2009年5月30日土曜日

「英雄の条件」を観る

午後のロードショーで、「英雄の条件」を観る。
書き忘れてた感想です。


個人的にこの作品は大好きで、ま、何度も観てるんですが、今日は感想として、この作品の「構造」について。

法廷モノっていうのは、その“ジャンル”があるぐらいなんで、映画という表現との相性が良い、ということだと思うんですけど、それは、ストーリーテリングの手法としての「論理性」と、法廷での審理を進めるにあたっての実際の手順の「論理性」というのが、上手く合致しているから、だと思うんですね。

で、この作品では、そこに「軍隊」という要素が加えられて。
俺は、アメリカ軍のことしか知らないんですが(もちろん、こういうジャンルの映画や小説やノンフィクションから仕入れた知識ばかりなので、間接的な知識ではありますが)、「軍隊」というのは、社会の基本的な要素を、そのまま自給自足する組織なワケですね。警察も、軍隊の中に「自分たちの警察」を持ってますし、医師も、「自分たちの医師」を育てるシステムを持ってますし、法廷も、同じなワケです。
軍事法廷の場合、検事(原告)も軍人、弁護人の軍人、被告も軍人、裁判官も軍人。そして、陪審員も軍人。

で。
この作品では、「国家」「軍人としての個人」「1人の人間としての個人」という、幾つかの階層が「構造」としてあるんですね。正確には、「国務省」「軍」「軍人として」「1人の人間として」という階層。

国務省に所属している大統領補佐官が、「国家」の層を表していて、被告(サミュエル・L・ジャクソン)に罪を被せようとする。
同じく「国家」に属しているはずの、被告に命を救われ、本来なら被告に有利な証言をすべきである大使は、「1人の人間」がもつ卑しさにつけこまれ、「国家」に有利な立場に“逃亡”する。
「軍」の層には、ここが一番微妙なんだけど、被告の心情的な味方になる、被告の上官と、もうひとりとても大事な役回りを演じる、検事役の男、というのがいて。そして当然、被告。

で。
主人公は、「1人の人間」としての苦悩も抱えているんですね。父へのコンプレックス、自分のキャリアへのコンプレックス、息子との関係、それらを比喩的に示す、アルコール依存症というトピック。

で、そういうのが全部、入れ子状になってる。
この、入れ子状になってる「構造」の巧さと、その使い方、運び方。

例えば、ラスト前に、補佐官に、「個人的な報復」を告げにいくワケです。つまり、階層を「1人の人間」がブチ抜いている。
この前で、老父と(小生意気な)息子に最終陳述を褒められて、「1人の人間」としての“葛藤”を超えているのと加えて、観る側は、ある種のカタルシスを感じるワケですよね。ここで。
「構造」が、ここで閉じている。
閉じた上で、被告が無罪、という、ストーリー上の大命題の回収があり、ストーリー自体も閉じる。

それから、この作品は当然、主演の二大スターの作品として語られるワケですけど、もう1人とても重要な役どころがあって、それは、ガイ・ピアーズの検事なんですね。
ともかくこの人の表情と立ち姿っていうのが、画面に緊張感を与えているワケです。
で、この人の、法廷での微妙な反応とかを、カットアップで上手に見せていく。
隠蔽されたビデオテープを巡って、補佐官が、自分に責任を負わせようとしているかのような発言に、鋭く反応する、とか。
大御所2人と法廷で対峙するには、それなりの存在感がないといけないワケですけど、その役目をしっかりと果たしていて。
ま、いいですよね。


それから、ベトナム戦争から中東での騒乱、という、シチュエーションの立て方も、まぁ、いかにも「好戦的なアメリカ」というか、「仮想的を作らずにはいられないハリウッド」というのを、作品自体の中で(結果的に)批評的に示唆してもいて。
結末として、ベトナム人のかつての仇敵と、敬礼を交し合う、というシーンがあるんですね。これはホントに微妙なショットで、「構造」的に言えば「軍」ではなく「軍人」同士として、「1人の人間」同士として理解し合えた、ということになるんだけど、かといって、もっと大事な、そもそもの“中東での問題”が全然解決してない、ということにもなってて。
特に赤十字の医師の描き方っていうのが、ね。
あまり良くないですよね。

彼らの“動機”をちゃんと描かない、というのは、ま、この手の作品の常套手段ではあるんですけどね。
敵方の指導者の姿を描かない、とか、語らせない、というのは。

ま、それも含めての「構造」ですから。

えぇ。
いい作品だと思います。

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