2009年6月26日金曜日

買い物

ふと思いつき、というより、急に思い出し、アマゾンを探索して発見したブツが、昨日届きました。


「逃亡地帯」と「ガルシアの首」と「破壊!」の、VHS(!)。



レンタル落ち、なんて呼ばれ方をしているブツで、その、「レンタルビデオ屋さんにあったもの」という意味みたいですね。
ま、中古品、ということです。



いま書いてる作品を書き終えてから観よっと。



というか、そっちが真剣にピンチなんだけど…。


ウンウン唸りながら、いつものように迷走中です。



最後まで辿り着くか(書き終えるか)、今回はマジに不安…。



逃亡したい



スイマセン、ホントに。
ダジャレが浮かんじゃうぐらい、疲れてます。脳が。


やべーよー。

2009年6月24日水曜日

「ガタカ」を観る

またしても午後のロードショーで、「ガタカ」を観る。


正直、途中でかなり眠たくなったり(というか、実際寝てた)してたんですけど、細かい設定とか、そういうのは大好き。

遺伝子操作によって、「生まれながらのエリート」というのがいて、そうじゃない「遺伝子的に不備がある」という人がいて、そこに“差別”とか“格差”がある社会、ということで。

デザイナーズ・ベイビー。


“自然妊娠”だと、いきなりその場で将来の疾病率とかがチェックされて、生まれたその場でいきなり“烙印”を押されてしまう、という。

ただ、やっぱりこれを、「ブレードランナー」とか「トータルリコール」みたいな世界観でやるべきなんだよねぇ。
まぁ、ベタなんだけど。

この「ガタカ」のようにやっても、あんまり、ね。

画にも説得力ないし。


こういう設定っていうのは、ホントにかなりパワフルなメッセージを込めて語る、ということがやれるハズなんですよねぇ。
そもそもSFっていうのは、そういう、「現代社会批判」という意味や目的がありきのジャンルでもあるワケだし。

予算の制約、というのがあるんだとは思うんだけど、でも、もうちょっと違うやり方があったんじゃないかな、と。


主人公と弟の関係、とか、擬似家族、みたいな関係性になる“元エリート”とか、それぞれいい感じに配置はされてるんだけど、あんまり深みもなかったりして。


主人公の動機、前へと突き動かす動機も、物凄い個人的なモノだし。

これじゃ、単なるスポ根と変わらねーじゃん、みたいな。


でも、ラストの右利き/左利きのヒネリとかはすげー好きなんで、全部ダメ、とは言えないトコが、また難しいんだけど。


ユマ・サーマンとか、ただ綺麗なだけで、全然居る意味ないしね。


間違いなく言えるのは、シナリオの勉強にはなる気がします
というワケで、「惜しいっ!」という作品でした。


2009年6月21日日曜日

Promise in Love

PVの紹介ばっかりになってますが…。


「Promise in Love feat. Jose James」という曲。


DJ Mitsu the Beatsという人の曲です。


モノクロの、登場人物は男女のダンサー3人だけ、という。

この映像は、かなりグッときました。

ダンサーが、踊ってる間、ずっと微笑んでるっていうのも、なんかいいですよね。「愛」について歌ってる曲ですから、そういう雰囲気で。
あれは、PVの演出サイドがそういう風にディレクションしてるんでしょうか? それとも、振付師みたいなのがいて、PVのDは、それを撮ってるだけなんでしょうか?
気になるところ。


ただ、やっぱり、“飽き”がありますよねぇ。
おんなじなんで。

だけど、敢えてそこを、この映像だけでやる、という。
それはそれで、かなりの力技ではあるな、と。
勇気がある、というか。

もちろん、「曲が良い」ということありきの映像なんですけど。

うん。


いい曲だ。

2009年6月19日金曜日

sad to say

CMでやってるので、聴いた人も多いと思うんですが、JASMINEという人のPVを。





クールですよね。

これは、曲も結構いいな、と思ったんですけど、まぁ、なにより映像のインパクトがある。
無人の都市、ということで。


でも、この、都市の風景だけの画は、写真を写してるだけだと思うな。(そういう写真集があって、それはワリと有名です)

でも、この、無人の都市を歩く女の子、っていうアイデアは、良いですよね。



昔、似たようなアイデアを思いついたことがあって。
お盆の時期って、官庁街とかはもうホントにゴーストタウンみたいになるんですよ。
で、霞ヶ関の一番デカい道路のど真ん中を全裸で全力疾走したら相当面白いんじゃないかな、みたいな。



失恋を歌った歌だと思うんだけど、その“寂しさ”を、「無人の都市を彷徨う姿」で描く、と。
良いと思います。

それから、彼女が歌うのを真正面から撮ってるのも、良いと思うんですよね。
泣いてるんじゃなくって、独りで彷徨ってる。

失恋して、街に出る、というのは、結構大事なポイントなんだと思うな。
ま、それはちょっと、置いといて。


彼女が、無人の道路を歩きながら、カメラの真正面で歌う、というのは、いい画だな、と。
というか、好きなんですよね。こういうのが。
自分でも、こういう感じで色々撮ったりするんですけど、これはホントに、ディレクションが難しくって。
「演じる人」は、もちろん、色々自分でやりたいワケで。

いや、そういう話も、さておき。



彼女が、独りで歩く画は、イマイチです。
歩く姿が、全然リアルじゃないよねぇ。
ブーツのヒールの高さに慣れてないのもあると思うんだけど。
ぎこちないっスね。

歩くんじゃなくって、ただ立ってるだけでいいんだよねぇ。こういうのって。


交差点の所に立ってるだけのショットがあるけど、そのショットはいいからね。


うん。

ジャスミンさん。


発音からだと、韓国の人なのかなぁ、とか思ったんだけど、どうなんでしょうか。
英語は上手だけど。
詳細は分かりません。

いい曲だけどね。

2009年6月18日木曜日

CSI「誰も知らない存在」を観る

CSIシーズン6の、「誰も知らない存在」というエピソードを観る。


重厚な内容で、面白かった。

CSIの“無印”は、舞台がラスベガスってことも関係してると思うんだけど、人間が本来抱えている闇、というか、物凄いスケールの小さな“悪意”とか“弱み”とか“醜さ”とか、そういう部分がフレームアップされたエピソードが多い気がするんですね。

「NY」は、ニューヨークという世界一の大都市に飲み込まれちゃったりだとか、踏み潰されちゃったとか、あとは、上流階級と貧困層、とか、都市ならではの犯罪とか動機だとかが描かれてて、もちろんそっちも大好きなんですけど、ラスベガスのシリーズとは、ちょっとテイストが違ってて。

「マイアミ」は、これはまた全然違う雰囲気で、“楽園”のダークサイド、というか、麻薬シンジケートという巨大な敵である犯罪組織との戦いが描かれたりして、それはそれで、という感じで。


で。
今回のエピソード、原題は「Werewolves」という、これは、狼男のことですね。
さらに、複数形になってることもポイント。


事件は、ある匿名の通報電話があり、小さな家で、体毛が異常に濃い男性の死体が発見される、と。
それはなんと、銀製の弾丸で撃たれていた、という。

オープニングは、ホラーみたいなタッチで始まるんですね。電話ボックスで話している通報者の姿を映すんですけど、ちょっと怖い感じで。

で、被害者は、遺伝性の多毛症という病気だった、ということが説明されて、彼の周辺の人物の捜査が行われて、同時に、通報があった電話ボックスが発見されて、鑑識捜査もそこであって。
で、そこからも、体毛が発見されて。

被害者には、双子の妹がいる、ということが分かるんですね(これが、複数形の意味)。

被害者宅をもう一度捜索すると、なんと、リビングの一番奥の壁の向こうに、隠し部屋を発見するんです。女性捜査官(鑑識官?)が。
隠し部屋の中には、全身毛で覆われている、妹が居て。
彼女は、兄が殺された瞬間もそこにいて、殺されたあとも、ずっとその中に潜んでいたんです。

彼女は、その外見(狼男のように体毛で覆われている)から、ずっと部屋に閉じこもって生きてきてる、という設定で。
で、彼女は殺された被害者とは、双子の兄妹なワケですけど、当然、両親に付いても語られて。

父親は、双子が生まれてからすぐに、彼らを捨てて家を出て行ってしまい、母親はある時、交通事故にあった、という嘘をついて、家を出て行く。
残された兄妹は、2人だけで生きてきたんだけど、妹は、その存在を周囲にも知られてなかったんですね。多毛症の症状が比較的軽い兄は、ワリと日常生活を普通に営んできたんだけど、ずっと妹を家の中に匿ってて。

で、結局犯人は、被害者の婚約者の兄、という人物で、彼は、被害者の“親友”でもあって。
彼が自分の妹を被害者に紹介した、ということになってて。

しかし、その彼が、自分で“銀の弾丸”を自作して、それで“親友”の胸を撃った、と。


ポイントは、女性の捜査官が2人登場してくるんですけど、彼女たちは2人とも、見事な金髪なんですね。
これは、敢えて、キャストの中の、金髪の2人をシナリオ上でピックアップして並べてるんです。(黒髪の女性捜査官もいるんですけど、彼女は今回はあまり活躍しません)
妹との対比で。

そして、被害者の婚約者、というのも、同じような、きれいなブロンズで。


そういう諸々の仕掛けが、妹の悲劇性を高めている、という。

で、捜査によって、母親は居場所が明かされ、事情が説明される。
そしてラストで、一度は捨てた妹のもとに、母親がやってくるんですね。



う~ん、と。

長々とストーリーを説明してしまいましたが。



なんつーか…。


導入は、オカルチックな雰囲気なんですよ。
で、中盤は、いつもの“科学捜査班”で、いわゆる“科学捜査”が行われる。狼男のような外見も、「それは遺伝性の病気である」という説明がなされて、それで、最初のオカルト・ホラーテイストが否定されて。

で、終盤で、“動機”や背景が説明されて、人間の悪意や弱さや身勝手さや、そういうモノが殺人を生んだのだ、みたいな謎解きがあって。
ここでは、科学的・合理的な“理屈”が、人間の“情念”みたいなのを暴く、みたいになってるんですね。
同時に、これはシリーズに通低するテーマなんだけど、 “理屈”はしかし、“情念”みたいなのを止めることは出来ない、という。暴いたり、対抗したりは出来るんだけど、人を動かすこと自体は、“理屈”(論理)では出来ない。

基本的に、この「出来ない」という部分のほろ苦さが、作品の奥行きになってるんですけど、ここでは、最後に母親が帰ってくるんです。
つまり、ここで人間性の回復が描かれている。

そこは、捜査官たちには関係ない部分で、母親の自発的に、自らの罪を悔い、過ちを回復しようとしている、ということが語られていて。


これは、なかなかないですよねぇ。
非常に優れたシナリオじゃないかな、と。

そう思ったんです。



いかがでしょうか?

2009年6月17日水曜日

「ママの遺したラヴソング」を観る

「バリ・シネ」で、スカーレット・ヨハンソンとジョン・トラボルタが主演の、「ママの遺したラヴソング」を観る。


書き忘れてた感想です。


実は、観ててあんまり面白い作品じゃなかったんですよね。
個人的には、すげー嫌いなタイプの作品。

だけど、ラス前の「実は、2人は~」というのが判明してからの、2人の会話のシーンがすげー良くって、「あ、いいかも」という感じで。


彼女は、母親の存在やその愛を知らずに育って、まぁ、それで“不良”になっちゃった、という役を演じてるんですね。18歳とか、そういう年齢の役。まだ高校生で。

で、ラス前の2人の会話で、彼女はその欠落感を埋めることになるんですが、その会話の感じが、すげー良かった、と。
“幼い頃の記憶”とか、そういうキーワードで。

「母親に愛されていた自分」の記憶、というのを、自分で色々作ってた(想像していた)、という。
そういう“寂しさ”を分かってくれ、と。
だけど、その“捏造した記憶#”も、まるっきり虚構でもなくって、初めてのクラスメートとのデートでライブハウスに行ったときに、チラッと、似たような記憶が浮かび上がってきたりして。


この、「アイデンティティー」は記憶によって構築されているのだ、というのは、実は個人的に、結構気に入ってる題材でもあって(逆に、よく使われる題材でもあるんですけどね)。

で、ま、18歳の女の子が発する言葉としては、かなりのリアリティーがある、というか、彼女なりの必死に叫びなんだろうな、という、説得力を感じたワケです。

あのセリフは、なかなか書けません。



それから、もう一つ気になったのは、河の堤防を使ったショットですね。
この作品の舞台は、多分、カトリーナで沈没しちゃったのと同じ地帯なんです。
そういう背景がこっちにあるので、その、堤防の近くに住むホワイト・トラッシュたち、というのには、結構リアリティーを感じたんですけど、それはさておき。

堤防の手前の風景を撮る時に、堤防越しに、河を進む船の煙突が見えてたりするんですね。
これは結構面白くって。
土手の上を歩くショットもあるんですけど、そのショットでは、河の対岸に、大きな工場とかが映ってるんですね。
で、土手を、降りてくると、そういうのが見えなくなる。
見えなくなって、そこには、酔っ払いたちが車座になって歌を歌ったりしている場所(キャンピングカーのトレーラーみたいなの)があって。
そこが「掃き溜め」である、ということが、まぁ、意図的ではないのかもしれないんですけど、なにげに描かれてたりして。

河を進む船がある、というのは、「そこには働いている人がいる」という表現としてもあり得るワケですよね。
それを、昼間から飲んだくれている人たちとを、同時に描写する、みたいな。

ま、そんな意図はなかったかもしれませんけどね。



あ、それから、この作品でも、トラボルタは踊ってます。
ただし、その後に、かなりキツいシーンがあって、そこでもセリフは、切れ味があって良かった。


そう考えると、セリフの良さを味わう作品なのかもしれませんね。

作品自体は、すげー低予算なんですけど、でも、セリフには、そんなこと関係ないですからね。



というワケで、そういう作品でした、と。


2009年6月13日土曜日

今週の「スジナシ」

今週の「スジナシ」は、田中美里。


今回の舞台設定は「足湯」ということで、実際には、2人は座りっぱなし(足湯につかりっぱなし)で、動きが無くって、ずっと会話劇だったんですね。

で、個人的にはあんまり面白くなかったんですが、演じた後のアフタートークを聴いて「おぉ!」と。


そんなことなかったんですね。
気がつかなかった…。


でも、言われて、改めて観てると、確かにそうなってて、なるほどな、と。田中美里さんが、最後に「ちゃんと物語になるもんですねぇ」なんて言ってたけど、ホントにその通りで。


田中美里さんが、鶴瓶の“愛人”である「アケミ嬢」の登場に対して、途中で「誘惑する」のを諦めた、というんですね。

鶴瓶が、足湯のお湯に手拭いを浸して、自分の身体を濡らして、という仕草に対して、その瞬間に「誘惑するって決めた」と。誘惑して、浴衣を脱がしてしまえ、という“魂胆”だったらしいんですが。
で、次に、鶴瓶にスッと近寄るんです。離れて座ってたのを、自分から動いて。
これが、「誘惑する」という演技。


で、鶴瓶が、会話の中で(当然、これは即興です)、「アケミ嬢」のことを話すんですが、それで田中美里さんは「諦めた」と。誘惑するのを。

で。
ここからが凄いんですが、その後の会話が流れていく中で、鶴瓶が、スッと田中美里の方に身体をズラしたんですね。
ほんの少し、近寄った感じ。

ここで、「あ、アケミに勝てるかも」と思ったらしいんです。田中美里さんは。
自分の近くに少しだけ寄ってきた、という仕草を見て、そう思って、再び「誘惑」を始めるんですね。


で、オチとしては、鶴瓶はすっかり「誘惑」されちゃって、そこで終わり、という。

会話の間に、劇的な変化が起きていた、という。
これはこれで、かなりドラマチックなワケですよねぇ。


うん。


アフタートークで、田中さんは「ホントの私はこんなんじゃないですよ」なんて言ってましたが、いやぁ、凄いな、と。
田中美里、恐るべし…。


という感じでした。

2009年6月12日金曜日

君たちは輝く恒星で、俺はその間を流れている彗星でいいのさ

キザイア・ジョーンズというミュージシャンの「My Kinda Girl」という曲のPVを。




タッチが、なんか茶色をベースにしてる感じで、あったかい雰囲気ですよね。
クラシカル。

このPVは、要するに、街には色んな女の子がいて、「嗚呼、みんな可愛くて大好きだ」ってことですよね。
賛成したいな、と。


このPVのミソは、色んな女の子がいるんだけど、その、生活の中での姿、と。
最近のPVでは、女の子のセックスアピールっていうのは、ギラギラの、肌見せて髪巻いて谷間作って半乳見せてパンチラで、みたいに描かれることが多いんだけど、「いやいや」と。そうじゃねぇ、と。

そうじゃないワケです。マジで。



もう一つ。
それは、働いてる人も、カフェでお茶してる人も、同じ感覚で映してる、ということですね。タクシーのドライバーも、お店の店員さんも、みんな好きだぜ、という。
普通に生活している姿、ということですね。でも美しいんだよ、と。



えぇ。
好きですよ。みんな。



そういう、素晴らしいPVだなぁ、と。
曲もいいしね、もちろん。

2009年6月11日木曜日

なんかグッときたので

新聞に、トルコ出身の(クラシック畑の)ピアニストだという、ファジル・サイさんという方のインタビューが載ってまして。

まぁ、映画とはあんまり関係のない内容かもしれませんが、なんか、なんとなくグッときたので、ご紹介。


クラシック音楽の演奏から個性がなくなっている。最近では、本来、即興的に独奏される協奏曲のカデンツァも、演奏全体の解釈も、他人任せになっている。これは間違っている。クラシックのピアニストがいくら技巧的に演奏しても、それだけではまったく興味を感じない
ハイドンのピアノ曲は、演奏技術的にはとても簡単で、8歳の子どもでも、何曲かは演奏できる。しかし、内面から演奏するには、とてもたくさんの人生の経験、感情といったものがないと難しい。3,4分で映画のサウンドトラックのように「物語」を作らないといけない。
自らの「内なる声」を取り出し、楽器に伝えるというのが、作曲でも演奏でも、音楽のとるべき方向なのだ。クラシックのピアニストの大半は今日、そうした方向性を持っていない。ジャズピアニストのキース・ジャレットを例に出せば、彼のピアノの音にどれだけの感情がこもっていることか。まるで「歌っている」ようだ。音楽の内面が演奏されているから、彼のピアノは人間の声のように聞こえる。
ベートーベンやモーツァルトでさえも、即興的な作曲家だった。シューマンは、毎日のように即興演奏を自分の生徒に聴かせていた。彼らは当時、キース・ジャレットのように(自分の曲を)演奏したはずだ。

作曲は常に「進化」しなければならない、という観念がある。
80年代から90年代、自分が10代から20代の頃、多くの若い作曲家たちは、自問自答する形で「次は何だ」と考えた。
ある意味、(作曲の)技術的な発展という意味では「歴史の終わり」だったのだ。
作曲とは「湧き出るものを取り出す」作業だ。技術的発展がエモーションの高まりを伴わないのならば、それは音楽ではないと思う。


「技術的な発展に、エモーションが伴ってなければ、それは音楽ではないと思う」と。


う~ん。

グッときた感じ。


エモーションね。
この人は、「エモーションの高まり」こそが「内なる声」であり、「個性」だ、ということみたいだけど。


にゃるほどねぇ。
いい言葉だ。

2009年6月7日日曜日

映像の力

スポーツ誌「Number」のウェブサイト版「Number Web」で、こんな記事がありました。
バルサ優勝を支えた 知られざる「映像」
http://number.bunshun.jp/europe/column/view/3870/


ヨーロッパの、サッカーのチャンピオンリーグというのがあるんですが、そこで、スペインのバルセロナというチームが優勝したんですね。
で、そのバルセロナの監督は、まだ38歳という、その世界では全然若手の、実際に就任一年目だったんですが、「ペップ」というニックネームで呼ばれてる人なんです。
元々はバルセロナのスター選手だった人で、分かりやすく“日本のジャイアンツ”で例えると、今の原監督みたいな感じ。

で、その監督が、チームの選手たちに、試合前のロッカールームで、特別に製作された“ショートムーヴィー”を見せた、と。
そういうニュースですね。


これは、興味を引きますよねぇ。

「グラディエイター」をサンプリングしてるってことなんですけど。
「選手の心の琴線に触れるものが欲しかった」という(サッカーチームの)監督が、(映像の)ディレクターに出した注文は、「選手24人を全員出してくれ」。

トータルで7分10秒。



ぶっちゃけ、これは実際のブツが観たいでしょ!

「グラディエイター」の映像の間に、バルサの選手たちの映像が挿入されて、パバロッティの「誰も寝てはならぬ」。
観たい!

(ちなみに、「誰も寝ては~」は、確か荒川静香さんがオリンピックの舞台で使った曲だったハズです)


戦いに向かう選手の気持ちを鼓舞し、チームの結束力やチームメイトへの忠誠心を一気にブーストする。
そのために、「映像の力」を使う、という。


映像(+音楽)っていうのは、精神に作用する力があるのだ、と。
そういうことですよね。




ちなみに、来週の土曜日(13日)の深夜にテレ朝でやる「古田の方程式」では、なんと、周防監督と古田さんが組んで、スポーツニュースの映像を撮る、みたいな企画をやるらしいです。
これは必見。
相撲→社交ダンス、というキャリアを誇る周防さんですから、これは間違いないモノが観れるでしょう。
楽しみ。


2009年6月6日土曜日

今週の「スジナシ」

今週の「スジナシ」は、宅間孝行。

ま、俳優としても腕のある人だと思うんですが、とりあえず現在はもっぱらシナリオライターとして“売れっ子”になってますよねぇ。

その人が、自ら演じながらストーリーを作っていかないといけない、という、即興ドラマの舞台に。
と、それだけでややテンションが上がってしまいました。

出来たストーリーは、何気に宅間印というか、“それっぽい”感じの出来上がり。
普通に感心しちゃった。「ほぇ」みたいな。
「普通にドラマになってる」って感じで。

作家(シナリオライター)としての宅間さんの“作風”っていうのは、あくまで俺の解釈ですが、まず、いわゆる“構造”を作るのが上手い。
で、その構造の、ホンの一部分だけを使ってストーリーを組み立てるんですね。
で、そのストーリーを語っていく過程で、あらかじめ作られている構造全体が、受け手に対して、少しずつ顕わになっていく。
ストーリーは、構造を語る為に運ばれていくんじゃないんですね。あくまでストーリーはストーリーとして、登場人物の動機だったり関係性だったりの為に進んでいく。
で、その中で、受け手が勝手に自分の想像力を駆動させて、その背後にある構造の存在、あるいは全貌に気付く、みたいなことが起きて、そこに“快感”みたいなのを感じてしまう、と。

そんな感じだと思うんです。

まぁ、伏線の張り方が巧い、という、すげー簡単な言い方もあるとは思うんですが。

これもあくまで俺の解釈ですが、三谷幸喜さんは、自分が作った構造を登場人物たちにいかに語らせるか、担がせるか、あるいは破壊させるか、みたいな感じ。作劇としては。
もちろん、登場人物も全部三谷さんの創造物なので、「自分が作った○○を語らせる」というのは、文法的におかしいんですが、本人の感覚で言うと、多分そんな感じなんじゃないかな、と。
そのためにストーリーがある、という。

自分が作った“構造”に、キャラクターが奉仕している。


宅間さんは、“構造”を作ることと、キャラクターを動かすということが、少し乖離していて、そこら辺に作家としての面白さの秘密があるんじゃないか、と。


なんつって。
これじゃ、「スジナシ」の感想じゃないですね。やめます。



とりあえず、今回の「スジナシ」は、アフタートークで宅間さんが言ってた「とにかく、衣装の交換というのがやりたかった」という意図どおり、ほぼ宅間さんの思い通りに進んだ感じ。

まず、出だしのインパクトが凄かった。「大丈夫だから」とか。
鶴瓶は、その前、宅間さんが登場する瞬間に「はぁはぁ」という息づかいが聴こえて、それで瞬間的に自分のキャラクターを変えたって言ってたんだけど、それも凄いです。
画面では、はっきりとその、変えた瞬間というのが映ってて、その切り替えは、凄かった。


で、なんだかんだ会話していくうちに、誘拐犯グループ、という設定が出てきて。
この設定の決定は、2人の“共犯”。
「黒いバッグ」が身代金の受け渡しのため、という鶴瓶のアイデアで、ですね。

で、凄いのは、ここから。
2人には“過去”があって、かつて万引きを見逃してくれた、とか、これはアフタートークで鶴瓶が言うんだけど「甥と叔父」だった、とか(宅間さんは、多分、実の親子ってイメージしてたと思う)、そこまで飛躍するトコ。


これは、「とにかく話を転がさないと」という、この企画の制約、ある種の“強制力”が2人の演者兼作家に作用して、無理やり捻り出されて来たストーリー(これは“構造”でもある)なワケですね。


その、ストーリーを捻り出すってだけじゃなくって、これを、「メガネがない」とか「靴下も脱げ」とか、そういうドタバタ劇を進行させながらやる、というとこも、凄い気がする。

凄いですよ。
だって、全然ベクトルが違うことをその場でやってるってことですから。


で、そんなこんなで、宅間さんが最後に、キチンと宅間さんらしい締め方で締めて、終劇。


う~ん。
即興ってことを抜きにしても全然面白いですよね、これって…。



あ、それから、セットの、実は大半を占めていた、駐輪場の部分を、宅間さんがまったく無視して使わなかった、というトコも結構驚きでした。
関係ないのね。
まったく無視。

ああいうセットがあったら、なんとなくそっちに引っ張られちゃいそうな気もするんだけどね。



ということで、さすが宅間孝行。
もちろん、鶴瓶も、ぶよぶよの半裸体の面白さも含めて、さすがでした。


面白かった!

2009年6月5日金曜日

「逃亡地帯」を観る

またしても午後のロードショーで(今週は全部観ちった!)、アーサー・ペン監督の「逃亡地帯」を観る。


いやぁ、傑作。
これはぶっちゃけ、DVDを買いたいです。手元に置いておいて、また観直したい。

群像劇ってことで、主演はネームバリューから言ってマーロン・ブランドってことだと思うんですけど、逃亡犯役のロバート・レッドフォードも輝きを放ってるし、ジェーン・フォンダも出てるし、ということで、いま観ると何気にオールスターって感じ。

この作品は1966年に公開、ということで、アーサー師は翌年に、“ボニーとクライド”の逃避行劇「俺たちに明日はない」を、レッドフォードは3年後に、マーロン・ブランドではなくポール・ニューマンと組んで「明日に向かって撃て」で、国外逃亡を果たす、という。
(ちなみに、ジェーンの弟のピーターの「イージー・ライダー」も、この3年後の作品)


個人的には、「俺たちに~」と対になってる作品なのかなぁ、という感じ。
ボニーとクライドという、逃亡犯を描くのが「俺たちに~」なワケですが、この作品では、その逃亡犯側の内面(というか、動機とか個人史というか、要するに、キャラクターを深く掘り下げて描く、ということ)が殆ど語られてなくって、いわゆる“状況証拠”だけ、という感じで。
「ツイてなかったんだよ。俺の人生は」ってことぐらいしか本人も語りませんし。
この作品は、レッドフォードの脱獄犯が目指すホームタウン(故郷の小さな町)に、まるで遠隔操作のように引きこしてしまう“波風”を描いていて、ま、裏表になってる、ということですね。


で。作品の年代史的なポジションの話はこのくらいにして、作品本体の感想を。


まず、レッドフォードがひたすら逃げる姿と、それとは全然オーバーラップしないで、彼をのちに“迎え入れる”町の様子を描く、前半部分が凄い。
この町の様子っていうのが結構エグくて、退廃的なカントリータウン、という感じで、まぁ、現代性がある、と言うと言い方が変ですが、要するに“人間は全然変わってない”ってことなんですけど、そんな気持ちにもさせるエグ味があります。

まぁ、その、後世に語りかける、というのはアーサー師の意図するところではなくって、これは、逃げ続ける(ちなみに、ここでは直接的な追っ手の姿は描写されません。なので、レッドフォードは“見えない敵”から逃げているように見えます)レッドフォードの姿との対比が行われている、と。

退廃的な、自己満足的な、閉塞的な、そして閉鎖的な、町の様子と、その町の“アッパークラス”の生活用の様子、そしてアッパークラスの生活に嫉妬する“その下の階層”の愚痴も描かれ、そこにさらに、人種差別も描かれていて。
要するに、腐り切ってるワケですね。

で、脱獄犯のニュースによって、その“腐ってる部分”が炙り出されてくる、という。
この感じは、ホントにキケン。

銀行に美人の奥さんがやってきて、それは旦那が銀行に勤めてるからなんだけど、実は旦那の同僚と堂々と不倫してる関係でもあって、なんていうか、そういう“薄汚さ”というか、“腐ってる人間”を描く、と。真正面から。

ジェーン・フォンダには恋人がいて、彼は地元で一番の富豪で名士(銀行の頭取でもあるんだけど)のジュニアで、後継者として育てられているんだけど、彼にも妻がいて。
その妻とは、“契約を結んでいる”上っ面の仮面夫婦で、そういうことに気付いてないのは、親父の富豪だけで、とか。


その中に、保安官として、マーロン・ブランドがいるんですね。
アメリカの司法機関の中で、この保安官制度っていうのは少し面白くって(というより、日本にはない独特のシステムで)、要するに、かなり独立した存在だ、ということなんですね。
“自分の城”を構えている感じ。
あまり「組織の人間」ってことを感じさせない存在にしてて、で、それがこの作品では欠かせない要素になってて。

つまり、極めてインディペンデントな存在として描かれている。
また、マーロン・ブランドがハマってるんですよね。これが。
堂々と黒人を庇う、とか、自分なりの“正義”の論理、倫理観、基準でもって、脱獄犯とも向かい合おうとする、とか、そういう人物。
しかもその結果、いわゆる“町の人間”たちに私刑(リンチ)をくらったりしてしまう、という。

このエグ味!
デヴィッド・フィンチャーとかブライアン・シンガーとかにリメイクして欲しいっス。現代に置き換えて。
全然成立しちゃうでしょう。
人間の暗部なんて、全然変わってないのだ、ということで。



そして、衝撃のラスト。
これはホントにびっくり。



あ、あと、セリフがクールだったなぁ。
「店に戻って、ウィスキーをもっと飲んで、他人の女房と寝ろよ」
「今言ったことですよ。あなたは恩恵を押し付けて、感謝されることを強要している」
「俺が真実とか正義とかいうやつを信じてると思うのか」
などなど。
もちろん、訳語の関係もあるんでしょうけどね。


うん。
是非とも、もう一度観たい作品です。


2009年6月3日水曜日

「サンダーハート」を観る

またしても午後のロードショーで、ヴァル・キルマー主演の「サンダーハート」を観る。

ネイティヴ・アメリカンの居留地(スー族)を舞台にした作品で、父親がスー族と白人のハーフだという出自からピックアップされた若いFBI捜査官(ヴァル・キルマー)が、居留地で起きた殺人事件の捜査のために、父の故郷でもある居留地にやってきて、そこで、現地の“内戦”に巻き込まれる、という。

一応、「事件を解決する」というサスペンスの形になってるんだけど、主人公が“本当の自分”に気付く、という、ビルドゥングスなストーリーにもなってて、結構面白いストーリーでした。


主人公は、父親から受け継いだ“血”を、半ば隠してるワケですね。自分で肯定できない。
ここがミソで、結果的に、色々あって、その“血”を濃く継いでいる自分を肯定し直す、という。


白人とネイティヴ・アメリカンという、アメリカの社会と歴史が抱えてきた“巨大な暗部”を、決して矮小化することなく、上手に、ひとつのストーリーとして落とし込むことに成功してて、シナリオ的にも、小さな伏線を少しずつ回収していく後半の運びなんかは、上手だな、と。
いいシナリオだと思います。


こういう、血の繋がりというか、そういう“運命”とか“宿命”みたいなのを、1人の登場人物の内面に全部押し込んじゃって、そうすることで、大きな問題をひとつの作品の中に、目に見えるサイズ・一つの作品の中で扱えるサイズに落とし込む、という手法は、個人的には結構好きかも。
別に特別新しい文法ではないんだけど、実は勉強になった気がします。


ネイティヴ・アメリカンの儀式の感じとかは、(アメリカ人から観れば)オカルトな雰囲気が出てるし、まぁ、“宿命”なんかを描くなら、そういう要素は欠かせないワケで。
こういうのをドロドロの日本式にやると、「八つ墓村」になったりするワケで。


ラス前の銃撃戦のシーンはイマイチですけどね。


それから、タバコ会社(銘柄はラッキーストライク)がスポンサーになってる感じがちょっと露骨。
ネイティヴ・アメリカンにとって、喫煙は神聖なことなんだ、みたいなことだと思うんですけど、ちょっと、ね。
ま、この時代なら、そういうモンなのかもしれません。


ただ、いい作品でした。ヴァル・キルマーはいい俳優だよね。ホントに。



2009年6月2日火曜日

「スーパーコップ90」を観る

午後のロードショーで(最近こればっかりだな…)、「スーパーコップ90」を観る。

タイトルからして、B級どころかC級以下な雰囲気が満点ですが、こういうのを日常的に消費できるのも、午後のロードショーのいいトコで。
最近、午後のロードショーばっかりですが。


この作品は、結構面白かった。
原題は「Rainbow Drive」ってことで、これは通りの名前ですね。「マルホランド・ドライブ」とおんなじ。
舞台はLA。

なんていうか、エルロイみたいだな、と。
エルロイの短編に出てきそうな話です。年代が全然違うんだけど。


ちなみに、調べたら原作はロデリック・ソープという人で、この人はなんと、「ダイ・ハード」の原作を書いてる人らしい。


主人公は刑事(殺人課)で、恋人(旦那持ち)との情事の間に、妙な感じで殺人事件に巻き込まれて、という冒頭からして、もういかにもエルロイっぽいし。


警察組織の、腐敗しているトップ周辺(もちろん、そういう場合、組織全体も半分以上腐ってるワケですが)、裏家業に手を染めている地元の企業化(つまり、半分マフィア)。
で、この両者が繋がってて。

で。組織の末端の1人である主人公は、真相を探ろうと動き始めるんだけど、当然、組織のトップ周辺から圧力がかかる。
主人公の同僚たちは、“上からの圧力”を理由に、「俺だって気持ちは同じだけど、だけど…」という具合。
その中で、事情を知っていた、親友でもあった同僚が殺されてしまい、その復讐という、新しい動機が掲示されて…。

その同僚の奥さんに会いに行く、同僚の家の前のシーンは、結構クールでしたね。
ワンカットの画なんですけど。
家の前の道路の歩道から、玄関に向かって歩いていって、呼び鈴を鳴らして(ノックだったかな?)、寝巻き姿の奥さんが出てくるんだけど、それは、自分の旦那が帰ってきたと思って玄関に出てくるんですね。
だけど、そこに立ってるのは、自分の旦那じゃなくって、その同僚で。
で、何も言わないで、そこに同僚が悲しい顔をして立ってるだけで、奥さんは自分の旦那が死んでしまったことを悟るワケです。
ここは、良かった。

で、その同僚は、過去に“事情”を知ってしまった為に、ある筋から札束を受け取っているんですね。
で、その札束が、ガレージに丸まる手付かずで残してあって。
それは、その同僚の、カネを受け取っていいものかどうか、という「良心の呵責」のことなワケで。
そのカネをどうするか、という、奥さんと主人公の会話も、グッとくる感じで。
この奥さんは、この2シーンだけしか出てこないんですけど。でも、それだけで、しっかりと、主人公に“動機”を与えてるワケです。
この辺は、巧い。


で、その同僚と親しかった、黒人の、もう1人の同僚っていうが出てきて。
この、仲間との心の交わし方の描き方っていうのは、エルロイとは全然違いますね。

まぁ、そんなこんなで、身内の警察組織と地元の犯罪組織を相手に、主人公が孤独に戦う、と。

ラストも良くって、FBIが居た、というオチで、この、司法組織同士の対立がある、というのもエルロイっぽい。
冒頭の事件の、市警本部と分署の殺人課との縄張り争いもそうだし、FBIとかDEAなんかの捜査と、主人公が果たそうとする“私刑”との目的の対立があって。


あ、あと、この時代の作品で、「留守番電話」が凄い出て来るんだよねぇ。
多分、この時代のハイテクってことだと思うんだけど。
盗聴器とか。

今だと携帯とかメールとか、そんな感覚なんでしょう、きっと。


それから、主人公の刑事役の俳優さんは、スリムでシャープで、カッコいいです。
「CSI:マイアミ」のカルーソさんも出てます。若い。



というワケで、こういうB級作品は、大好きですな。