケですけど、それを極めて陽性な画面で撮る、というところにあると思うんですね。
舞台はNYですから、撮ろうと思えばいくらでもダークに撮れるワケです。画質を荒くしたり、画面を暗くしたり、単純に暗い時間(夜)に物語を進行させたり。
ところが、この作品では、ほぼ前編に渡って真っ昼間なワケですね。クライマックスシーンに至っては、朝イチだったして。
バイオレンス描写を中心に据えた作品を、こういう陽性な画で撮る、というのは、これはかなりの力技だと思うんですよ。

ストーリーのプロットも、「絶対的な悪」がいて、そいつにただただ追い詰められていく、という、あまり捻りのない、とても直線的なラインになってて(まぁ、この解釈は色々あるんだろうし、作品自体の賛否もここに由来するとは思うんですが、俺はそういう風に理解してます)。
その部分でも、構造やトリックに“頼る”ことなく、ストーリーをただドライヴしていくだけなんですね。ストーリーの推進力を、演出の力でただ加速しているだけ、という。
そこも“力技”で語り切る、という。
個人的には、この作品を名作にしている要因はそこら辺にあるんじゃないのかな、と。

もちろん、中心にあるのは、「自分を愛せなかった男」と「愛されたことのない女の子」との間の悲劇にあるんですけど、それを真正面から描くんだ、という、そういう監督の意思が、ね。


ストーリーが直線だ、というのは、大きな伏線だとか、そういう伏線を張り巡らせたり、という手法が使われてない、という部分ですね。裏切りだとかそういうのはなくって、悪役は最後まで悪を全うし、2人は「必ず~」と再会の約束を交わして手を離し、その約束の為に闘うものの、破れ、殺され、しかし「2万ドルで依頼された殺しの約束」は果たす、という。
要するに、10分とか15分ぐらいの単位でストーリーがドライヴされていくんですね。何かが掲示され、その掲示に対して10分ぐらいしたら“解答”が掲示され、また次の何かが掲示され、ということの繰り返しで物語が最後まで進んでいく。
「起承転結」という言葉を借りれば「起承結承結承結転結」という感じ。
というのが、俺なりの解釈なんです。“正解”かどうかは分かりませんけど。


で。
とにかく切ない、と。観るたびに思いますねぇ。
特にマチルダ(ナタリー・ポートマン)の佇まいが、ね。
一番グッと来るのは、DEA(麻薬取締局)にピザのデリバリーを装って潜入したあと、男子トイレでゲイリー・オールドマンに見つかって、1対1で迫られるシーン。
トイレの一番奥にマチルダが立ってるんだけど、その立ち姿はホントに切ない。

あとはやっぱり、レオンに部屋に入れてくれと懇願するシーンですよねぇ。アパートの廊下の一番奥の部屋がレオンの部屋で、そこに逃げ込む、という。
あのドア越しの、2人の表情っつーのは、マジでグッときます。躊躇うレオンと、泣き顔で「ヘルプ」と口を動かすマチルダ。


う~ん。
名作。


しかし、今観ると、ゲイリー・オールドマンのキレっぷりがどんだけ凄いか、改めてその演技の凄みが分かるね。

キャスティング、ストーリー、ディテール、演出、どれも大好きです。



2009年5月13日水曜日

「カラーズ」を観る

ショーン・ペン主演(ということが一応看板になっている)、デニス・ホッパー監督の「カラーズ 天使の消えた街」を観る。

久しぶりに、「カラーズ」を。
一応説明しておくと、「colors」(原題もこれ)っていうのは、“カラーギャング”のことですね。
「池袋ウェストゲートパーク」でも、そういうのが描かれましたけど、この作品は初めて“カラーギャング”を題材にした作品、なんてことも言われてて。

ま、そういう、一部ではカルティックな受け止め方をされている作品ですね。
主演がショーン・ペンとロバート・デュバルで、例えばDVDのジャケットなんかにもそういうのがウリだってことになってますが、正確には、彼らは“狂言回し”に過ぎなくって、実際は、LAという街の“現実”の悲劇性を描く、という作品です。
ちなみに、邦題の副題である「天使の~」っつーのは、「Los Angels」の“エンジェル”のことですね。「天使の街」っていう名前の都市なのに、そこに「天使」なんかいない、という、一応ちゃんと意味のある副題なんですけど、逆に安っぽくなってるのが残念。
いい作品なんですけど。



ま、感想は今さら、という気がしますが、なんせ久しぶりに観たので、それはそれで結構新鮮に観れちゃいました。

あ、あと、クレジットで気づいたのが、撮影監督がハスケル・ウェクスラー(ウィキペディアの当該項目はこちら


個人的に一番気に入ってるショットは、高層ビル群を背景に、カメラがパンダウンしてくるとそこにはスラムが広がっていて、そこをギャングたちが歩いている、という、まぁ、かなり“イメージ重視”のショットですね。
この画は、その強さゆえに、かなりの量のエピゴーネンを生み出してます。(ま、意図が極めて分かりやすい、というショットでもあるので)


それから、ひとつ大事なポイントとしては、登場人物たちが刑務所(留置所)に収監されているシークエンスが描かれるんですが、その、刑務所こそが一番の情報が流通する場なのだ、ということですね。情報交換の場だし、犯罪者同士が出会って交流する場でもある、という部分。
ノワール系の作品においては結構大事なディテールだよな、と。


暴力の連鎖、という、そしてその“暴力”を生み出しているのは、貧困と差別と、そこから生まれてきてしまう絶望なのだ、という、まぁ、21世紀の現代でもまったく普遍性を(残念ながら)失っていない、重いテーマを扱った傑作です。



2009年5月10日日曜日

「スモーキン・エース」を観る

一応、ベン・アフレックが主演ってことになってる(個人的には、主演はアリシア・キーズ)、「スモーキン・エース」を観る。


いやぁ。
傑作。

こんな面白い作品だなんて、全然そんな話なかったんですけど。(というか、今でも評判はあまりよくないっぽい)
いいでしょ。大好きです。
個人的には、「ユージュアル・サスペクツ」以来かも。


まず。
アリシア・キーズが殺人的に美しい!
このことを、まず書いておかないと、という感じです。マジで。
殺人的に美しい。

アリシアが娼婦(を装った殺し屋)を演じる、というだけで、心臓バクバクしますけど。


それから、ディテールを幾つか。
そのアリシアが登場するシークエンスで、彼女は殺し屋なワケですが、そのスタイルがいい。女の2人組なんだけど(相棒は「ハッスル&フロウ」に出てたクシャクシャ顔の女優さん)、アリシアが娼婦に化けて潜入してターゲットに接触して、もう一人が離れた所で巨大なライフル(ロケット弾みたいなヤツ)を構えている、という、このアイデアがクール。
前衛のアリシアと、後衛の相棒。で、そのライフルのスコープを使って、というシークエンスは結構グッと来ました。無線で話してるんだけど、スコープ(照準の十字マーク付き)でアリシあの姿を見ながら、という。
しかも相棒はレズビアンで、アリシアに惚れてて、と。
この関係性は、ライフルで離れた所からバックアップする、という相棒に対して、“動機”の奥行きを作ってるんですね。
うっかりしたら、この関係性だけで作品を一本作れるぐらいのアレですから。
ま、アリシアの美貌(と、胸。あと脚。もちろん目元と唇も。というか、全部)ありきで、ですけど。


もう一つは、ターゲットとなる男の経歴。マジシャンなんだけど、ショービズからマフィアに転身してしまう、という男。
この設定は、はっきり言って面白いですよ。そういう“裏の世界”に多少なりとも憧れを抱いている人って、ショービズの世界に限らず、いるハズだし、しかもラストに明かされる「出生の秘密」とも、実は繋がっている設定だったりするから。
実は作中ではあまり語られないんだけど、これは「父と息子」の物語だったりするワケですよね。ただの“軽い男”じゃないワケです。ターゲットの男は。私生児(違うか? 少なくとも、シングルマザーの子)として育ち、マジシャンとして成功を果たした後に、父親の住む世界(マフィアの世界)に足を踏み入れていく、という、それはそれで、ちゃんと語ろうと思えば語り得るストーリーがそこにあって。(ちなみに、作品中ではホントに全然語られてないんですけどね。もったいない)



で。

最も注目しないといけないのは、その「構造」。
ストーリー上の「構造」ではなく(もちろん、それとも関係してくるんだけど)、ストーリー上に設けられている物理的な「構造」です。

上手く説明出来るか分かりませんが、とりあえず言えることは、「密室」を幾つも作るワケです。
ホテルのスイートルーム、エレベーターの中、警備室、と。
ホテルのエントランスフロアも、広がりがある空間とは描かれなくって、凄く狭い空間として描かれてて。
ワシントンの会議室も“密室“であると言えばそう言えるし、例えば、マフィアが寝ている寝室みたいなの(後に、病室)も、“密室”と言えるし。

で。
特にホテルでは、スイートルームという、水平方向に広がった空間と、エレベーターという、垂直方向に繋がった空間が交わってるワケですね。
銃撃戦は、上下の2つのフロア(と、スイートルーム)で起きて、そこを、エレベーターという空間が接続している。
時間軸が多少無視されていて、そこを演出上の弱点と認識しちゃう人もいるかもしれませんが、個人的には、そんなことはどうでもよくって。
この、物理的な「密室空間」を幾つも設ける、という感覚が、とりあえず、凄い。

そこに、物凄い人数の人間が投入されるんですけど、ある者は死に、ある者は助かり、間一髪で逃亡し、逃亡しかけて殺されたり、と。
この混沌の感じもいいですね。投げっぱなしの感じも、個人的には大好きです。



特に、2つのフロア(ペントハウスと7階)で同時に銃撃戦が始まる瞬間は、ホントにクール。
こんなシークエンスを作れる(撮れる)なんて、監督冥利に尽きるんじゃないんでしょうか。



しかし、コモンはおいしいね。
役柄も凄いクールだし(コモンは声が良くって、それがシリアスな会話のシーンにマッチしてて、雰囲気を作ってる)、ラストにアリシアを連れて、ということだし。
エスコート・ヒーロー。
良いです。


それから、“ホテル”で言うと、舞台となるホテルのすぐ目の前に建っているもう一つのホテル、というのがあるんですね。
最初、この存在が妙で、普通ホテルの窓の外っていうのは、湖がバーンと広がって、その景色の美しさもウリです、みたいなアレになってると思うんだけど、そうじゃなくって、もう一つホテルが建ってるワケです。
で、それを最初っからちゃんと映していて。
スイートルーム(最上階)と、他の階の部屋だと、階の高さが違うから、窓の外の景色も違ってくる、みたいな演出があって、それだけだと思ったんですけど、そうじゃないワケですね。そちらのホテルから、アリシアの相棒が狙っていて、ということになってて。
この設定は、実は結構大事だったりするワケですよね。
うん。



いや、でもやっぱり、「密室」かなぁ。面白いのは。
上手に説明出来ないんだけど。



大勢いる登場人物の“キャラ立ち”については、正直ピンと来ませんでした。
「男塾」みてーだな、とは思ったんですけど、だからどうした、という結末ですから。
あんま関係ないっスね。



ストーリーの運びは、色んなラインが交錯する、という、いわば群像劇のスタイルで進んでいくんですが、それぞれが上手にシンクロしてる感じがして、ここも好感。
例えばガイ・リッチーは、個人的にはその“シンクロしてる感”が欠けている、という風に感じてて。
こういう話の運び方は、とても気持ちいい。
前半のかったるい流れは、後半部分の一気にドライヴしていくアクションパートの布石にもなってて。
音楽は物凄いダサいですけどね。


あ、それから、ディテールとしては、ラストの病院のシークエンスにひとつ注目ポイントがあって、その病院に入っていくカットで、隅の方に映ってる警官の演技が凄い良かった。
返り血を浴びたままの(FBI捜査官の)主人公格の男が病院に入っていくんですけど、そこで、フッと動くんですね。制服警官が。
その演技は、ホントに自然で、作品全体でもとても重要なシークエンスの導入になってるこのショットで、凄い“いい仕事”をしてるな、と。



もう一回観ちゃうかも…。



そんな作品でした。

子供は観ちゃダメだけどね。



あと、演出的な「感情のライン」はぐちゃぐちゃです。そういうのを致命的な欠点と感じちゃう人には、お薦め出来ない作品ですね。
世間的な評価の低さっていうのは、その辺りに原因があるのでしょう。きっと。
個人的には、この作品に関しては、そういうのはあんまり関係ないっス。

うん。


傑作。


2009年5月9日土曜日

今週の「スジナシ」

今週の「スジナシ」は、佐藤隆太。


ま、スターですよね。いまや。佐藤隆太と言えば。

で、設定は「八畳一間のアパート」。学生の一人暮らし、みたいなイメージで、最初の設定も佐藤隆太が最初に部屋にいて、鶴瓶がそこに入ってくる、と。
当然「佐藤隆太の部屋」となると思いきや、最初からそれを裏切って、「違う」と。
これは面白い。

で、巡り巡って、お人よしの空き巣同士、という。
この、なかば偶然行き着いてしまった「2人の空き巣」というストーリーは、普通にひとつのストーリーとして面白いですよね。


2人の会話からすると、佐藤隆太は先に「空き巣」って決めてて、そのアクションを勘違いして受け取って鶴瓶は「借金取り」で行こう、ということにしたみたいっスね。


「2人の空き巣」。
前科二犯のオッサンと、若い初心者が、偶然同じ現場で出くわしてしまう、と。
う~ん。
面白い。



あと、これは普通に面白かったんですけど、即興で「即興で演じてる」演技をしてるんですね。
鶴瓶は「借金取りの演技をしている空き巣」、佐藤隆太は「部屋の主を演じている空き巣」。
ま、ストーリーの面白さとは関係ない部分ですけど。


で、佐藤隆太の表現力は、やっぱり上手。
いつも一緒なんだけどね。
でも、“スター”だから、それでいいんです。いつも、「いつもの佐藤隆太」でやってれば。

本人は、自分が主体的に仕掛けていく、という演技じゃなかった、という点をひたすら反省してますけど、でも、全然いいですよねぇ。リアクションの良さ、レスポンスの質の高さと速さだって、演技力の高さの証明ですから。
(ちなみに、鶴瓶の評価は全然違いますね。鶴瓶は佐藤隆太の“仕掛け”に自分が合わせた、という口ぶりですね)


でも、口の中のやり取りは余計かなぁ。

最後の取っ組み合いは、最高。
素晴らしいオチ(結末)だと思います。


うん。

2009年5月8日金曜日

「ラッキーナンバー7」を観る

昨日観た作品とはうって変わって、スター揃い踏みな「ラッキーナンバー7」を観る。

ま、ジョシュ・ハートネット(主演)がめちゃめちゃカッコいいな、と。そういう作品ですね。

作品としては、あんまり面白くなかった。



なんつーか、体温が低いんですよねぇ。
それは、ハードボイルドとして定義される“クール”とは、ちょっと違う感じで。
もちろん、作り手側は、そういうのを狙ってるとは思うんですけど。

うん。
ハードボイルド、フィルムノワール、そういう“ジャンル”の新機軸、ということなんだとは思うんですけどね。
でも、イマイチ。
もっとテンションが高くないと。

ストーリー中に、主人公の正体と動機が明かされるんですけど、全然驚きとか無いし。
これ、どういう風に語ったら一番効果的なんでしょうかねぇ。

例えば、ヒットマンが、全然関係ない男を殺すんですけど、そこで、その殺しの意味を語るんですね。
この“語り”は、定番というか、お約束なんですけど、これをもう一回やる、とかね。
“息子”を殺すときに、もう一度語らせる、とか。むしろ、そこだけにして、そこで正体を明かす、とか。


ヒロインとの関係も全然面白くないし。
「こういう無機質な感じがクールなんでしょ?」みたいな雰囲気なんですよねぇ。作り手の。
それが全部スベってる気がするんだよなぁ。


唯一気になったのが、編集のタイミングの奇妙な感じ。
この間は、実は大好きです。

あと、壁紙が妙にポップで、それは良かった。
逆にそこが気になってしょうがない、というのもあるけど。
特に廊下を歩くシーンは、編集の間が独特なのと、壁紙が雰囲気を作ってるのもあって、ポイント高いです。(でも、それだけかも)


監督は、ポール・マクギガンという人。
どっかで聞いたことある名前だな、と思ってたら、「ギャングスター・ナンバー1」という作品(イギリス産)の監督でした。
実は、この作品は大好きなんですけど。



う~ん。
なんだろう。
やっぱ“テンション”が低い。
この間ここに書いた、坂本龍一の「映像の力が弱い所に音楽を入れればいい」という言葉を思い出しちゃったんですよね。
もっとグルーヴ感の強いサントラを被せて、そのリズムを使ってぐいぐいドライヴさせたら、もっと雰囲気が変わったんじゃないかと思います。
「ギャングスター・ナンバー1」は、確かもっとテンションが高い作品だった気がするし。

実は、最後の、ストーリーのエンディングとエンドロールに流れる曲っていうのがあって、これが凄い良くって、「えー?」って感じで。
なんてもったいないんだ、と。
「これ使え」というか、「この雰囲気でぐいぐい行けよ」という感じ。






ちなみに、その曲はこちら。なるべく大きな音量で聴いて下さい。





まぁ、これだけのキャストを揃えておきながら、なんとももったいない作品だな、と。曲も含めて。
そういう作品でした。

編集の“間”は、勉強させてもらいましたけどね。


2009年5月7日木曜日

「ブラックサイト」を観る

「ブラックサイト」を観る。


ま、ノースターなサスペンス作品なんですが、インターネットを題材にしてる、ということで、公開は去年なんですが、なんとなくアンテナには引っ掛かってた作品ではあったので。

結論から言うと、テーマは実は、そんなに先鋭的ではなかったですね。
単に、インターネット(ウェブ)を、「社会に対する復讐」のツールとして使う、ということだったので。

個人的には、「単なるツール」ということであれば、“先鋭的”だとは思わないので。


が。
実は、だからダメ、というワケでもなく、面白い作品ではありました。
ディテールが面白かったんですよね。

まず、題材が題材だけに、PCのモニターの中の映像、というのが頻出するワケですが、この「モニターの枠」というのがキモになってるんですね。

「窓枠」をチラ見せしてくるんです。ワリとしつこく。
家の外から、窓越しに家の中の様子が見えるんですが、それは、その「窓枠」が「モニターの枠」を暗示してる、という。
つまり「見られてますよ」ということを、ワリと早い段階から言っちゃってるんです。
で、その通りの展開になったりして。

“その通りの展開”っていうのは、実は何度も繰り返されてて、それはどうかと思うんですけど、ま、監督さんの意図なんでしょうね。

「空撮」が多用されてて、それが実は、犯人の動機と関係があったり、とか。
俺は、もう少し違う意味があるのかなぁ、なんて思ってたんですけど、ちょっと違いましたね。


あと、芝刈り機。
二度目に出てきた瞬間に分かっちゃいましたからねぇ。
一度目は、明らかに不自然な使い方だったんで、「?」って感じだったんですけど、それも伏線でした。
ま、その「すぐに分かっちゃう」っていうのも、ひょっとしたら演出の意図通りなのかもしれませんが。「あー、早く分かれよ」ってキャラクターにヤキモキさせられちゃう、とか。


それから、不思議なのは、第三者というか、作中では“共犯”とされている、その他諸々の人たちの映像がまったく出てこないんですね。(スケーターがモバイル機器で、というショットだけ)
これは不思議。モニターの中の、カウンターの数値だけで表現されてて。
「姿は見えないけど、確かに存在している」とか、そういうアレなんでしょうか?
ちょっとぐらいあってもいい気がしますが。
ただ、警察(FBI)の会議室の光景はちょっと奇妙で、出席者の全員が、ただモニターを見ているだけ、という画なんです。他に何にもしてない。(会議室で捜査活動は出来ないですから)
ただ殺される過程を口を開けて見ているだけ、という、ある意味一番残酷なショットが、何度も繰り返されるこの会議室のショットで。
予算の都合なんか、何かのメタファーなのかなぁ、なんて。ちょっと考えちゃいました。「無力な官僚的な捜査官たち」とか、そんななのかなぁ、とか。


で、サスペンス部分は面白いんですけど、動機が、ねぇ。
「テレビと警察」に対する犯行、ということなら、これは面白くもなんともないっス。

これだと、ウェブは、何なるツールですからね。
古典的な誘拐犯が、“電話”で身代金を要求してくる、というのと同じですから。誘拐行為に車を使って、それを乗り換える、とか、そういうのを同じ扱いですからねぇ。


そういうことじゃないと思うんですよね。

犯行も、捜査官たちも、フィールドが妙にローカルだし(何度も「ポートランド」という地名が強調される)。

ま、その辺の“期待”は裏切られた、ということで。
それはそれで、しょうがないっス。



ということで、サスペンスとしては普通に面白い、佳作という感じでしょうか。
でも、最近ならこのくらいは、それこそCSIとか、テレビドラマでもやっちゃってるからねぇ。
“映画”ですから。
もうちょっと、ね。何かあっても良かったんじゃないかな、とは思います。


2009年5月3日日曜日

「アトランティスのこころ」を観る

TBSのダイヤモンドシアターで、アンソニー・ホプキンス主演の「アトランティスのこころ」を観る。


最初は知らなかったんですが、オープニング・クレジットに「原作 スティーヴン・キング」と出てまして。
で、見始めてすぐに、「なるほど」と。

中年にさしかかっている主人公の男が、友人の死の知らせを受け、自分の過去を振り返る、と。
まさに「スタンド・バイ・ミー」の世界なんですね。
焼き直しと言ったら言葉は悪いですが、しかし、「スタンド・バイ・ミー」で描かれている情景こそが、スティーブン・キングの「作家のテーマ」なワケで。

それを、手を変え品を変えて語っていくのだ、と。

ま、いい作品ですよ。

主演がアンソニー・ホプキンス、主人公の中年時代を演じるのがデヴィッド・モース、監督が「シャイン」のスコット・ヒックス、それで原作がスティーヴン・キングですからね。
そりゃ、いいに決まってます。



テーマはずばり、「“子供”を捨て、大人に変わっていく」という、ここが「スタンド・バイ・ミー」と一緒なトコですね。
いわゆる成長譚なんですが、その舞台が、日常風景の、ホンの少し外側にある、というのが、S・キングらしいんですけど。
しかも、季節は「夏」。ここがミソ。

ラストに、中年になった主人公が自分の故郷を訪れるんですが、この時の季節が冬で、ここは対比をちゃんとしよう、と。
廃墟になった家屋の絵面って、結構インパクトあるし。


「スタンド・バイ・ミー」では、若くして亡くなった兄との永遠に続く対比に苦悩する主人公が登場しますが、この作品でも、やたらグラマーで我儘で、息子には(愛情は注いでいるものの)薄情な母親、という存在が設定され、その母親に対して“自己主張”をぶつける、という、つまり反抗期にさしかかる瞬間、というのが描かれるワケですね。

毎日が楽しくて楽しくて、そんな日が永遠に続くと思ってて、周囲を疑うことも知らずにいた、ある年(主人公が11歳の年で、この年齢は作中では強調されて出てきます)の夏休み。

その夏の間に色々あって、そして町を出て行く、と。
そういう物語ですね。


ポイントは、やっぱりラスト。“ガールフレンド”の娘、というのが登場するんですが、彼女が、見るからにやさぐれてるワケです。そんな彼女に、かつて自分が飲み屋(兼、非合法ノミ屋)の女将にしてもらったように、親の若い頃の写真を差し出す、と。
このシーンは、ホントにグッと来る。
無関心そうに去って行きそうだった娘が、立ち止まって、写真を受け取ろうと手を差し出す、という。


この監督さんは、名作「シャイン」でも、父との葛藤を抱えた主人公を描いてますが、その辺りはこの作品とも共通項があるので、ひょっとしたら、それは監督自身のテーマでもあるのかもしれませんね。


子供から大人へ。
それは、何かを失うことなんだ、ということですね。キングに言わせると。
そして、人生は水が流れるように流れていってしまうものなんだ、と。「いつまでも子供のままで」なんて無理なことだし、抗うことは出来ないし、だからこそ、“追憶”は常に切ない感情とともにあるのだし、それは語る価値のあることなんだ、と。
そういうことっスかねぇ。


ちょっと感傷的すぎるかな…。


ただまぁ、自分も、生まれ育った“箱庭”のような環境から外へ出て行った人間なんで。
そういう年齢になってきてるっていうのもあるし。

どうしても、ね。感傷的にはなっちゃいますよ。どうしても。


えぇ。



そういうワケで、多分“超”がつく程の低予算作品だと思うんですけど、グッとくる良作だと思いました。


2009年5月2日土曜日

今週の「スジナシ」

始まって早々、いきなり一週(佐々木蔵之助さんの回)飛ばしてしまった「スジナシ」ですが、今日はちゃんと観れました。
升毅さん。
設定は、町工場。


いまはマス北野(たけし?)さんもいますが、升毅といえば、当代きっての、文字通り“弩”が付くほどの名優(そして怪優)なワケですけど。

なにしろ町工場ですからね。


最初の升さん自身のアイデアでは、2人は初対面で、ということで、工場に入ってくる前に“怪しげ”な空気を出そうという自己演出があったんですが、鶴瓶の「キムラくん」の一言で、パッと顔なじみの「木村」に変身する。

この後何度も出てくるんですけど、升さんのこの“ノリ”の早さは、結構凄い。
キーワードが一つ出てきただけで、パッと“役”を作ってしまう、という。



それで、この後の2人のお芝居が、噛み合いまくって、個人的には爆笑でしたねぇ。
町工場の“社長さん”と、そこに出入りしている取引業者。

擬音とか、「例の」とか「あの」とか「あれ」とか、語尾を常に曖昧にしながら会話をドライブしていく感じとか、町場の小狡るいおっさんの会話ってホントにこんな感じ、という。


で、一番グッときたのが、鶴瓶の「トヨタとかパナソニックとかに持っていくんだろう」と振った瞬間に、「あ、そうしよう!」という顔で立ち上がって、というところ。

この瞬間はホントに面白かった。
だって、これ、多分ホントにそう思ってるんだよねぇ。「そうしよう」と。
それで、立ち上がって、帰ろうとして。


これ、俺はこの後、升さんがいそいそと帰っていくのを、鶴瓶が工場の外にまで追っかけていって、そこで「いやいや、まあまあ、もう一回話そう」みたいになるのかと思ったんですよね。

始まる前に「外も使ったら面白いんじゃないか」なんて言ってたから。


これは逆に、鶴瓶が逃げ出す、ということになってしまいましたね。
これはちょっと残念。(でも、その後の2人の会話が面白かったんで、プラマイ0のトントンですかね)


その、一回動いた後の会話は、これは多分無限に続けられるんだろうな、という噛み合い方でした。
アフタートークで鶴瓶も「大阪の商人(あきんど)」って言ってましたけど、2人ともホントにそんな感じで。

「それで、一台幾らで売るの?」
「800万です」
「え?」

鶴瓶の、この「え?」も最高。
その後の、ちょっと笑顔になって“商談”に身を入れ始める(かたや、升さん側ははぐらかし始める)という瞬間は、最高でした。



あ、「ピッチングマシーン」ですけど、俺はすぐ分かったので、最後のネタばらしの驚きはぜんぜんなかったですね。
逆に「三台で、日本だけだと36個」にはモロにうけちゃいましたけど。(日本のプロ野球の球団は全部で12チーム。プロの球団が1チーム三台買うと、36個売れる、ということです)


ということでした。



ちなみに、升毅さんは、その前の「タモリ倶楽部」にも出てたね。

2009年5月1日金曜日

マルオとマルコ

えー、新宿に丸井本館というのが、新しくオープンしたそうで。
その宣伝の一環として、ということだと思うんですけど、丸井のウェブサイトで「ルオとルコ」というコンテンツが観れるんですね。

FLASHを利用した、まぁ、ショートストーリーですね。
一応動画なんですけど、クレイアニメーションみたいな手法で映像を作ってあって、そこに韻文的なテキストが被せてあって、それを読んでいく、と。「ウェブ絵本」とか、確かそんなネーミングでした。

こちら>>>「http://allnew6.com/」



言葉の選び方とか話の運び方とか、その、ストーリー本体にはぜんぜんセンスとかは感じないんですけどね。
おとなしい男の子と楽観的な女の子、なんて、「は?」みたいな。
「オレンジジュース」とか「砂糖抜きのカフェラテ」とか、そういうチョイスは「なんだそれ」って感じだし。


ただ、表現形態として、ちょっと印象深いな、というか。

「字幕好きな日本人」ですからね。


“動く画”と“テキスト”っていうのは、ポイント高いんじゃないんでしょうか。

ちなみに、漫画(コミック)は“動かない画”と“テキスト”ですね。絵本もそう。



FLASHでここまで出来るんですね。その気になれば。