2009年12月30日水曜日

「リーピング」を観る

テレビ東京の“年忘れロードショー”で、ヒラリー・スワンク主演の「リーピング」を観る。

“リーピング”のスペルは「reaping」ってことで、RじゃなくLだと「leap」はジャンプするとか跳躍するって意味になりますが(タイムトラベル系でよく使われる言葉ですかね。タイムリーピングなんつって)、ここではRですから、違います。
「reap」は、「刈り取る」という意味だそうで(知りませんでした。受験英語なんて、もう15年前か…)。

ちなみに、つい昨日読んだ「バットマン・イヤーツー」には「ザ・リーパー」という敵キャラが登場しますが、同じスペルで、同じ意味でした。
ずばり“鎌”の暗示、ということです。この作品でも、そういう使い方。


で。
まぁ、ヒラリー・スワンクの存在感と美しさがとにかく際立って素晴らしい、と。そういう作品ですね。
美しさ、知的であること、強さ、その強さに奥行きを与えている脆さ、美しく知的でなおかつ強さを持つことの悲しさ・哀しさ、そんな諸々を、表情のクロースアップだけで一度に表現できてしまう、という。
稀有な存在感だと思います。
好きです。

ストーリーは、その彼女が“研究者”として登場する、と。
最初は、どこかの教会で、かなりミステリアスなオープニングなんですが、その“謎”を鮮やかに解明しつつ、場面は大学での講義にトレースしていく、という、イントロダクションはかなり印象的。巧いです。

で、話が進むにつれて、ストーリーの進行と平行して、彼女の過去とか経歴とかが少しずつ明かされて、という。
元宣教師、という過去ですね。
女性の場合は、神父とか牧師とかっていう言葉は使わないんでしょうか?
プロテスタントかカトリックか、というのも、自分の理解の範囲内ではちょっと定かではなかったんですが…。
シスターってことなんスかねぇ?

とにかく、彼女はかつて、家族を持ち、聖職者として、アフリカへ赴き、そこで悲劇的な体験をして、そこで信仰を捨てる、と。
その過去を吐露するシークエンスで「神を恨んだら、初めて良く寝れた」というセリフが。このセリフはかなりのパンチライン。
ヒラリー・スワンクが言うと、またこれが良いです。

信仰を捨てた彼女の立場というのは、要するに“奇跡”なんかないんだ、ということですね。科学的に解明しちゃうんだ、と。


そこに、南部の田舎の町から、ある事件を調査して欲しいという依頼があって、その依頼者と共にその町に赴く、という筋立て。

面白かったです。
突飛と言えば突飛な設定なんですが、結構上手に語られている、というか、スッと入っていけるので。

その「スッと入っていける」というのは、主人公の立場が独特だから、ですね。「彼女がどう説明するのか」という所に観る側の視点が置かれるので、いわゆる“神秘的な事象”が「どういう仕組みのウソなんだ?」という気持ちでストーリーに入っていく、と。観る側が。


ネタバレをしてしまうと、結果的に、作中ではマジで“奇跡”みたいなことが起きていて、その“神秘的体験”を経て、主人公である彼女は、あっさり「私は間違っていた」って言ってしまうんですが。

作中では、傷が治るとか死者が生き返るといった“奇跡”ではなく、ネガティブな“災い”が起きるので、ちょっとややこしいんですが。


主人公の視点からは、「ホントに“災い”なんか起きるのか?」というポイントと、もう一つ、「事件の謎解き」という、2つのポイントがあるワケですね。
“災い”なんか起きるワケがない、ということならば、誰かが人為的に起こしている事象であり、犯行なワケで。


で、話が進むにつれて、「どうやらモノホンの“災い”じゃねーか?」と。
ここで、彼女の内面に葛藤が生まれる。

「神なんか(つまり、その逆の存在である悪魔も)いない」という立場も、ある種の“信仰”なワケです。
その“信仰”が揺らいでくる。

その過程で、彼女がキリスト教の信仰を捨てた理由が回想され、同時に、苦しめる、と。
「神なんかいない」と信じることで、かつて自分の身に降りかかった不条理な悲劇を乗り越えたのに、事件の全容が明らかになるにつれて、「神はいるのかもしれない」という疑問が生まれてきてしまう。

そういう葛藤を抱えながら、事件の調査を進めていく、という。



で。
ここからがかなりややこしいんですが、その町で起きているのは、「出エジプト記」に書かれている「十の災い」の再現だ、と。
「十の災い」というのは、文字通り、数々の“災い”がその地に起きてしまう、というもの。
ポイントは、神が、という部分なんですね。神がその“災い”をその地に(エジプトに)起こした、という部分。
“災い”っていうと、悪魔が起こすっていうイメージですけど、そうじゃないワケです。神による“奇跡”が“災い”という形になって現れている。


この辺が、キリスト教的な教養の薄い俺としては、ちょっと理解しにくい部分だったんですが、まぁ、分かればなるほどな、ということで。


ここが、実はストーリーの“どんでん返し”的な部分に関わってるんです。



ネタバレですが…。
“災い”という形で起きている“奇跡”というのは、ある1人の少女が原因となっている、と。
で、そもそもの依頼は、「その少女が疑われているから、どうにかして欲しいんだ」ということでもあるワケなんですね。「科学的に解明できれば、その少女への疑いも晴れるだろうから」と。

ところが、それはマジもんの“奇跡”だった、と。

ところが(ここがミソ)、なんとその町は、町の住民全体が悪魔崇拝者だった、という筋書きだったんです。
その悪魔崇拝者たちを懲らしめるための“災い”だった、という(多分)。

少女≒モーセ、というアレだったんですね。
あるいは、出エジプト期をなぞると、少女≒ユダヤ人。
で、主人公のヒラリー・スワンクが、モーセ。

海がバカッと開いて海底を歩いていく、という、「十戒」のアレは「出エジプト記」ですから、ずばり、あのモーセです。


これですねぇ。
ひょっとすると、分かる人はすぐに分かってしまう構造だと思うんです。“災い”は神のもたらしたものであり、ユダヤ人のメタファーとして、その“災い”から救い出される人こそが、云々。


ただし、俺はそこが最後まで良く分からず、結果的に「なるほど!」という、妙なカタルシスを感じてしまった、という。

製作者サイドとしては、「科学v.s.宗教」という構造でもって最後まで引っ張る、ということだったと思うんですが、俺は、背景に気づかないまま、恐らく製作者サイドの意図しない形で結末を観るに至った、と。


依頼者が犯人だった、という、ミステリーとしてはややB級感がある(ただし、個人的にはそういうのは凄い好きなんですが)ストーリーなんですが、その背景に設けられた設定やらなんやらが良く出来ていて、個人的には面白かったな、と。
ヒラリー・スワンクの存在感の素晴らしさもコミで。



というワケで、すっかりネタバレしてしまいましたが、佳作と言って良いのではないでしょうか。


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