2010年1月5日火曜日

平野啓一郎×東浩紀

雑誌に掲載されていた、平野啓一郎さんと東浩紀さんの対談。
「物語論」と「文学を巡る状況論」って感じですかね。その二つは繋がっていて、という。

結論としては、やや乱暴にまとめると「物語への回帰を恐れるな」という感じだと思います。


お2人は基本的に、ずっと“小説”についての話をしてるんですが、まぁ、俺が「自分のフィールド」と思っている(思い込んでいる?)のは“映画”なワケで、映画というジャンルに引き寄せての解釈を、ということで。

平野 大体、社会適応能力がない人が作家になるわけじゃないですか。だから、その人が好きなことを書いて、社会がウェルカムと言って受け入れてくれるはずがないんですよ。
で、これは僕が文学の現場で感じる実感ですが、出版社に入って文芸をやりたい人って、もちろん、文学好きの人が多いし、作家に対してある種のリスペクトがあるんだと思います。だから、作家がわけのわかんないものを書いた時に、編集者自身がそれを、良くも悪くも理解しようとする。その結果、作家と編集者の間で盛り上がっても、営業部では「いや、これはちょっと・・・」と言われ、で、書店でも「うーん」となって、結局、読者に持っていった時にもさっぱり評判にならないという。
今、演劇ではサイモン・マクバーニーにせよ野田秀樹さんにせよ、俳優たちとワークショップをやりながら作品を作っていくという方法がうまくいってますけど、作家もここぞという作品に取り組む時には、例えば2、3人の編集者と組んで、複数の視点から作品を検討して、社会化を図るというような手立てが講じられてもいいと思いますね。

これは、作家と小説(作品)と読者という、ひとつのビジネスモデルについての話ですね。
「わけのわかんないもの」を作ってもダメですよ、と。売れませんよ、と。
編集者と作家の「2人だけのセカイ」で作品を作るんじゃなく、あと何人かの“視点”を導入して“複眼化”する、と。
作品を書く前の段階で。



 文体ほど誰も読んでないものはない。だからといって、文体の良さを捨てる必要はまったくない。ただ、文体の良さに時間を掛けることができる、その余裕をどうやって調達するかというだけの話です。だから面白い物語を作ればいい。単純にそう思います。ただ、その時に、文体の良さこそが、それだけが我々の売りなんだというロジックがありますね。純文学は文体だ、エンタメは物語だ、みたいな二分法。蓮實重彦氏が広めたものですが、今ではそれは自滅のロジックです。

これは不意打ち的に蓮實氏批判なワケで、まぁ、ちょっと複雑な気分ではあるんですが、“今では”ということでもあるので。
映画における“文体”とは、画面の質ということですよね。流れる時間に沿って(フロー)構築されていくものが“物語”だったり“物語の構造”であり、それとは対照的な関係にある、(ある意味では受け手によって切り取られる)あるシーン/カットの質感(色やらデザインやらなんやら)が、文体。
ということでいいのかな?

あ、もちろん、演技/演出のスタイルもそうですね。
無言劇だったら、その“無言”って部分が文体。モノクロ作品なら、その“モノクロ”って部分が文体。



平野 小説の登場人物の話でいうと、彼についての関連性が分かりづらい情報が次々と与えられる時、読書体験が豊富な人は、それらにアクセントを付けながら、自分なりに、一つの人物像へと統合していけるかもしれないけど、なかなか難しいと思いますね。物語全体に関してもそうで、複雑多岐に亘る情報が書き込まれると、それらをリニアにつむいで、一本のプロットを描き出す能力が誰にでもあるわけではない。
そういう時に、登場人物の内面を奥に向かって複雑に掘り下げていくパースペクティヴと、プロットを前進させるパースペクティヴとは、互いに干渉し合ってしまう。片方が強まると片方が弱くなってしまうんだとしたら、個々の登場人物のキャラクターを類型化するというのは、小説の深さをある意味、外挿しつつページを前に進める工夫ということになるんだと思います。さもなくば、前進するプロットのラインを物凄く濃くしないといけない。

「内面を奥に向かって掘り下げていくパースペクティヴ」というのは、一般的には“文芸作品”とか“アート系”なんて呼ばれるものに多い、と。だいたいそういうことでいいと思います。ジャームッシュの「デッドマン」とか(もうかなり忘れちゃったけど)、分かりやすいアレだと、ウォン・カーウァイの「ブエノスアイレス」とか「楽園の瑕」とか。この間見た「父、帰る」とか、ですね。
で、「プロットを前進させるパースペクティヴ」っていうのが、ストーリーをドライヴさせること。

主人公の男が、恋人の女の子に思いっきりビンタされる、という描写があるとします。
その、ビンタされた瞬間、という描写の次に、なにが(作家によって)語られるか。
主人公の心理、例えば「えー? なんでビンタなんかされるの? ていうか痛い! 冬にビンタは痛いよ! 思ったより力あるし。ていうかなんで怒ってんの? この間の浮気がバレたのか? なんでバレたんだ? 携帯のメールみたのか?」とか、まぁ、雑な喩えで申し訳ないんですが、こういうのが「内面を奥に向かって掘り下げていくパースペクティヴ」。
ビンタの後に、例えば、主人公から走り去っていく女の子を描写するのが、「プロットを前進させるパースペクティヴ」。カットバックして、主人公の浮気現場を目撃したという回想が挿入されたり、走り去ってからまた走って戻ってきてとび蹴りをくらわして、そしてまた走り去っていく、そしてそれを主人公が追いかけていく、というような描写が続く、とか。

で、当然、この2つの“パースペクティヴ”というのは、常に共存してるワケですが、同時には存在しないワケです。映画なら同じ瞬間に存在する可能性もあると思いますが、小説では、基本的にはない。
一行目の次は絶対に二行目しかなく、二行目と三行目を読者は同時に読むことはできないからです。
従って、そのつど、どちらの“パースペクティヴ”を採用するか、というのが、作家の“感覚”やら“技量”やら、つまり“才能”だったりするワケですね。

で、「内面を掘り下げていくパースペクティヴ」をある程度放棄して、テキストをとにかく「プロットを前進させる」ことに費やす、という。平野さんの「個々の登場人物のキャラクターを類型化する~」という部分は、そういうことを言ってるワケですね。

ちなみに、この、類型化されたキャラクターというデータベースを参照しつつストーリーを前にドライヴさせる、ということは、東さんの「ゲーム的リアリズムの誕生」に詳しいです(俺もこれを読んで色々納得させられ、勉強させられました)。



平野 小説を読ませる一番強い力って、やっぱり「知りたい」っていう欲求だと思うんです。ただ、行き先が提示されてないバスに乗る人はいなくて、やっぱり行き先が見えているからこそ乗るわけですね。そういう意味では、話がどこに行くかが適度に示されつつ、でも絶妙にそれが確定しないような感じで先延ばしされていく時に、人はページをめくるんだと思います。


平野 文学も含むアートって、複雑に考えていった時にアウトプットも複雑になりがちだと思うんです。
 同意見です。複雑なこと考えてもアウトプットは単純、というのでいいと思う。だからこそ、小説家はまずプロットで勝負するべきだと思うんですよ。
平野 同感です。要約できない文学の方がいいって言う人がいますけど、間違っていると思う。
 それはたいへんな倒錯だと思う。本当に知的なのは要約されて生き延びる小説の方ですよ。文体は要約できないけどプロットは要約できる。その伝播能力は凄い。それで改めて思うけど、ドストエフスキーはやっぱりプロットが強力なんですよね。
平野 強いし、切り方がまた巧いんですよね。日本の小説は、海外で読まれようと思った時、文体は大半が失われますけど、プロットというのは文化的な差異をかなり逞しく超えていきますね。神話が広まったのはそういうことでしょう。ちょっと前までは、物語批判の文脈で、プロットが強いと説話論的な還元に屈するみたいな感じで全否定されていたけど。
 説話論的還元で全然OKですよね。説話論的に還元されるからこそ人は読む。
平野 音楽のメロディというか歌に対応するのが、小説のプロットだと思うんですよ。どんなに馬鹿にしても、メロディの強い曲の方が聴く人は多いというのは現実ですよ。
 音楽でMP3が出た時に、というか既にLPがCDになった段階で、音楽マニアは「これじゃ音楽の良さは分からない」とか言っていた。けれどもいまや着うたですよ。しかしたとえどれほど音質が悪くても、メロディが良ければ人は聴いてしまう。そこれそが音楽の力です。文体にこだわってるのって、その点で再生の音質とか環境にこだわってるというのと凄く似ている。

“プロット”とは、言葉のまま、話の筋。ほぼ“ストーリー”という言葉とイコールだと思います。(ただし、「物語」という言葉には色々と大きな意味合いが付加されて使われることが多いので、ここでは、より狭義の言葉である“プロット”という言葉が使われているんだと思います)


ちょっと前にこのブログでも紹介した平野さんの講演録では、「ストーリーとはラーメンの麺である」と言っていましたが、ここでは「メロディーである」と。
音質が悪くてもメロディーが素晴らしければ、人はその音楽に耳を傾けてしまう、と。


う~ん。

なるほど。



しかし、「素晴らしいプロット」を紡ぐことができるかどうか。
それはまた別の問題なワケで。。。


そして、そこに苦心している俺、と。



う~ん。


苦しい。

0 件のコメント:

コメントを投稿