2009年11月27日金曜日

平野啓一郎の「物語」論概論

平野啓一郎さんの、「小説論」「物語論」をサラッと語っている講演録が新聞に載ってたので、ご紹介。
大学への出張講義みたいなアレみたいっスね。

たくさんの登場人物にかかわる雑多な事柄を、一個の時計に従って並べていく。小説は、時間が次々と絡み合いながら終わりに向かうものです。そして時間を絡ませる上でもっとも力になるのが「物語」なのです。

「物語」というのはラーメンの麺に似ています。
美味しいラーメンは、麺をすすっていると、自然と口の中にスープの風味が広がってきませんか? 麺とスープのバランスが絶妙で、かつ麺がスープを持ち上げる力が強い。反対にまずいラーメンは、麺とスープが分離しています。スープはまあまあだけれども麺を食べている手応えがないというのも、満足感が得られません。
この考えを小説に当てはめてみましょう。面白い小説ほど、流れに沿って物語をたどっているだけにもかかわらず、世の中の情勢が分かったり、人間の心の深い部分に、無理なく触れられたりするものです。麺というのは、小説が展開する時間、言い換えれば物語の比喩です。そして、タイムリーな要素、深淵な要素はスープなのです。

「物語」ということは、1990年代にはずいぶん批判されましたが、21世紀の今、考え直してみる必要がある。
断片化された経験を、まとまった一つの世界に築き上げてゆくことこそ、現代の小説が多くの読者を獲得するための条件だと思うのです。ブログを読んだだけでは満たされないものを、「物語」を組み込むことによって、小説は提供できる。
そうはいっても、インターネットが普及してから、小説の中で扱うべき情報が増える一方です。しかも読書の時間は減ってきているわけです。そこで読者は、手軽でありながらも、奥行きのある小説を望むようになりました。多様な世界をどう圧縮して「小さく説く」かということが、切実な問題になっています。


ある作品における「物語」とは、ラーメンの麺なのである、と。


作品は「物語」の外側にあり、平野さんが言うところの「世の中の情勢」とか「人間ん心の深い部分」は、「物語」とは別のところに、つまり「スープ」としてあるのだ、と。

「スープ」だけでも「麺」だけでもラーメンではない、という。(まぁ、「油そば」みたいな例外はあるはあるんでしょうけど)


「物語の構造」とは、あくまで“物語”の“構造”であって、よく類型化されたりしてそこへの抵抗感を抱く人が居たりするワケですけど、それはあくまで「麺」の話。
「スープ」はスープでまた違う言葉で語られ批評され、あるいは構築されるものなんだ、ということなんだろうと思います。平野さんは、ここではそこまでは言ってませんが。


それから、もう一つ。
「インターネットが普及してから、小説の中で扱うべき情報が増える一方です。」という問題提起も。


「どう圧縮して」と。「物語」に付随してくる“情報”をどう処理していくか、ですよね。分かる。
「物語を語る」ことには奉仕しないんだけど、どうしても時間を割かなければならない“情報”っていうのが色々あって(まぁ、前提ってヤツですね。そういう、説明しないといけない事柄)、それをどう処理しつつ「物語」を前にドライブしていくか。

チンタラ説明ばっかしてちゃ作品は冗長な、ダイナミズムに欠けたダラダラとした“ただの長文”になってしまうワケで。


ということは、別に「小説」だけの話じゃないんだろうな、と。


そういうことで、このブログに、アーカイヴしておきたいな、と。



2009年11月26日木曜日

谷川俊太郎が語る「詩情」

新聞に、谷川俊太郎さんのインタビューが掲載されてまして。


面白い、というか、すげー内容でした。


最近、社会の中で詩の影がずいぶん薄くなった気がするんです。

詩が希薄になって瀰漫している感じはありますね。詩は、コミックの中だったり、テレビドラマ、コスプレだったり、そういう、詩と呼ぶべきかどうか分からないもののなかに、非常に薄い状態で広がっていて、読者は、そういうものに触れることで詩的な欲求を満足させている

『詩』には、二つの意味がある。詩作品そのものと、ポエジー、詩情を差す場合です。詩情は詩作品の中にあるだけでなく、言語化できるかどうかもあやしく、定義しにくい。でも、詩情はどんな人の中にも生まれたり、消えたりしている。ある時には絵画に姿を変え、音楽となり、舞踏として現れたりします。
僕が生まれて初めて詩情を感じたのは、小学校の4年生か5年生くらいの頃に隣家のニセアカシアの木に朝日がさしているのを見た時です。生活の中で感じる喜怒哀楽とはまったく違う心の状態になった。美しいと思ったのでしょうが、美しいという言葉だけで言えるものではなかった。自分と宇宙との関係のようなものを感じたんでしょうね


『スラムダンク』にも詩情はあるのではないでしょうか。しかも1億冊売れている。現代詩の詩集は300冊売れればいいほうです。長い歴史を持つ俳句や短歌も詩ですし、現代詩よりも圧倒的に強い。現代詩は第2次世界大戦後、叙情より批評、具体より抽象、生活より思想を求めて難解になり、読者を失っていった。加えて現代詩の衰退は、近代日本語が特殊な変化をしたことと関係していると思う。
明治期に欧米輸入の思想や観念を、苦労して漢語という外国語で翻訳した。でも、身についていない抽象語で議論を始めると、すごく混乱しちゃいますよね。現代語も同じ。現代詩は伝統詩歌を否定したところから始まっている。詩は人々を結ぶものであるはずなのに、個性、自己表現を追求して、新しいことをやっているという自己満足が詩人を孤立させていった
『詩は自己表現である』という思い込みは、短歌の伝統が色濃い日本人の叙情詩好きともあいまって一般には非常に根強いし、教育界でも未だになくならない。僕は、美しい日本語を、そこに、一個の物のように存在させることを目指しているんですけど


詩だけじゃありません、高度資本主義が芸術を変質させている。
批評の基準というものが共有されなくなっていますから、みんな人気で計る。詩人も作家も美術家も好きか嫌いか、売れてるか売れてないかで決まる。タレントと変わりなくなっています。僕の紹介は『教科書に詩が載っている』『スヌーピーの出てくる人気マンガを翻訳している』谷川さんです。でも、それはあんまり嬉しくない。
子供から老人にまで受ける百貨店的な詩を書いて、自分はそれでやっているけれど、他の詩人たち、詩の世界全体を見渡した時に、自分がとっている道が唯一だとは思いません。詩は、ミニマルな、微小なエネルギーで、個人に影響を与えていくものですからね。

現代詩は、貨幣に換算される根拠がない。非常に私的な創造物になっています。


人間を宇宙内存在と社会内存在が重なっていると考えると分かりやすい。生まれる時、人は自然の一部。宇宙内存在として生まれてきます。成長するにつれ、言葉を獲得し、教育を受け、社会内存在として生きていかざるをえない。散文は、その社会内存在の範囲内で機能するのに対し、詩は、宇宙内存在としてのあり方に触れようとする。言語に被われる以前の存在そのものを捉えようとするんです。秩序を守ろうと働く散文と違い、詩は言葉を使っているのに、言葉を超えた混沌にかかわる。


若者には詩的なものが必要になる時期がある、と書いておられますが、今の若者は、生きづらそうですね。
どう生きるかが見えにくい。圧倒的に金銭に頼らなくちゃいけなくなってますからね。お金を稼ぐ能力がある人はいいけれど、俺は貧乏してもいい詩をを書くぞ、みたいなことがみんなの前で言えなくなっている。それを価値として認める合意がないから『詩』よりも『詩的なもの』で満足してしまう。


インターネットはどうでしょう?
ネットの問題は『主観的な言葉が詩』という誤解に陥りやすいということですね。ブログが単なる自分の心情のハケ口になっているとしたら、詩の裾野にはなりえないでしょう。

デジタル情報が膨大に流れていて、言語系が肥大していることの影響が何より大きい気がします。世界の見方が知らず知らずのうちにデジタル言語化しているのではないか。つまり、言葉がデジタル的に割り切れるものになっているような。詩はもっともアナログ的な、アナロジー(類推)とか比喩とかで成り立っているものですからね。詩の情報量はごく限られていて、曖昧です。「古池や 蛙飛び込む 水の音」という芭蕉の句はメッセージは何もないし、意味すら無いに等しいけれど、何かを伝えている。詩では言葉の音、声、手触り、調べ、そういうものが重要です。


詩情は探すものではなくて、突然、襲われるようなものだと思うんです。夕焼けを見て美しいと思う、恋愛してメチャクチャになる、それも、詩かもしれません。僕も詩を書く時は、アホみたいに待っているだけです。意味にならないモヤモヤからぽこっと言葉が出てくる瞬間を。


詩人体質の若者は、現代をどう生きたらいいんでしょう?
まず、『社会内存在』として、経済的に自立する道を考えることを勧めます。今の詩人は、秩序の外に出て生きることが難しい。そうだなあ、時々、若者が世界旅行に行って、帰ってきてから急にそれまでとまったく違う仕事をしたりするじゃないですか、あれは、どこかで詩情に出会ったのかもしれないな。
金銭に換算されないものの存在感は急激に減少しています。だから、これからの詩はむしろ、金銭に絶対換算されないぞ、ってことを強みにしないとダメだ、みたいに開き直ってみたくなる


このインタビューを読んで、「コスプレやらブログやらにも関心を持ってるんだなぁ」なんてことを言ってたらダメですよね。(ちなみに、『詞』の世界、つまり音楽の歌詞については「ある」とは言ってません。注目しないといけないのは、こういう部分)



「金銭に換算されないぞ」ということを言いながらしかし、「新しいことをやっているという自己満足」をも否定している、という、ここが谷川さんらしさなのかもしれません。


「僕は、美しい日本語を、そこに、一個の物のように存在させることを目指している」と。
芭蕉の句を引いて「意味すら無いに等しいけれど、何かを伝えている」と仰ってますけど、つまり「意味」じゃなく「何か」。
何かとは?
それが「詩情」なんだ、と。
「詩」とは、自分が感じた「詩情」を追体験するためのもの、自分の体験した「詩情」を記録しておくためのもの、自分が「詩情」を感じるに至ったその過程を記録しておくためのもの、自分が感じた「詩情」を誰かと分かち合うためのもの、自分が感じた「詩情」を誰かに伝えるためのもの、…。


違うかな?
あんまり俺がゴチャゴチャ書かない方がいいですね。


しっかり噛み締めたいな、と。


そういうインタビューでした。

2009年11月23日月曜日

「ラッキー・ユー」を観る

シネマ・エキスプレスで、「ラッキー・ユー」を観る。


この作品、知らなかったんですが、結構ゴージャスなメンツでの製作なんですね。低予算だけど。
監督は「LAコンフィデンシャル」のカーティス・ハンソン。
「LA~」とは全然テイストが違いますが、同じく監督作品の「8マイル」にはちょっと雰囲気が似てるかも。
年齢的にはすっかり大人になっている主人公の、うだつの上がらない日々からの脱却を目指してもがく姿、ということで言うと、ね。

で、助演がドリュー・バリモア。
バリモア、なんかマブいよねぇ。(なんつーか、彼女は“胸”の形が好きです。あと唇も)

主人公の親父役にロバート・デュバル。とりあえず、この親父の存在感がかなりポイント高い。



が。
結論から言うと面白い作品だったんですが、ちょいちょい「あれ?」みたいなのがあって、それは、主人公のキャラクターの感じに因る所が多くて。
主人公の輪郭がイマイチ掴めん…。


この作品はポーカーの世界選手権、というクライマックスに向かっていくんですが、その、ポーカーのプレイヤーたち、つまりプロのギャンブラーたちなワケですね。登場人物は。
ちなみに、主人公の親父は、世界選手権に2度優勝している、という設定で、なおかつポーカーに入れ込み過ぎて家庭を失っている、という。
で、主人公もプロのギャンブラーなワケですが、こいつがなんだかよく分かんない。

強いんだか弱いんだか。


なんだか強いってことになってて、本人もそう振る舞ってるんだけど、とにかく金欠で、あっちこっち金策に駆けずり回ってるんだけど、ことごとく失敗して、しかもただの失敗じゃなくって、普通にカモられたりしてる。
自意識過剰で自信過剰でいけ好かない感じだし。
ちょいちょ負けるクセに。


女好き、というのは、親父との関係とか、親父と母親の崩壊した関係を見て育ったから、という理屈があると思うんだけど、なんか微妙に“美化”されちゃってるんだよねぇ。
“ボンクラ感”がいまいち描写しきれてない。

だいたい、主人公を演じる役者(エリック・バナという人)が、この役にあんまりハマってない。
カッコよ過ぎるっつーか、スマート過ぎるんだよねぇ。

例えば、ニコラス・ケイジとかティム・ロスみたいな人が演じれば(年齢が設定と全然違うんだけど…)、なんかダメっぷりというか、自分のダメっぷりに苦悩する姿、みたいなのに共感できたりするんだろうけど、あんまりそんな感じにならない、という。
「こいつの人生、全然問題なくないか?」みたいな。

さっそうとバイク乗ってるし。


個人的には、そういう部分が致命的にアウトで。



ただし、良いポイントもたくさんある。



まず、セリフがいい。
冒頭、質屋で、主人公が(友達のを無断で拝借してきた)ビデオカメラを換金しようするんだけど、とりあえずこのやり取りで交わされる言葉がかなりクール。
ポーカーのゲームの最中にも、特に親父が、会話でブラフを仕掛けてくる、というスタイルで、この時のセリフの感じも好きです。


それから、小道具の使い方が巧いですね。これはホントに演出の巧さだと思うんだけど。
母親の形見の指輪や、とにかくポーカー自体がコインとカードという“小道具”を使うゲームだからっていうのもあるんだろうけど、コインを弄る手の動きとか。
あとは、決勝ラウンドのライバルたちの、サングラス、とかね。

細かいところの演出もピリッと効いてて、朝のダイナーで、親父と息子(主人公)が2人でカードゲームを(当然、高額のカネを賭けて)始めてしまうシークエンスは、凄い良かった。
カードでしか会話できない、というか。
最初は2人で話してるんだけど全然噛み合わなくって、だけどカードゲームが始まると、という。
結局息子の方は負けちゃうんだけど。

で、この2人の関係の間には、母親というのがいて。主人公の母親。親父の(別れた)妻。
母親は、存在は出てこないんだけど、形見の指輪、というのが出てくるんですね。これが、冒頭の質屋のシークエンスから、ずっと2人の間を行ったりきたりするんです。
これが巧い。
というか、ニクいな。指輪の扱い方が。


あと、演出の面では、決勝ラウンドの直前、ゲームが一旦終わった時に、メンバーが全員恋人や家族の元に近寄るんだけど、主人公だけ抱き合う相手がいない、というシーンがあるんです。
これはいいですね。
すげー意味の分かりやすいショットなんだけど、ポーカーのテーブルとそれを囲む観衆、という場の空間を上手に使った演出で、これは実はなかなか出来ない演出だと思う。
で、主人公を待っているのは、借金取りだけだ、という。
これは、効果的だし、イイですよね。


ポーカーの出場者はみんな上手に個性が描き分けられてて、細かい演出も人物描写も良いのに、なぜか主人公だけが分からない、という、最後までそこが謎です。マジで。

大会の結末も爽やかで良いです。

この辺は、シナリオの勝利って感じなんでしょうか。



とにかく主人公のキャスティングがなぁ…。



まぁ、なにげにもう一回観たい作品ではあります。




あ、補足しておくと、舞台はラスベガス。
「CSI」と同じ、ですね。

でも、全然違うベガスの風景ですね。“ローカル”なポーカーラウンジが主な舞台なので。


というワケで、なんとも歯がゆい作品でした。


2009年11月5日木曜日

「チェンジリング」を観た

(iPhoneから書こうと思ってたんですが、上手くやれてませんでした…)

クリント・イーストウッド監督、アンジェリーナ・ジョリー主演の「チェンジリング」を観る。

タイトルのスペルは「changeling」ということで、“取り替え子”という意味のそういう言葉があるらしいですね。


チェンジリング。

まぁ、傑作ですよね。間違いなく。

シングルマザーが、誘拐事件と警察による偽装事件の2つの事件に遭う、という。
ストーリーの構造は、入れ子になってて、外枠に誘拐事件(正確には、大量誘拐殺人事件)があって、内枠に警察の腐敗によって騙され陥れられるストーリーがある、という形。

LAPDの腐敗っていうと、犯罪組織との繋がりだとか賄賂とか、というのが多く語られてきたと思うんですが、この作品では、なんつーか、もっとエグい、もっと救いのない、要するに人間的にダメなヤツら、という描写で。
この作品は実話を基にしているということなんで、この、警察組織の堕落っぷりっていうのは、マジなんでしょう。

ポイントは、“マスコミ”ですね。
まったく存在感がない。
これはもちろん意図的だと思うんですけど、正義の遂行者として役割も、埋もれた事実の発掘者としての役割も、あるいは単純に代弁者としての役割すらも与えられず、ただただ“権力”である警察のやることの片棒担ぎでしかなくって。
この、マスメディアをこういうポジションに置く、という構図は、この作品に“現代性”を与えているんじゃないかな、なんて。


“現代性”ってことでいうと、「働く女性」というA・ジョリーの役柄ですよね。父親が責任を放棄して逃げ出した、ということがセリフで語られるんだけど、なんつーか、そこへの怨み節みたいな演技はないワケです。
自立した女性。
電話交換手という職業は、恐らくですけど、当時では一番新しい産業の従事者、というか。要するに“進んでいる”人なワケですね。ローラースケートを履いた主任で、しかも昇進を打診される、という、仕事のできる人間。
しかし、警察や精神病院では、女性ゆえに(という描かれ方を実際にしている)半人前扱い、二級市民扱いをされてしまう、という。
「ミリオンダラー・ベイビー」で「闘う女性」を描いたクリント翁ですが、まぁ、地続きだよな、と。


画の感じも「ミリオンダラー・ベイビー」と良く似てて、黒味を強調した陰影のある画。
この作品の“黒さ”“暗さ”っていうのは、当時の街の実際の夜の暗さでもあるんで、ちょっと意味合いが違ってくる部分もあるんですが、これがとにかく効いています。
ただ、「ミリオンダラー・ベイビー」よりは、ちょっとだけ色調が押さえ気味でしたね。ちょっとだけ淡い感じで、画質もちょっと違う。
その辺は、CGとの親和性みたいなのとも関係してるのかもしれません。



入れ子の構造になってる、ということで、警察との戦いに勝利した(精神病棟から“救出”される)だけではストーリーは終わらず、ここが巧い所だと思ったんですけど、警察との戦い(ナントカ委員会)と、誘拐事件んの犯人との戦い(刑事裁判の公判)を、平行して描く、と。
これが、「まだ終わってない」という形になってて。

この組み立て方はかなりポイント高いです。
うっかりしたら、ここでカタルシスを感じちゃって、ちゃんちゃん、みたいになっちゃいますから。そうはさせない、ということで。(ただし、その分作品のトータルの時間は、長いです。2時間超えてる)


その後も諦めずに戦い続け、もう一つのクライマックスが、死刑執行と、その前夜の犯人との対面。
ここでの、必死に自制を保ちながら、しかし感情を剥き出しにしながら、犯人に真相を明らかにしろと迫るカットは、かなり迫力あります。
あと、凄いと思ったのは、その後の、別の被害者家族が再会を果たすシーンがあるんですね。
そこでのA・ジョリーの演技はかなり凄い。
再会の様子を、会話を部屋の外で聴いてるだけ、という演出も凄いなと思ったんですけど。

なんつーか、そういう、“母性”のすべての要素をすべて描き切ってると思うんですよ。
全部を演じ切ってる。
強さ、弱さ、脆さ、憎しみ、悲しみ、哀しみ、そして、美しさ。

戦い続ける強さ。
同時に、弱さ故に戦い続けてしまう、という哀しさ。



それから、もう1人、“共犯者”の少年役の存在感が素晴らしいよね。
この作品の特に核心部分になってる“誘拐犯”を巡るシークエンスのリアリティは、彼に寄りかかってる部分がかなり大きいんじゃないかな、と。
犯行を回想するシーンの、被害者を車に誘い込むカットと、もうひとつは、犯行を告白した刑事に命令されて死体を埋めた所を掘り返すカット。共犯を強いられてしまった彼の演技っていうのは、実際の被害者である主人公の息子の描写が殆どない(もちろんそれは意図的にで、再会できないままの主人公の喪失感を、ということだと思います)のもあって、犯行の悲劇性を高める効果があって。



ホントに、よく出来たシナリオだし、描き切る監督の手腕、演じきるA・ジョリーの演技力、どれも素晴らし、と。
そういう作品だと思いました。


うん。
傑作。



ただし、俺みたいに「闇の子供たち」と一緒には観ない方がいいです。
気分的に、ホントに沈鬱になり過ぎちゃって、ヤバいんで。

2009年11月4日水曜日

「闇の子供たち」を観る

阪本順冶監督の超問題作、「闇の子供たち」を観る。


いや~。どこから書いていいのやら…。


まず…。

ストーリーの構造としては、幾つかのプロットがあって、それがなんとなく絡み合いながら話しが進んでいく、という形。

ストーリーの大部分はタイで進むんですが、途中舞台が日本に移ってくるシークエンスもあって。
面白いのは、画のパワーが、日本の、日本人の役者陣の演技に頼れる所ではちょっと落ちる、というところ。
タイ人の子供を撮っているカットなんかは、構図もキレキレで、どれも気迫が伝わってくるカットなんですけど。
やっぱりそれは、セリフの巧さとか演技の巧さに寄りかかれないから「画」で勝負するしかない、という演出上のアレなんだろうな、と。


佐藤浩市の出てくるカットも、長回しでワンカットで撮ったりしてるんですが、いまいちピンとこなかったりして。「ここは別に普通に撮っても良かったんでわ?」みたいな。

まぁ、名優ぞろいだとは思うんです。
だけど、例えば「こと」を終えたあとにずっと唾を吐き出すショットとか、マジでやばい。
そこにはセリフもなくって、演出も「唾を吐き出してて」ってぐらいだと思うんです。そういうショットが生み出す破壊力。
基本的に、そういう「画の力」によって支えられている作品だと言い切ってもいいんじゃないなぁ、と。
ゴミ収集車に運ばれている黒いビニール袋を映したショットとか、マジで危険ですよ。ほんとに。
「グエッ…、この中にいるってことかよ…」っていうショットですから。
冒頭、国境の街で、子供たちの腕を大人たちがずっと掴んでるんですね。手を繋いでるんじゃなくって、逃げないように腕を掴まえている。
そういう、ひとつひとつのカットの意味が重すぎます。ホントに。
一生懸命作り笑いを作ろうとして、でも痛くて(肉体的にも、精神的にも)涙が出てくるんだけど、でも必死に口角をあげて作り笑いをしようとする男の子。

その「作り笑い」は、実は結構キーになってて、「裏切り者」も登場する最初のショットで「裏切り」が暗示されちゃっている、という。
そんなんありかよ、と。


タイトルの「闇の子供たち」ですけど、これって、「闇の中に隠された子供」とか「闇の中にいる子供」「闇の中に放り込まれた子供」という意味じゃなく、なんつーか、「闇」が生んだ子供たち、という意味だよね。
子供っていうのは必ず「親」がいるワケだけど、「親」、つまり「人間」が「闇」なんだ、と。
「人間」というより、「大人の世界」が「闇」なんだ、と。
大きな大木(ガジュマルの樹?)や、ラストの川の中で戯れる子供の姿、というのは、「自然に抱かれている」という状態、つまり、「大人たち」の手の届かないところ、「大人たち」に汚される、犯される前の状態、ということですね。「無垢な」とか「自然な」とか、そんな意味。


ラストまで、ずっと、江口洋介や同僚たちの「職業意識」が動機の梃子になっている、というトコにひっかかりを感じてたんですね。
それって、なんつーか、自分たちが生きる日本の社会との「地続き」感が薄まってないか、という気がしてたんで。
そうじゃなくって、「ひとりの人間としての良心」を動機にした方がいいんじゃないか、とか、“大手マスコミ”が“正義”を代弁するっていう形はちょっと現代性がないかな、とか。
それは監督の意図する所じゃないんじゃないのかなぁ、とか。
その「個人的な正義感」を司るために置かれているはずの宮崎あおいの役は、いわゆる、結構曖昧な「人間的な感性」というか、「自分の善なる部分が反応している不快感」みたいなのに立脚しているんですけど、なんつーか、彼女はずっと「未熟で~」という描かれ方、つまりややネガティヴな描かれ方をしていて。
いかにもなタイプキャストでステレオタイプなキャラクターだし。
そこには感情移入をさせない、ということを敢えてしている。

それは、同じく「自分探し」的なプロットを付加されている妻夫木聡が演じるキャラクターもそうなんですけど。
そこもずっと引っかかってたんです。人間が作った「暗闇」を描くのに、なんで「自分探し」のプロットに引きずられないといけないんだ、と。



が、最後の最後、ズバっと、ね。
やられましたよね。

シリアルキラーの記事の中に映る自分の顔。
「つまり同類なんだ」というメタファー。
この、後味が「苦い」方向に振り切るカタルシス。思わず「グエッ!」って声が漏れそうな結末。
こんなんアリか、と。



例えばさ。
これがキリスト教の文化圏なんかで作られてたら、終話の前に「懺悔」して終わる、とか、そういうストーリーの運びになったりしたと思うんです。
悔い改めて、神に赦しを乞い、赦され、一生をかけてその罪を償う、とか、そういう結末になったと思うんです。
しかーし!

主人公が自分の内面に抱えていた、なおかつ、本人はそのことを完全に自覚していた、という“闇”。
「ここは天国だから」というセリフの意味が、エンドロールの間にガツンときちゃう、という、この不快感!

「七つの大罪」がテーマだった「セブン」よりもエグい終わり方ですから!
グエッ!


う~ん。

感想を書きながら暗鬱な気持ちになってきました。
実は、この作品と一緒に借りてきたのが、なんと「チェンジリング」。
併せて観ちゃいけない作品でした。


結論としては、阪本監督の傑作、だと思います。
気迫と凄み。


グエェ…



2009年11月1日日曜日

「バンク・ジョブ」を観る

ロンドンが舞台の、実話を基にしたという「バンク・ジョブ」を観る。


う~ん。
面白かった。いい作品でした。


上手く言えないんだけど、こじんまりまとまった、というか、無理をしないでやれることをキッチリやる、という製作ポリシーを感じて、そこも好印象。

ストーリーは、政治的な思惑から、情報機関「MI-5」(ちなみに、ジェームス・ボンドが所属しているのはMI-6)がある銀行を襲撃する計画を立て、それに乗っかってしまった男たちが、色々ありながら最終的に…、というもの。

まず、銀行襲撃を決行するにいたる前段階の説明を、冒頭でかなりテンポ良く進めていって、そこがちょっと分かりにくいんだけど、まぁ、なんせ実話なんで、そこはしょうがないっスね。
もちろん、全部がちゃんと一つに収まるようになってるんで、全然いいんですけど。


面白いのが、“襲撃”を成功させた後に色々展開がある、という部分。
「やった! 逃げろ!」で終わるんじゃなくって、むしろその後の方が面白かったりして。
この部分の話の造りはなにげに面白い。


実行犯たち、MI-5、警察署の腐敗警官と彼らを買収して“子飼い”にしているポルノ王、という三つ巴の抗争が、と。
そこに、主人公の男の、生活感や、人生との格闘に敗れかけているという“動機”、美人な奥さんと“仕事”の話を持ってきた女との微妙な関係、とか、その辺の、ちゃんと丁寧に描かれた「人間ドラマ」が挿し込まれていく、ということで。

主人公の俳優さんが、またいいんだよねぇ。ジェイソン・ステイサム。
役の、奥さんや娘を思う“普通の人間”の哀愁と、襲撃を成功させるカリスマ性とか、意外に頭も切れたりするというキャラクターが、この俳優さんだとちゃんと成立してる、というか。
別に演技がどうこうってことじゃないんだよね。存在感がいい、という。
「スナッチ」での役よりも、もっと奥行きのあるキャラクター、という感じで、ちゃんとそれを演じきってます。


ディテールとしては、モダンな画がまず印象的。デジタル機材を使うとこういう画になるのかなぁ。
最近の、特にイギリス映画では、こういうシャープな画が多いので、もうこれが一般的ってことなんでしょうか。
まぁ、ひょっとしたら、イギリス特有の、光量自体が少ない土地柄というのも関係してるのかもしれませんが。


で、時代感を表現するため(設定は、70年代)の街路や建物やモブシーンは殆ど作らず、基本的にはセットの中でのカットで話を進めていく、と。
狭いアングルのショットを多用してるのもそうだし、とにかく余計なことはしない、ということですね。銀行襲撃の話なのに、あまり銀行らしいショットが出てこなかったりするワケです。襲撃のターゲットは地下の貸し金庫なんですが、要するに、必要なそこ貸し金庫しか撮らない、という。

アクションシーンも最低限に抑えているという印象。もちろんガンアクションもなし。


それでいて、ラストの駅のホームでのシーンなんかも緊迫感をしっかり出すことに成功してるし、巧いなぁ、と。(地下鉄のホームでのショットなんかも、凄い上手)
しかも、ゴチャゴチャするカットは、ホームから、駅の裏手という“安上がり”な場所にちゃんと移動して撮ってるんですね。
その辺も、巧いと思います。


なんか、ちゃんとカタルシスもあるしね。


うん。
いい作品でした。