2009年12月31日木曜日

「美しい人」を観る

“年忘れロードショー”で、「美しい人」を観る。


この作品、詳細を全然知らなかったんですが、いい作品ですね。

というか、個人的に凄い好きな作品。こういうの好きっス。


監督は、ロドリゴ・ガルシアという人。
実はガブリエル・ガルシア=マルケスの息子さんなんだそうです。知りませんでした。
それから、ウィキペディアの当該項目によると、「フォールームス」の撮影監督もしてるってことらしい。

で。
この「美しい人」は、オムニバス作品ということで、そうですね。「フォールームス」もそうでした。
テイストは全然違いますけど。


原題は「Nine Lives」。“九つの命”ってことで、「猫は9個の命を持ってる」っていう諺みたいなのが英語圏にはありますけど、恐らくそこから来てるのでしょう。
最終章には、そういうセリフを出てきますので。


で。
ここがポイントなんですが、それぞれの章は、それぞれがすべてワンカットで撮られているんです。ステディカムでずっと移動しながら。
全然事前情報を知らないまま観始めたので、最初の刑務所内のシークエンスでぶっ飛びまして。
「ヤバい」と。


主人公はどの章でも女性で、しかも、いわゆる“普通に暮らす人たち”という設定。

それぞれの、人生(Lifeの複数形のLives)ですね。9人の女性の。


それぞれのシークエンスは、緩やかに繋がっていて、ある章で脇役だった人が他の章でメインだったり、その逆もあったり、という風になってるんですが、あまりその手の「パズルを解く」的な楽しみを見出すような作品ではありません。
ただ、その“お互いに緩やかに繋がっている”という部分も、「知らない隣人にもそれぞれの人生があるのだ」みたいな、演出面の要請に沿っているんだとは思いますが。


まぁ、とにかく、リアリズムが良いですよねぇ。派手なトピックは一切なし。
ただただ、言葉の連なりと応酬である“会話”と、関係性の過去と現在を示す“間”、あとは役者陣の表情。それだけ、という。

ステディカムや照明の具合、そもそものワンカットという手法という、技術的な側面からリアリズムを立ち上がらせる、という部分は、勉強になります。
クロースアップの、どのくらいまで寄るのか、とか、そういう部分も。

普通にカットを重ねていく、という撮り方でも、同じようなリアリズムを構築することは可能なんでしょうけど、そういう、スタイル面での個性とは別の部分で、緊張感というか、やっぱり“間”ということになると思うんですけど、そういう時間と空間とを映画の中に作り出すことに成功している。

やっぱり、観ちゃいますから。


特に、最初のシークエンスで、「この作品はこういうスタイルなんです」という、ある種の“宣言”がされている気がするんです。
作り手の。
受け手は、そこで「なるほど」と。そういうことなんですね、という“了承”があって、という。
そこで、観る側の頭の中の回路みたいなのが少し変わりますからね。

カメラに背中を向けて歩いていく人物がいる場合、普通はカットが変わって正面の表情を捉えるワケですが、この作品ではそういうことはなく、その背中を観るしかない。
つまり、“背中の演技”を観る。
その“間”。

そういう“間”が決してダレ場ではない、というのは、ホントにシナリオや演技力・存在感の勝利だと思うんですが、まぁ、そういうのを堪能する作品だ、と。
堪能というか、没入する、というか。

良いです。



個人的に一番好きなのは、スーパーマーケットの中でかつての恋人同士が再会する、という章。
お互いに引きずる気持ちを抱えながら、しかし拒絶する、という、筋立てもそうですが、とにかく会話のセリフが良いです。ホントに。
そしてその章とは裏返しのような内容の、葬儀場を舞台にした章も、好きです。

というか、全部いいかな。


そして、最終章。
老いた女性と女の子が墓地にお墓参りにやってくる、という。
「祖母と孫か?」と思いきや、実は「母と娘」で、「ん?」と。
この歳の差は妙だぞ、と思いつつ、演出でもなんか妙だな、と思いつつ、最後にブドウのひと房を墓石に載せる、というたった一つのアクションで「実は・・・」という。


う~ん。

九つの命。九つの人生。


素晴らしい!


2009年12月30日水曜日

「リーピング」を観る

テレビ東京の“年忘れロードショー”で、ヒラリー・スワンク主演の「リーピング」を観る。

“リーピング”のスペルは「reaping」ってことで、RじゃなくLだと「leap」はジャンプするとか跳躍するって意味になりますが(タイムトラベル系でよく使われる言葉ですかね。タイムリーピングなんつって)、ここではRですから、違います。
「reap」は、「刈り取る」という意味だそうで(知りませんでした。受験英語なんて、もう15年前か…)。

ちなみに、つい昨日読んだ「バットマン・イヤーツー」には「ザ・リーパー」という敵キャラが登場しますが、同じスペルで、同じ意味でした。
ずばり“鎌”の暗示、ということです。この作品でも、そういう使い方。


で。
まぁ、ヒラリー・スワンクの存在感と美しさがとにかく際立って素晴らしい、と。そういう作品ですね。
美しさ、知的であること、強さ、その強さに奥行きを与えている脆さ、美しく知的でなおかつ強さを持つことの悲しさ・哀しさ、そんな諸々を、表情のクロースアップだけで一度に表現できてしまう、という。
稀有な存在感だと思います。
好きです。

ストーリーは、その彼女が“研究者”として登場する、と。
最初は、どこかの教会で、かなりミステリアスなオープニングなんですが、その“謎”を鮮やかに解明しつつ、場面は大学での講義にトレースしていく、という、イントロダクションはかなり印象的。巧いです。

で、話が進むにつれて、ストーリーの進行と平行して、彼女の過去とか経歴とかが少しずつ明かされて、という。
元宣教師、という過去ですね。
女性の場合は、神父とか牧師とかっていう言葉は使わないんでしょうか?
プロテスタントかカトリックか、というのも、自分の理解の範囲内ではちょっと定かではなかったんですが…。
シスターってことなんスかねぇ?

とにかく、彼女はかつて、家族を持ち、聖職者として、アフリカへ赴き、そこで悲劇的な体験をして、そこで信仰を捨てる、と。
その過去を吐露するシークエンスで「神を恨んだら、初めて良く寝れた」というセリフが。このセリフはかなりのパンチライン。
ヒラリー・スワンクが言うと、またこれが良いです。

信仰を捨てた彼女の立場というのは、要するに“奇跡”なんかないんだ、ということですね。科学的に解明しちゃうんだ、と。


そこに、南部の田舎の町から、ある事件を調査して欲しいという依頼があって、その依頼者と共にその町に赴く、という筋立て。

面白かったです。
突飛と言えば突飛な設定なんですが、結構上手に語られている、というか、スッと入っていけるので。

その「スッと入っていける」というのは、主人公の立場が独特だから、ですね。「彼女がどう説明するのか」という所に観る側の視点が置かれるので、いわゆる“神秘的な事象”が「どういう仕組みのウソなんだ?」という気持ちでストーリーに入っていく、と。観る側が。


ネタバレをしてしまうと、結果的に、作中ではマジで“奇跡”みたいなことが起きていて、その“神秘的体験”を経て、主人公である彼女は、あっさり「私は間違っていた」って言ってしまうんですが。

作中では、傷が治るとか死者が生き返るといった“奇跡”ではなく、ネガティブな“災い”が起きるので、ちょっとややこしいんですが。


主人公の視点からは、「ホントに“災い”なんか起きるのか?」というポイントと、もう一つ、「事件の謎解き」という、2つのポイントがあるワケですね。
“災い”なんか起きるワケがない、ということならば、誰かが人為的に起こしている事象であり、犯行なワケで。


で、話が進むにつれて、「どうやらモノホンの“災い”じゃねーか?」と。
ここで、彼女の内面に葛藤が生まれる。

「神なんか(つまり、その逆の存在である悪魔も)いない」という立場も、ある種の“信仰”なワケです。
その“信仰”が揺らいでくる。

その過程で、彼女がキリスト教の信仰を捨てた理由が回想され、同時に、苦しめる、と。
「神なんかいない」と信じることで、かつて自分の身に降りかかった不条理な悲劇を乗り越えたのに、事件の全容が明らかになるにつれて、「神はいるのかもしれない」という疑問が生まれてきてしまう。

そういう葛藤を抱えながら、事件の調査を進めていく、という。



で。
ここからがかなりややこしいんですが、その町で起きているのは、「出エジプト記」に書かれている「十の災い」の再現だ、と。
「十の災い」というのは、文字通り、数々の“災い”がその地に起きてしまう、というもの。
ポイントは、神が、という部分なんですね。神がその“災い”をその地に(エジプトに)起こした、という部分。
“災い”っていうと、悪魔が起こすっていうイメージですけど、そうじゃないワケです。神による“奇跡”が“災い”という形になって現れている。


この辺が、キリスト教的な教養の薄い俺としては、ちょっと理解しにくい部分だったんですが、まぁ、分かればなるほどな、ということで。


ここが、実はストーリーの“どんでん返し”的な部分に関わってるんです。



ネタバレですが…。
“災い”という形で起きている“奇跡”というのは、ある1人の少女が原因となっている、と。
で、そもそもの依頼は、「その少女が疑われているから、どうにかして欲しいんだ」ということでもあるワケなんですね。「科学的に解明できれば、その少女への疑いも晴れるだろうから」と。

ところが、それはマジもんの“奇跡”だった、と。

ところが(ここがミソ)、なんとその町は、町の住民全体が悪魔崇拝者だった、という筋書きだったんです。
その悪魔崇拝者たちを懲らしめるための“災い”だった、という(多分)。

少女≒モーセ、というアレだったんですね。
あるいは、出エジプト期をなぞると、少女≒ユダヤ人。
で、主人公のヒラリー・スワンクが、モーセ。

海がバカッと開いて海底を歩いていく、という、「十戒」のアレは「出エジプト記」ですから、ずばり、あのモーセです。


これですねぇ。
ひょっとすると、分かる人はすぐに分かってしまう構造だと思うんです。“災い”は神のもたらしたものであり、ユダヤ人のメタファーとして、その“災い”から救い出される人こそが、云々。


ただし、俺はそこが最後まで良く分からず、結果的に「なるほど!」という、妙なカタルシスを感じてしまった、という。

製作者サイドとしては、「科学v.s.宗教」という構造でもって最後まで引っ張る、ということだったと思うんですが、俺は、背景に気づかないまま、恐らく製作者サイドの意図しない形で結末を観るに至った、と。


依頼者が犯人だった、という、ミステリーとしてはややB級感がある(ただし、個人的にはそういうのは凄い好きなんですが)ストーリーなんですが、その背景に設けられた設定やらなんやらが良く出来ていて、個人的には面白かったな、と。
ヒラリー・スワンクの存在感の素晴らしさもコミで。



というワケで、すっかりネタバレしてしまいましたが、佳作と言って良いのではないでしょうか。


2009年12月28日月曜日

「アバター」を観る(3Dで)

各方面から話題沸騰中の「アバター」を、バルト9の深夜上映の回で観る。



まー、凄かったっス。正直、まともな感想は書けないって感じ。
DVDが出たらもう一度観て、ちゃんとした“作品としての感想”は、その時に書こうかな、と。


とりあえず、ざっくり言うと。。。
「ポカホンタス」+「風の谷のナウシカ」+「宇宙戦艦ヤマト」
という感じですかねぇ。

侵略者としての人類、ということで、「インディペンデンス・デイ」とか「エイリアン」とは真逆の角度から作られている作品ですね。


まぁ、そんなことより、キャメロン渾身の3D、と。

この映像体験!



2009年12月26日土曜日

「演出とは仕草の発見である」

さて。


この間、ふと深夜にテレビのチャンネルを回してたら、(番組名は後から調べたんですが)「夜遊び三姉妹」という番組をやってまして。
三姉妹という設定の女性3人がマンションで暮らしていて、という、シットコム。

ま、ちょっと前にパフュームが出演してたシットコムの番組がありましたけど、だいたいそんな感じで。

三姉妹は、長姉が光浦靖子、次姉が加藤夏希、末妹が小池里奈ってコ(この小池里奈は、見たことがなくって、こちらも後から調べました)。



で。
あるエピソードで、加藤夏希がテレビゲームをやってるすぐ脇で、小池里奈が、バランスボール(トレーニングなんかに使う、ばかデカい、空気が入ったボール)を使って、前後に行ったり来たりしてるんです。
バランスボールに、仰向けの体勢で乗っかって、勢いで前に出て、手で床を押してまた後ろに戻っていく。
びよ~んびよ~んって感じで。
前にいって、また後ろに戻って。
その動きに、姉が「邪魔!」と言ってキレる、という段取りなワケですが。


が…。



その、バランスボールに乗ってる小池里奈がめちゃめちゃカワイイ!

こんなのアリか、と。

ウザいbutカワイイ



これは演出で計算された動きなんだろうか、と。
なかなか思いつかないですよ。
ただ前後に動くだけ、というのは。しかも、カワイイし。
普通に澄ました顔で(無言で)バランスボールに乗ってるだけですから。

絶妙な感じでしょ!
動きは物凄い無意味なんだけど、演出的にはちゃんと意味があって、その無意味なトコに可愛げがあって、という。



「演出とは仕草の発見である」とは、俺の“受講録”に残っている篠崎誠監督の言葉なんですが、この、小池里奈の“仕草”っていうのは、かなりの大発見な気がする。

ウザいbutカワイイ、という存在感を演出するための仕草。


例えば、猫なんかがそうですよね。
気まぐれで、なんかどうでもいい時に、邪魔をしにくる。こっちが望んでないタイミングで来る。
でもかわいいから無下に出来ない、という。


「夜遊び三姉妹」。

俄然目が離せない番組になったな、と。
色々盗ませていただきたいです。


要注目!

2009年12月24日木曜日

「ジャック・メスリーヌ フランスで社会の敵No.1と呼ばれた男」を観る

まぁ、長いタイトルですが、そのうえ2部作だ、という、その「ノワール編」と「ルージュ編」を、2作まとめて、先週観て来たので、その感想でっす。


ちなみに、“社会の敵No.1”っていうのは、“パブリックエナミー#1”ということで、ワリとあちこちで見かける言葉ではありますね。
ジョニー・デップの最新作も、ずばり「パブリックエナミー」ってタイトルだし。

そのJ・デップの作品はもちろんアメリカの“一番悪いヤツ”を描いているんでしょうが、この作品は、フランス。主演は、フランスの当代一といえる、ヴァンサン・カッセル。

ま、「やくざ者の一代記」「成り上がり記」ですね。
“自伝”が原作になってるってことで、実録モノ、「仁義なき戦い」みたいなモンです。


しかし!
2本立てなんか久しぶり!
そもそも、二つとも新作扱いなワケで、併せて3600円!


しかも、映画館(吉祥寺バウスシアター)の中で、観てるの、俺だけでした。
ホームシアター状態。もちろん、2作とも。

つーか、そんな状態で観てる俺は、完全に変わり者扱いですよね。トイレに都合で4回行ったし。


まぁ、そんな個人的な事情はさておき。



作品の感想を。


まず、あとから分かるんだけど、2作を通じての全体の造りっていうのがあって、まず冒頭に、作品の一番ラストのシークエンスが流れるんですね。
で、そのシークエンスが、シークエンスの中でも何も明らかにされないまま終わる。
分かるのは、主人公と、恋人と思しき女性の2人。

このシークエンスは、いわゆるオープニングクレジットみたいな感じで、「007」のあんな感じのオープニングで、と書くと伝わるでしょうか。
ちょっとシャレた感じの、というワケでもないんだけど、とにかく、そういうオープニング。

で、その一連の“オープニング”が終わった後に、主人公の“若き日々”が始まり、「一代記」が語られていく、と。
まず、前編。
で、前半が終わって、次に後編なワケですが、そこでは、前編の“オープニング”のシークエンスの続きが流れるんです。
そこで、物語全体が“バッドエンド”で終わることが明示される。
で、前編のラストからやや飛躍した形で、後編のストーリーが始まるんです。
で、ストーリーが全部終わろうというところで、前編と後編のそれぞれの“オープニング”で語られていたシークエンスが、再び語り直される。
この、「直される」という部分がポイントで、“視点”が変わるんですね。

この、作品全体の終幕となる、「改めて語り直される」シークエンスは、かなり面白いです。緊張感があって。
これは、“視点”が変わっていることが、なんだかいつもと違う効果を作り出していて、要するに、長時間見せられていた主人公が、急に引き離された存在に感じちゃうんですね。
実際に画面には映ってるんですが、“視点”が変わってるモンで、要するに「志村ぁ! 上うえ!」というヤツで、自分には見えてるんだけど画面上の人物には見えていない、という、お決まりの構図が、その“画面上の人物”に寄り添ってきた時間が長いだけに、この「もどかしさ」がイイ感じで緊張感をチャージしてくれる、というヤツで。


ただ、その“終幕”までが、長い・・・。
一代記だから、それはそれでしょうがないんですけどねぇ。「仁義なき戦い」だって、シリーズ全部観ようと思ったら、それは長く感じちゃうでしょうしね。


ちなみに、その“オープニング”は、なんだか無駄に「24」ライクな分割画面を採用してます。
個人的には、この、画面を分割して映すって、あんまり好きじゃないんですけどね。
そういうのも含めて、作品全体に、なんだかワリと「テレビサイズ」の画って感じでしたね。クローズアップが多くて。
もちろん、それだけじゃなくって、空撮もありだし、画面全体を使って思いっきり引いた、凄い映画的なショットもありましたが。
まぁ、カネはやたら掛かってます。キャストも、オールスターだし。

あと、音楽はなんだか鳴りっぱなしって感じでした。使い方が上手だとは思わなかったけど、まぁ、効果的ではあったかな、というか。セオリー通り。



で。
ストーリーはまず、アルジェリア戦争での戦場体験から始まります。
アメリカでは、ベトナム戦争が(今なら湾岸戦争やイラク戦争でしょうけど)、こういう扱われ方でもって語られるワケですが、フランスにとっては、アルジェリア戦争。

そこで体験した諸々を胸にしまい込んで除隊・帰国、と。そして、“家庭”での平穏な暮らしには馴染めずに無法者たちの仲間に、という、この辺は、万国共通のスタイルですね。
軍隊というのはアウトローの供給源としては万国共通なんだなぁ、と。

軍隊というのは、「戦う為に」という理由で、厳しい訓練によって、どうしても、ある種の“人間性”というか、“穏やかな暮らし”への適応性をまず剥ぎ取ることが“軍隊への適応”の始まりなワケで、つまり、「内面的な再編」を強いるワケですよね。指揮下にいる兵士に対して。
どこの国でも。
それが除隊、帰国したからって簡単に「穏やかな暮らし」に適応できるはずもないし、という。
ホモソーシャルな感じもそうだしね。

つまり、軍隊と犯罪組織っていうのは、とても親和性が強いんだ、と。

この作品でも、そういうとこはちゃんと踏まえて、ということで、戦争が終わり(戦線が縮小し)、戦場から母国へ帰されても、「再編された内面」を抱えたまま、「平和への適応」をしないといけないんんだけど、そんなに簡単にはいかなくて、と。
ランボーシリーズの第一作も、文字通りそういう姿を描いた作品だったワケですが。

この作品では、ギャング組織に入って、ということで。

で、その後は、やくざ者のくせに“清純”な女性と恋に落ち、“ファミリー”と家庭との板挟みになり、という、まぁ、ありふれたと言えばその通りの筋立てで話が進んでいく、という。


面白いのが、フランスの警察から逃れるため、逃亡先として“新大陸”であるカナダに渡航するんですね。
そうか、と。
ケベックはフランス語圏なワケで、納得なんですけど、例えばイギリス人だとストレートにアメリカ(USA)になるんだろうし、アイルランド系も、同じくアメリカ合衆国。イタリア人もそう。ドイツも、東欧も、多分同じ。
スペイン人だと、これが南米になったりするのかなぁ。
当のアメリカ人は、これがメキシコになったりするんでしょうけどね。
この辺の、フランス人の“新大陸”の感覚はちょっと面白かったです。


で、カナダでは、ケベック独立を掲げる過激派のメンバーと共闘関係を結ぶ、という展開に。
ここもちょっと面白かった。

「政治」というファクターも、まぁ、この時代のフランスを(というか、フランスに限らず、世界のどこでもイデオロギー闘争が全てを支配していた、という時代だったワケですけど)描こうとしたら外せない要素であって。
また、フランス人ってそういうのが好きだもんねぇ。

で、最初はワリと、「右も左もダメだね」なんて言ってるんですね。ところが、ラストに近くなってくると、主人公がだんだん「革命だ」とか言い始める。

実は、ずっとこの“革命”というか“政治絡み”というファクターは提示はされていて、時節時節を示す言葉として「ドゴールが」とか「ピノチェト」とか「モロ」「赤い旅団」なんていうがずっと使われてて。

そういうも含めての“システム”ってことなのかなぁ、なんて思ってたんですけど(そこに現代性を込めた、とか、そんな感じで)、そういう解釈はちょっと違うみたいですね。
きっぱりと“極右”“ファシスト”のアンチとして描かれる、という風に変わっていきます。
この辺の話は、例えば、スピルバーグの「ミュンヘン」なんかを併せて観ると面白いかもしれませんね。それから、この秋にテレビで見た、ジョージ・クルーニーが監督して作った(ソダーバーグが製作です)「コンフェッション」とかも。


それから、一代記だけに、舞台が色々変わるんですが、敵と仲間が次々と変わっていく、という話の進め方もなにげに独特かも。
恋人も変わっていくんだけど、相棒も変わるし、好敵手(ルパン三世でいうところの銭形)も変わる。

この辺は、自伝を元にしてるってことで、“based on true story”の良さかもしれません。
ここが、完全なフィクションなら、例えば一番最初に愛し合った売春婦や、結婚して子供をもうけた“清純”な奥さんとか、そういう人がラスト近くになって登場して、今の人生や運命との対比を、なんてことになりがちだと思うんですけど、そういう風にならず、その代わり、なんと、娘との再会、というシークエンスがあります。(この娘がまためちゃめちゃ美人なんだ!)

このあたりは、個人的にはちょっと首を傾げちゃう感じ。
もっと、主人公を突き放すか、美化するならそっちに振り切るか、というのが、ブレちゃってる気がしてしまいました。
だって、別に反省とかしてないからねぇ。少なくとも、俺の印象では。

だから余計に、ということかもしれませんが、自分の両親との“和解”みたいなシークエンスは、作品の中でもかなり浮いてしまってます。和解に当たっての両者の動機も、イマイチ釈然としない。

まぁ、実話がそうなってる以上そう描く必要があった、ということなのかもしれませんし、俺の解釈が間違ってるのかもしれませんし。そこら辺はちょっと分かりません。


で、なんか異様に美人にモテる主人公は、女と相棒をとっかえひっかえしながら、ついに、という。



ま、長いけど、それだけの“人生”だよね。確かに。
このボリューム感をちゃんと描こうと思ったら、確かにこの長さは必要だし、これだけのカネも必要ですよ。
それは確かに、そう思う。



でも、実は、もっとバイオレンスなギャング映画なのかなぁ、なんて思ってたんですけどねぇ。
あんまりそんな雰囲気はなかったですね。
カナダの刑務所でのアクションシーンとか、凄い良かったけど、これだけ長さのある作品だと、どうしてもピースひとつひとつの印象は薄まっちゃう、というのもあるし。


あ、そうだ。
当時のパリやフランスの様子を描く、という部分は、凄い良かったです。特に車が。
カーアクションとかもかなりカネが掛かってると思うんだけど、当時の雰囲気を出す、ということで、特に車がみんな、当時の車って感じで。(パトカーもフォルム丸っこくてかなりカワイイ)

まぁ、だから、そういう全体の雰囲気を楽しむ作品なんスかねぇ。美人しかでてこないし。


というワケで、DVDで観てたらもっと高評価な作品だったかもしれません。
なんせ3600円払ってますからね。厳しくなりますよ。それは。
そこはしょうがないっス。

2009年12月15日火曜日

「母なる証明」を観た

先週、新宿武蔵野館で観た「母なる証明」の感想でっす。

「父、帰る」の次に「母なる~」って、ちょっと出来過ぎですけど。

とにかく、各方面から絶賛の作品ですよね。「殺人の追憶」のポン・ジュノ。
面白かったです。


ただ、“絶賛”って感じじゃなかったかなぁ。「殺人の追憶」もそうだったんだけど(「グエムル」は観てないんスよ・・・)、なんかこう、あと一歩踏み込んで欲しいなぁ、という感覚が残ったりして。
ま、あくまで個人的な“感覚”なんで、別にたいしたアレじゃないんですけど。



で。
とにかく感想として最初に書かなくてはいけないのは、「父性の徹底的な排除」という点ですよね。この作品に関しては。

ただの排除ではなくって、という部分。
たとえば、これがちょっと前の日本映画だったら、「父親は存在はしているけど存在感がない」とか「いるんだけど役割を果たしていない/放棄している」なんていう表現があったと思うんだけど、この作品ではもはや、存在自体がすでにない。

被疑者である息子、被害者、そして“真犯人”にすら父親はいなくて、息子の悪友にも居ない(という風に描かれる)。
起承転結の“承”に当たるシークエンスで、被害者のお葬式の場面があるんだけど、そこでも女性同士の衝突が描かれるし。(ちなみに、もっとずっと後の、暗闇の中で被害者の祖母と主人公の老母が対峙するシークエンスは、かなりヤバい)

何人か登場する、年齢的に“父親”に相当すると思われる登場人物は、1人は、まともに仕事をしない無責任な弁護士だし、もう1人は、バラック住まいのクズ鉄屋だし、あとはゴルフ仲間の大学教授たち、とかなんで、とにかく、いわゆる“庇護者としての父親”が出てこない。


変わって、母親に「全能であること」が求められていて。
で、その「全能」とは、と。
そこがこの作品のテーマ、かな?
「母なる証明」ってタイトルに沿えば、作品のテーマはそうなってくる気がします。
“父親”が不在である“母親”にとっての「全能」とは?

結論から言うと、善悪(と、定義されているある基準)すら超越した価値観、ということなんですかねぇ。

全能たる母性とは、善も悪も関係なく、ただ息子への愛情(つまり、その愛情の主体である自分自身の感情)だけなんだ、と。
それのみが行動原理であり、逆に言うと、“背理”すら肯定されうる、という。

その、肯定するためのツールとして用いられるのが、「ヤミ治療」なツボと鍼の技術で。

西洋医学的な視点からみれば、それは単なる民間診療であり、ある種の「信仰」なワケだけど、主人公にとっては、愛情を駆動力に進む自分自身を支えてくれる大事な“拠り所”であって(実際に、コメカミのツボは記憶を蘇らせてくれるんだけど)。



で。
これはホントにすげーと思ったんだけど、最後の最後に、鍼を打つんですね。自分に。
ここが凄い。「自分に」という部分。
息子が苦悩してるんじゃなくって、自分が、という。

「息子が真実を知って苦しむ」ことに対して「母がウソをついてなだめる」とか、そういうことじゃないんですね。
これって、結構ポイントだと思うんです。

ただ自分ひとり、母親だけが苦しむ、という。
そして、鍼を打つという“儀式”でもってそれすら乗り越えてしまう、という。

この描写はかなり凄いですよね。なかなか書けないっスよ。



もう一つ、特徴は、「外部の人間」というのが登場しない。異物、というか。
例えば、構造論のよくあるサンプルなんかには、「賢者」みたいなのが登場するワケです。愚者に対する賢者。
大抵の場合、特に、この作品のような、ある(濃密な)コミュニティが舞台になっている場合、コミュニティの外部からの訪問者が、時に「賢者」となって、主人公に力を貸すワケですね。具体的にアドバイスをしたり、実際に共同作業をしたりして。
この作品では、それに相当する人物が、一回捻って“悪友”になるワケで、そのことによって、舞台が完全にあるひとつのコミュニティの中に閉じている。
結果的に、これも「父性の排除」と繋がってる部分なんだけど、「賢者の排除」になってる。つまり“愚者”しか登場しない、という。

これはやっぱり、作劇上、かなり難しいことだと思うんですよ。
シナリオを書くにあたって、これは結構難しいことなんじゃないかなぁ、なんて。
生理的に、というか。(ゴルフクラブに付いてる口紅を血と間違える、なんて、逆に無理です。発想が。絶対書けない)
どうしても、“名探偵”みたいなキャラクターを配置したくなるもんですから。じゃないと、話を前に進めるのが大変なんで。

そこを、この作品は見事に乗り越えてますよね。

実は、この辺が個人的にちょっとだけマイナスなポイントだったりするんですけど(もっとスパッと解決して欲しい)、まぁ、そこら辺は別にいいですね。



とにかく、そういう方法論をとることで、主人公の“意思”を描写するんだ、と。
母親の。
ミステリーという“構造”を使うことで、ストーリーを前にドライブさせていく推進力を得てるワケですが、それを縦軸に、横軸には「母の母たる証明」を描く、と。
盲目的な愛、と書くと、なんだか陳腐で、監督も「そんなもんじゃないからこの作品を撮ったんだ!」ってことになるんでしょうが、敢えて最短のセンテンスで言うと、やっぱり「盲目的な愛情」、と。



そういうことっスかねぇ。


昔、子供の頃に見た大河ドラマの「独眼流政宗」で、渡辺謙の政宗と徹底的に対立する生母(演じるのは岩下志麻)のあまりの怖さが、個人的には軽くトラウマみたいになってますけど。

ま、この作品でも、凄いですよ。
ディテールがまた、ねぇ。
とにかく歩く、という。車とかタクシーとか使えないから、とにかく移動は歩き、という描写。雨でも何でも歩き。
あとは、普通にバラック小屋が凄いよね。
悪友の住んでる家とか、あんなのアリか、とか思うし、後々にもっと凄いバラックとか普通に出てくるし。あの辺の貧しさの描写は、ちょっとインパクトがありました。
「シティ・オブ・ゴッド」みたいな作品だと、例えば、豊かな生活の象徴としてまず大きな高層ビルみたいなのが描写されて、それとの対比でスラム街があって、そこで人々が生活して、みたいな“文法”があったりすると思うんだけど、この作品では、そこら辺がワリと無視されてて。
いきなり「え?」みたいなインパクトはあって。

ま、細かい所ですけど。




というワケで、なんか巧く書けませんが、素晴らしい作品だったとは思います。ホントに。
映画館で観て良かったな、と。



ちなみに、新宿武蔵野館は、おそらくウォンビンのファンだと思われる、アラ還なオバサンが大半でした(結構客は入ってた)。
あのオバサンたちは、恐らく大半は“母親”でもあるでしょうから、そういう方々はこの作品をどう受け取ったのでしょうか。
主題が主題だけに、結構気になる。

“ウォンビンの母親”ってことで、感情移入もハンパないだろうしねぇ。
「抱き締めたい!」って感じなんスかねぇ。


まぁでも、そういう意味で言うと、ウォンビンみたいなマネーメイク・スターが、こういうアクの強い作品にちゃんと出演して集客に貢献してるってことですから、それは、韓国映画の豊穣さを示しているよなぁ、と。
ウォン・カーウァイのぶっ飛んだ作品にスターが大挙して出演していた頃の香港映画の熱量をちょっと思い出しました。

2009年12月10日木曜日

「父、帰る」を観た

月曜日の映画天国で放送していた「父、帰る」の感想でっす。




う~ん。



分からん・・・。



とりあえず、物凄く話題になった作品ですよねぇ。ヴェネチア獲ってる作品だし。



しかし…。



なんだろう、とりあえず、画は凄い綺麗。
どうやって撮ったんだろうっていうぐらい綺麗。

ホントに。
自然光だけで撮ってるのかなぁ。
ただカメラ回したらああいう画になった、ということではないと思うんだけど…。


登場人物はぜんぶあわせても10人ぐらい。
基本的には、親父と兄弟2人の三人だけ、なんですけど。


そういうトコが凄いってことなんだろうか?


兄弟2人の感情っていうのも、もう凄い伝わってきて、そこは凄いなぁ、という感じなんだけどね。


でもねぇ。
「だからどうした?」って思っちゃうんだよなぁ。

確かに、作劇も、ちゃんとしてるっちゃしてるし、ちゃんと最後まで観れるようにはなってるんだけど。


でもねぇ。




なんか、こういう時って「ちゃんと観れてない自分」が不安になったりするけどね。アンテナが狂ってるのかなぁ、とか、錆びてるのかなぁ、とか。


最後の最後まで謎が明かされないという部分が「良い」っていう評価なのか?



そもそも、最初の“目的地”は確か「滝」じゃなかったかと思うんだよねぇ。旅行の目的は。釣りをしにいく、ということで。

だけど、親父が公衆電話で電話した後、「用事が出来た」みたいなことで、兄弟はバスで家に帰らされそうになる。だけど「用事に付き合え」ということになって、また親父の車に乗る。
で、着いた先が、(湖の?)島。

その島の、なんかの鉄塔の上に、親父は兄弟を連れて行くんだけど、でも、その島は本来の目的地ではないハズなので、「この景色を見せたかったんだ」みたいなことではないと思うし。


あと、その島に渡るときに、ボートの櫂を親父は漕がないんですね。
そこが謎。
なぜ漕がないのか、と。“教育的な措置”なのかな、とか。
例えば、親父の“方向指示”みたいな掛け声がないとボートは進まない、とか、そういうワケでもなさそうだし。


う~ん。
こんなことをツラツラ書いてる俺は、なんか「まるでバカ」みたいな感じなんだろうか・・・。
不安だ。



兄弟2人の成長、という物語なんだとしたら、それはそれで、物凄い良く分かるんだよねぇ。
でも、そうなら、ラストのモノクロームの写真の意味が分からない。


“喪失”の物語なんだろうか・・・。
その、人生における「何かを失うこと」の、その失う過程を描く、という物語。
でも、そうなら、「そもそも最初は居なかった」という設定の意味が分からなくなる。


例えば、親父が帰ってきてからの「なんかしっくりこない日常」みたいな描写があれば、もうちょっと変わると思うんだよねぇ。旅行に連れて行く動機みたいなのが。
確かにそういう流れにすると、「親父の素性が全然分かんないし、旅も目的も分かんない」という感じが消えちゃうから、つまり、「そういう話じゃないのだ」ということだと思うんだけど。


う~ん。


そういうことじゃないのか?
「不条理劇である」ということなんだろうか?


それとも「リアリズムが素晴らしい」ということ? 演技が自然だ、とか。



う~ん。


ずっと(12年間)不在だった親父が、家に現れる。
⇒親子3人で小旅行に行こう、という話になる。実際に旅立つ。
⇒島に着く。兄が親父に心を開く。反対に弟は親父に反発する。
⇒親父との約束。約束を破る。親父と兄弟の衝突。
⇒衝突の結果。喪失体験。
⇒喪失体験を乗り越え、島から対岸に戻ってくる。


で?


違うか。

こうやって、どうにかして理解しよう、ということ自体が間違ってるのか?

世界は不条理である、と。
そういうことを言う作品なのか?


しかし、それならば、あまりに残酷すぎるし、個人的にはそういう意味でダメだ。



う~ん。
でも、分かるんだよなぁ。画がとにかく綺麗だし、確かに、演技も凄い自然で、そういう上手さは分かるんです。凄い。


でも、分かりません。


いい作品なんですけどね。


結論としては、そういう感じ。
うん。