2009年6月11日木曜日

なんかグッときたので

新聞に、トルコ出身の(クラシック畑の)ピアニストだという、ファジル・サイさんという方のインタビューが載ってまして。

まぁ、映画とはあんまり関係のない内容かもしれませんが、なんか、なんとなくグッときたので、ご紹介。


クラシック音楽の演奏から個性がなくなっている。最近では、本来、即興的に独奏される協奏曲のカデンツァも、演奏全体の解釈も、他人任せになっている。これは間違っている。クラシックのピアニストがいくら技巧的に演奏しても、それだけではまったく興味を感じない
ハイドンのピアノ曲は、演奏技術的にはとても簡単で、8歳の子どもでも、何曲かは演奏できる。しかし、内面から演奏するには、とてもたくさんの人生の経験、感情といったものがないと難しい。3,4分で映画のサウンドトラックのように「物語」を作らないといけない。
自らの「内なる声」を取り出し、楽器に伝えるというのが、作曲でも演奏でも、音楽のとるべき方向なのだ。クラシックのピアニストの大半は今日、そうした方向性を持っていない。ジャズピアニストのキース・ジャレットを例に出せば、彼のピアノの音にどれだけの感情がこもっていることか。まるで「歌っている」ようだ。音楽の内面が演奏されているから、彼のピアノは人間の声のように聞こえる。
ベートーベンやモーツァルトでさえも、即興的な作曲家だった。シューマンは、毎日のように即興演奏を自分の生徒に聴かせていた。彼らは当時、キース・ジャレットのように(自分の曲を)演奏したはずだ。

作曲は常に「進化」しなければならない、という観念がある。
80年代から90年代、自分が10代から20代の頃、多くの若い作曲家たちは、自問自答する形で「次は何だ」と考えた。
ある意味、(作曲の)技術的な発展という意味では「歴史の終わり」だったのだ。
作曲とは「湧き出るものを取り出す」作業だ。技術的発展がエモーションの高まりを伴わないのならば、それは音楽ではないと思う。


「技術的な発展に、エモーションが伴ってなければ、それは音楽ではないと思う」と。


う~ん。

グッときた感じ。


エモーションね。
この人は、「エモーションの高まり」こそが「内なる声」であり、「個性」だ、ということみたいだけど。


にゃるほどねぇ。
いい言葉だ。

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