2009年9月28日月曜日

CMプランナー

えー、あいかわらずこのブログは更新が滞ってますが、いま書いてる作品がもう少しで書き上がるので、それが終わったらまた“活性化”するハズなので・・・。



とりあえず今日は、新聞に載ってた、澤本嘉光さんというCMプランナーの方のインタビューを。

澤本さんは、今はソフトバンク・モバイルの“家族”のシリーズを手掛けているんだそうです。
まぁ、超人気CMですよねぇ。
上戸彩はめちゃめちゃカワイイし、樋口可南子の美人ママも最高ですよねぇ。文字通り「美女と野獣」夫婦で。


いや、それはさておき。
以下、記事からの引用でっす。


課題が与えられ、予算や時間が限られる広告づくり。100の案を出しても通らなかったことも。だが、面白い作品づくりには、その制約が欠かせない。
「フリーでシュートする方がよほど難しい。パズルを解いているみたいなものです」
アイデアのヒントは日常生活の中にある。電車の中では路線図で勝手に双六ゲームをして、止まった駅で適当に話を作ってみたり、乗り合わせた人の物語を考えてみたり。
散歩をして神社に立ち寄ったり、木や草に触れたりすることで、気持ちをリセット。新しいアイデアは家族に話して反応をみる。
「独善的にならず、他人の意見に耳を傾けて、修正していく」


にゃるほどねぇ。


「フリーでシュートする方が難しい」と。
「スラムダンク」ですね。

色々な制約が課せられる世界なんだけど、逆にその制約を“バネ”にして高く跳躍していく、と。
そういうことですな。




というワケで、サラッとですが、今日はこのくらいで。
でわ。

2009年9月15日火曜日

伝統としての破壊と創造

新聞に、猿之助のスーパー歌舞伎を回顧した記事が載ってまして。
歌舞伎の世界は、まぁ、全然詳しくはないんだけど、俺の知識の範囲内でも全然読める、読み物としても面白い内容だったので、せっかくなんで、ここでご紹介。


86年2月、東京・新橋演舞場では、ふだんの歌舞伎公演ではまばらな若者の姿が目立っていた。世はバブル経済の上昇期。歌舞伎俳優の市川猿之助一門によるスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」が同月4日、ここで初演されたのだ。
歌舞伎で見慣れた、役者の影を作らない高明度の照明ではなく、闇を生かすような照明。想像上の怪鳥が飛翔するかのような宙乗り。ワーグナー楽劇を日本化し、メタリックに加工したような感触だった。
猿之助は「歌(音楽性)+舞(舞踏などの視覚的な楽しさ)+伎(演技・台詞術)」が三拍子揃った歌舞伎の復権を提唱。台詞は現代語に近く、音楽、衣装、照明、装置も刷新した。後に「スピード、ストーリー、スペクタクル」が旗印に。猿之助は初演時の筋書きに、心理を掘り下げて描く青山青果らの新歌舞伎に対し、「歌舞伎の面白さである歌、舞を忘れ、伎だけに片寄りすぎているように思われる」などと書いた。
むろん、歌舞伎は発生以来、変わり続けてきた。江戸期だけ見ても、変転があった。明治期の九代目市川団十郎、五代目尾上菊五郎の頃から古典化の道が始まり、新歌舞伎は歌舞伎に理知的な陰影を彫り込み、六代目菊五郎の世話物も時代の風を吹き込ませて新鮮だったとされる。69年の三島由紀夫作「椿説弓張月」は反時代的な観点からの変化だった。
古典化・高尚化を極めた六代目歌右衛門ら梨園の統治者が健在時に「歌舞伎を民衆の手に」と夢の実現に冷徹に向かった勇気と才能は歌舞伎史に輝く。
後続の主な試みは「視覚的効果」「未来の観客」に心を砕いている点などで通底するようだ。今、先頭を走るのは、中村勘三郎だろう。勘九郎時代の彼がまず組んだのが、演出家の串田和美だった。94年からの「コクーン歌舞伎」、仮設劇場を営む「平成中村座」。歌舞伎を現代に飛び込ませる姿勢が明確で、同時の歌舞伎の始原的姿を求める演劇活動にもなっている。
尾上菊五郎・菊之助らが演出家の蜷川幸雄と作り出したシェークスピア原作の「NINAGAWA 十二夜」は05年初演。鏡の演出、菊之助らの好演、音楽の妙味などで、そこはかとない王朝美を見せた。松本幸四郎らは、演劇としての歌舞伎を目指す歌舞伎企画集団「梨苑座」を00年に立ち上げた。
坂東玉三郎は泉鏡花原作「天主物語」などを06年、「高野聖」を08年に手がけた。台詞は現代語に近く、三味線音楽も際立たない。歌舞伎様式が溶解していく感覚。
スーパー歌舞伎は「心理主義」という当時の正統に対する、異端者による「視覚主義」の抵抗だった。


そういえば、以前、玉三郎のドキュメンタリーを観てたら(猿之助のお弟子さんにあたる)春猿と一緒に舞の稽古をしてて、「へぇ~」みたいに思った記憶があります。


で。
恐らく、この新歌舞伎っていうのがヌーベルバーグとかニューシネマとか、そういうのに当たるモノだったんでしょう。


ただ、実は猿之助一座も代替わりしてて、なんつーか、異端だったことの継承、つまり伝統化が始まっている、という。

記事中で書かれている勘三郎の次代の勘太郎も、いわゆる正統派のボンボンって感じで、端正だけど、親父が持ってる迫力みたいなのはあんまり備えてないよな、というか。(次男坊は酔って暴れたりして、そういう、エネルギーの大きさって意味では期待できるかもしれないけど)
で、そういう繰り返しの中で、色んなところに揺れたり揺り戻したり、つまり“揺れ”と、それが引き起こしてしまう“摩擦”自体もエネルギーとして進化の中に取り込んでしまう、という、ある意味で“異端”をメカニズムとして内包しているのが歌舞伎なのかな、なんて。
歌舞伎という、伝統芸能でありながら現代でも存在を誇示して(むしろ謳歌している)のは、そういう理由なのかなぁ、と。
まぁ、勝手に無理やり構図化しちゃうと、という話ですけど。



これもちょっと前なんだけど、確か蜷川幸雄が、寺島しのぶと松たか子を並べて評して、「梨園の女子として生まれ育った彼女たちには、女というだけで(家業からの)排除を被ってきた怨念みたいなものを背負っていて、その背負っているものが演技をしているなかに立ち昇ってくる」みたいなことを言ってて。
その言葉を借りるなら、そういう、女性性という新たな“異端”を内包している幸四郎・染五郎の系譜や、菊五郎・菊之助一座が今後その可能性を(恐らく、無意識のうちに)切り拓いていくのかな、なんて。
ま、勝手な想像ですけどね。



歌舞伎はねぇ。高校生のときに、課外授業かなんかで一回だけ観にいったことがあるんですよねぇ。モロに圧倒されちゃった記憶がある。
ちなみに、俺は大阪で人形浄瑠璃も観たことがあります。一回だけ。これはこれで、繊細なだけでない、なかなか重厚な世界でしたけど。



ま、全然知らない世界の話ですけど、こういう、偉大な伝統の歴史の中にも、いろいろウネリみたいなのがあった、と。そういうことですな。

2009年9月12日土曜日

アンパンマンとばいきんまん

つい最近、一部のブログその他で盛り上がってた「アンパンマン論」に、軽く衝撃を受けたので、ご紹介。

神話としてのアンパンマン
アンパンマンはダークナイトだ
アンパンマンが顔を食べさせることの意味

だいたい、この三つのエントリーに集約されてるって感じなんですけど・・・。



やはり衝撃的だったのが、「アンパンマンとバイキンマンは双子の兄弟だった」的な解釈ですよねぇ。
同じモノだったのが、片方は発酵がうまくいって(パンは生地を焼く前に、イースト菌で発酵させるっていう工程がありますよね)ちゃんとパンになったんだけど、もう片方は、なんだか色んな菌が繁殖しちゃって(腐っちゃって)、“バイキン”として捨てられちゃって、という。


あと、アンパンマンは、パンの中に餡が入ってるワケだけど、それは「人間が制御する為に脳を抜かれた(思考力を抜かれた)からだ」という解釈。
アンパンマンは「兵器」なんだ、という。
そもそも、その“頭”が換装可能、という、ある意味でトンでもない機能を持ってるワケで。


ばいきんまんは、そんな、人間に良いように使われている「双子の兄弟」を助けに来てるのかもしれないなぁ・・・。
なんつって。



あとはやっぱり、アンパンマンとばいきんまん、つまり正義と悪っていうのが、相互に依存しているのだ、というトコ。
悪が存在していないと正義というのも成立しないのだ、と。
ばいきんまんを殺してしまえないアンパンマンを、バットマンとジョーカーの関係になぞらえて語られてたりしてるしね。



なんつーか、こういう風に解釈するって、まったく思ったことがなかったんで・・・。
個人的には、ばいきんまんとドキンちゃんの関係って、ルパンと峰不二子みたいだな、とか、尻に敷かれてるくせにドキンちゃんはしょくぱんまんが好きで、なんか可哀想なヤツ、とか(そんなばいきんまんが好きでした)、そのくらいしか考えたことなかったからね・・・。



そうか~。
パン種ね。発酵がうまくいったパンと、腐敗しちゃった“バイキン”。
双子の兄弟、ね。


やっぱ、最終回には、「君たちは双子の兄弟だったんだ!」って誰かが告げるんだろうねぇ。
ガ~ン!みたいな。



まぁ、「兄弟」っつーのは、古くから(「神話としての」って書かれてるように、それこそ神話の時代から)物語の一類型としてずっと在るモノですからね。


う~ん。

こういうトコから色々発想しちゃいますよねぇ。

2009年9月10日木曜日

民営化≒営利至上主義≒腐敗の発生

今日の新聞に、アメリカ発の興味深い記事が載っていたので。


少年事件の審判で、対象の少年らを特定の私立拘置施設に送る決定を出す見返りに、その施設の経営者から約2億4千万円を受け取っていたペンシルバニア州の少年審判所の元判事らが法廷で裁かれることになった。地元法曹界などは「最悪のスキャンダル」として衝撃を受けている。
ニューヨーク・タイムズ紙などによると、施設側から受け取った金銭を隠したとして脱税などの罪に問われているのは、少年審判所のマーク・シバレラ元判事と州地裁のマイケル・コナハン元判事。
シバレラ元判事は、08年までの5年間で担当した約2500人の少年の審判で、旧知の弁護士が設立した私立の少年拘置施設への送致決定を下していた。
予算編成の権限を持っていたコナハン元判事は、予算措置を停止して公立の拘置施設を閉鎖に追い込み、少年たちの身柄を送る先はこの私立の施設しかない状況を作り出したとされる。

この間、郡で拘置される少年の比率は州平均の倍以上にのぼり、問題の施設の収容人数がほぼ一定になるなど、不自然さは際立っていた。審理開始前から施設に送る少年の割り当て人数を決めていたこともあったという。

2人は、施設側から巨額の金銭を受け取り、別荘や高級ヨットを購入。シバレラ元判事は金銭授受を認めているが、少年審判で判断は曲げていないと主張している。

これは相当酷いですよね。あらゆる種類の腐敗がこの事件には詰まっている。


「判事」っていう職業は、基本的には、こういう“買収”が起きないように、身分と収入が保障されてる、ということになってるハズで。
なんつーか、元判事たちの動機っつーのは、もうとてもシンプルな「強欲さ」なワケですよね。
司法機関内での、あるいは法曹界での地位の上昇を目指す、とか、そういう出世欲みたいなのが動機ではないワケで。

ただ金銭欲・所有欲を満たしたいがために、少年たちの“人生”を、自分たちのその欲望の“餌”として喰う、という。


このエントリーのタイトルでは、まぁ、民営化が腐敗を生むんだ、みたいなニュアンスですけど、別に「民営化」と呼ばれる施策すべてを否定するつもりっていうのはなくって。
ただ、こういう、「利益を最大化する」っていう“動機”が生み出してしまう「逸脱行為」に巻き込まれちゃう悲劇っていうのは、なんつーか、動機がチープなだけに、よけい不条理さが浮き彫りになる、というか。


この、「施設の経営者」っつーのは、なかなかのタマだと思うんですよねぇ。
直接的に、彼らの“餌”である、拘置される少年たちのボリュームを増やす、ということで、その窓口になる少年審判所の判事を抱き込む。
判事は、経営者の望むままに、施設の収容能力のちょうど限度いっぱいまで(つまり、経営効率がもっとも高まる収容人数まで)、少年たちを施設に送り込む。


同時に、同業他社であるライバルを潰す、と。
公営による拘置施設を、予算の権限を握っている判事を抱き込むことで、その施設を閉鎖に追い込んで、“市場”の独占を図る、という。

これは、恐らく公務員である、潰されてしまった拘置施設の従業員たちの職も奪ったってことですからねぇ。
そういうことを許した元判事の罪っていうのは、これは大きいですよ。


で。
ここで起きてるのは、いわゆる「重罰化」ですよね。重罰化と偽って、必要以上に重い罪である「拘置施設に拘置する」という罪を科せられてしまっている。
少年犯罪に対する「重罰化」って、そういうのを求める“市民の声”っていうのがあると思うんですよ。そういう“風潮”に乗っかっちゃってる可能性もある、というか。



そういう、色んなものが混ざり合ってるニュースだな、と。





日本では、栃木の、菅家さんという方が「どうやら無実だったらしい」ということで、無期懲役の執行が停止され釈放された、というニュースがありましたけど。

足利事件、ですね。

この事件は、菅家さんは完全に無実だろうってことなんだけど、実は、この事件は「連続事件」で、つまり「連続犯」であろう「真犯人」は、完全に野放しになってる。

警察の建前としては、真犯人はすでに無期刑に処されているんだから「事件は終わってる」ってことになってるワケで、つまり、捜査が止まってる。

ということですから。




なんつーか、不正義っていうか、ね。
絶対にあっちゃいけないことですよね。



2009年9月9日水曜日

青山で観劇

昨日(月曜日)は、青山円形劇場へ出かけていって、ロハ下ルという劇団(ユニットっつーの?)の「わるくち草原の見はり塔」という作品を観てきました。







いやぁ。凄い!
こんなハイクオリティな脚本を書く人が埋もれてるなんて(埋もれてるなんて言い方したら怒られるのかな?)、信じられないっス。
一応「蝿の王」を下敷きにしてるってことになってるけど、「バトルロワイヤル」の方が近いかな、なんて。

個人的には「バトルロワイヤル」の“完成形”みたいな感じでした。進化形。
ガキの話じゃなくって、大人の話だしね。

ざっと、キラーな言葉だけを羅列しちゃうと、こんな感じ。
「キャラ」
「スクールカースト(に模せられた序列)」
「マスコットとしてのマイノリティ」
「ルール」
「社会との契約」
「雇い主との契約」
「悪魔との契約」
「安心の名で提供される支配」
「相互監視による支配システム」
「相対化された神」
「去勢と引き換えの自由」
ルールによって肯定される序列と、ルールによって肯定される暴力。その暴力が生む麻薬的な快楽と、ルールには規定されていない(しかし否定もされていない)個人的な報復。報復が生むカタルシスと快楽。
同じくルールによって規定され生成される友情。友情が生む苦悩。
巧妙に内面化させられ、正当化させられている被支配の理由と立場。


いやぁ~。こんだけの社会批評性を内包しながら、ちゃんとストーリーとして、しかもある種のファンタジーとして成立しちゃってる、という。
どんな脳ミソしてんだ・・・。



マジで映画化とかすればいいのになぁ。
普通に映画祭とかで賞獲っちゃうレベルだと思うんだけど。



俳優さんの演技も良かったです。
しかも、演劇特有の肉体性に寄りかかり過ぎない、というか。
叙情性に偏らない感じ。
肉体性・身体性がその“効力”を一番発揮するのが、この、叙情を語る部分だと思うんだけど、そこに近寄っていかないんですよねぇ。
最後まで気持ち悪いまま、つまりカタルシスを与えてくれない。



う~ん。
個人的にこういうのが好きだってだけのアレなのかなぁ~。

とにかく「すげーもん観ちゃった」って感じだったんだけど、終わった後は、みなさん普通に“歓談”してたからねぇ。
正直、あんまりそんな気にもならない、ぐらいのアレだったんですけど・・・。(知り合いの役者さんとは、一応ちょっとは話をしましたが)



う~ん。



というワケで、個人的にはかなり刺激をもらって帰ってきました。


この公演自体が再演みたいなんだけど、ぜひぜひ何度もやって欲しいな、なんて。
そしたら、俺も知り合いとかに薦められるからね。

俺もまた観たいし。



というワケで、今日は観劇記でした。
でわ。