2010年1月6日水曜日

ジェイムズ・エルロイの交錯する三つのプロット

さて、“プロット”という言葉から、昨日の続きのようですが、今日はちょっと違う内容です。


ジェイムズ・エルロイの「ビッグ・ノーウェア」の文庫本の解説が、興味深いテキストだったので、ご紹介。
書いているのは、法月綸太郎さんという方。
以下引用でっす。

***
エルロイは最近のインタビューの中で、「私は執筆前に綿密で長いアウトラインを書き出して、執筆中にそれをダイアグラムとして利用するんだ」と述べている。
複雑巧緻を極めたエルロイのプロット作法の秘訣は、この「ダイアグラム」という表現に集約されていると言っても過言ではない。
ちなみに、ここでいう「ダイアグラム」的なプロットは、複数の事件が同時多発的に進行するモジュラー形警察小説のスタイルと似ているが、エルロイの場合は複数の経路が最終的に一本に合流するという点で、明らかにそれとは一線を画しているようだ。
やはり3人の警官の三人称・複数視点を採用し、さらにマスコミ報道という視点を加えて、いっそう物語のスケールと複雑さを増した「LAコンフィデンシャル」を経由して、「ホワイト・ジャズ」では再び一人称の語りに戻るが、プロットの「ダイアグラム」性は文体にまで深く浸透して、そこで描かれる「おれ」の人物像は、複数の情報=欲望を束ねた多重回線ケーブルのような存在となっている。

こうした「複数の経路」に基づくプロット構成は、エルロイ自身が抱えていたトラウマの克服と恐らく無関係ではないだろう。
そもそも精神分析による無意識の発見は、「意識」という情報処理装置のバックグラウンドで稼動するより演算速度が速い(あるいは遅い)別の情報処理装置の存在の発見として解釈できる。私たちは一つの情報を、常に同時に複数の経路を通じて処理する。したがって演算結果も複数出てくる、それら諸結果が互いに矛盾し衝突することにより、ヒステリー症状や夢内容や失錯行為が生じる。
東浩紀「サイバースペースは何故そう呼ばれるか」

したがって、エルロイの小説がしばしば「悪夢のような」様相を呈するのも、当然のことなのだ。

***
エルロイをエルロイたらしめているプロット構成上の“個性”が、作家自身のトラウマの克服の体験と無関係でない、というのは、実は興味深い指摘。

テーマやキャラクターにだけでなく、プロット構成にすら「個人的な体験や記憶」が投影される、と。
逆説的に言うと、「作家は投影して良い」ということでもあるワケですが。

抑制する必要はないのだ、というか。



綸太郎さんは、こんな風にも書いています。

***
アミダくじのように平行する3本の線が衝突し、すれ違い、紆余曲折を経て一本に交わっていくプロセス、複数の経路をたどる人物と情報の流れそのものが、意外性に富んだ迷路のようなストーリーを形成していくわけである。
原理は非常に単純素朴なのだが、これがエルロイの手にかかると、絶大な効果が生まれる。3人の手持ち情報のすれ違いが、もどかしさとサスペンスをもたらし、それぞれの情報がある契機から一点に向かって収斂していく際の連鎖反応的・爆発的なカタルシスは凄まじい。

***


凄まじい、と。


まぁ、凄まじいんですけど。特に「ビッグ・ノーウェア」は。



というワケで、年明けから「LA四部作再読」という荒行を自らに課してしまった愚か者の俺でした。


でわ。



0 件のコメント:

コメントを投稿