2010年4月26日月曜日

「第9地区」を観る

週末に、新装してから実は始めて行った新宿ピカデリーで(すげー綺麗だった)、「第9地区」を観る。


いやー。
どう書こうか正直悩んでしまいまして。

実は、うっかり、宇多丸さんのシネマハスラーのこの作品のレビューを聴いてしまいまして。
普段は、影響されちゃうんで(されやすいんです。ハイ)、ポッドキャストでも“いい作品”の時は敢えて聴かない、という姿勢でやってきたんですが、うっかり聴いちゃったんですよねー。
作品を観た後、なおかつ、自分の感想をここに書く前に。


まぁとにかく、いい作品だった、と。
それは間違いないっす。

で、「どう良いのか」と。


俺なりの感想というのがですねー。宇多丸さんのレビューに影響されちゃってですねー。
なかなかスッと書き出せません。

ので、良い作品だったワリにはやや低体温な感じになっちゃいますが、そこら辺の前提を踏まえていただいて、ということで。



まずは、練りに練られた構成、というトコですよね。
伏線、というか、「作品世界の背景を説明している」ように受け取っていた部分がとても巧くストーリー上の伏線として機能していたりとか、その伏線が見事に回収されていく、とか、とにかく、ストーリーやプロットの練り方が素晴らしいです。
単なる「荒唐無稽なSF」ではない、なんていう常套文句がありますが、なんていうか、この作品に関しては、この“練り具合”にも、ちゃんと、この手の賞賛の言葉が使われる必要があるのだ、と。
そこがまず一点、ですね。

まず、冒頭の「ドキュメンタリー形式」の部分。
ここで、各々のインタビューの途中で「実は、既に“事件”が起きたあとで、このインタビューはそれを振り返っている」ということが分かるんですね。
そうやって、短いスパンでの"フック”で、まず「おっ?」なんてことになるんです。
まず、掴む。

そういう部分がねー。
いちいち上手ですよ。

宇宙人の姿をちゃんとは見せない、というのもそうだし、見せても、なんか動きがぎこちなかったりして、とにかく「変な感じ」というか「不快な感じ」でずっと見せていって、後半部分では、そういうのが無くなっている。

この、技術的な"フック”が、ちゃんとシナリオとかプロットとかと結びついているんですね。ただ「やれることをやってみました」とか「ここまでしかできませんでした」ということではなく、作品のメッセージやテーマに対して、カメラやギミックが寄り添っている。
個人的に好きな言葉を使えば、フィードバックされているんです。視覚効果が、明確に、プロットを補強する役割を務めている。
これはですねー。
難しいんですよ。
簡単そうで、なかなか出来ない。

ここが「すげー練ってある」というトコですね。
どう作ったら「テーマが伝わるか」というテーゼに対して、この作品を構成するありとあらゆる要素が貢献している、というか。
貢献している、というか、機能している、ということですね。

やっぱり、「映画は総合芸術」なワケで、いろいろな要素で成り立っている映画の、その要素それぞれが、作品本体のテーマに対して、強力に作用している。

これはやっぱり、凄いです。



あとは、なんていうか、受け手に要求されている「リテラシー」というか「事前知識」が幅広い、という所もポイントかもしれません。
観る側が、自分の頭の中にあるいろいろなアンテナを刺激される、というか。
特に、映画のような「成熟した表現」の世界では、この、「いろんなモノを使って受容する」ことの"快感”っていうのがあると思うんですよね。
自分が持っている「知識の引き出し」や「感性のアンテナ」の、いろいろな引き出しが引き出され、いろんなアンテナに受信してしまう、という。



まー、あとはなんですかねー。


作品のテーマとしてまずあるのは、「加害者としての人類」というところですよね。これは、当然「アバター」と同じなワケですが、こちらの作品の方がより踏み込んで、「劣悪な種族としての人類」ということを描いていますよね。

人類と宇宙人との関係性において、最後の最後まで、宇宙人のために動く人類、というのは存在しないワケです。この作品では。
とにかく人間たちは、私欲で動き、徹底的に利己的であり、暴力的であり、無知であり無恥であり、なんていうか、「理性的でない」ワケです。

この作品において、知性や理性を携えて振る舞うのは、エビの親子だけですからね。(もう1人(一匹?)、殺されちゃう黄と黒のエビがいますけど)

さらに、“愛情”についても、人間サイドではほとんど描写されません。唯一、主人公と奥さんとの間の愛情が描かれますが、エビの親子が持つ(と、描写される)"親子愛”は、描写されません。(一応説明しておくと、男女の愛は、より"利己的”な愛なワケですね。対して親子愛というのは、博愛じゃないですが、"無私”のモノではある、という違いがあります)

この「道徳的な差異」については、宇多丸さんも言ってましたが、観る側の我々をもそこに巻き込まれちゃう、ということが起きてるワケです。
前半部分、ホントにダメな宇宙人たちの姿が延々と描写されることで、彼らに銃を向ける人間たちに感情移入してしまう、という構造になってる。

そこから、後半、親子愛や知性・理性を発露しながら、エビの親子が動き始め、主客が、倒錯とまではいかないものの、ズレるワケですね。

で、「人類から追われる人間」と「人類から迫られるエビ」が共闘して、という展開になり、そこにカタルシスを発生させる、という。
そういう構造。


まー、でもねー。



とにかく、「差別する側の論理」の描写がエグいですよ。ホントに。
なんせ舞台は南アフリカ(ヨハネスブルグ。監督の出身地)ですからね。

当然、アパルトヘイトのメタファーとして受け取られるワケです。
同時に、アメリカの黒人差別や、ユダヤ人の迫害史、(逆に)パレスチナ人の現状、などなどのメタファーなワケですが、ここで、とにかく「何も考えていない人間」が差別に加担してるんだ、ということの描写が、ね。

前半の主人公の振る舞いの描写っていうのは、なんていうか、のちのちに教科書として使えるぐらいの感じかもしれませんよねー。


この点でポイントなのは、実は「名前」なんですね。
エビにつけられた名前。

人間風の名前がつけられているワケです。
この、「名前をつける」ということが"差別”であり"迫害”なワケです。エビにはエビの言語があり、そこでは、エビたちの名前があったハズなのに、それを奪って人間風の(しかも、いかにも白人風の)名前をつけて、それで呼ぶ、という。


なんていうかねー。
この「無知であることの暴力性」っていうんですかねー。

エグいっスよ。この辺は。



あと、最初のプロットの巧さについてですが、人間たちが、多国籍企業と黒人のギャングたちという、二つの勢力に分かれていて、その両方に追われる、という展開も上手だと思いました。
ジェットコースターみたいにハイテンポで進んでいくトコも。


作品の中で、主人公がとにかく落ち着かない人間で、まぁうるさいし落ち着きがないしって感じで、ホントに最低の人間なんですが、ま、このハイテンポのシナリオで撮るなら、そういうキャラクターになるのかなぁ、なんて。




それと、あの、エビたちの化学兵器ですが、あれはですねー。
知能の低いエビたちも使い方を知らない、ということなんですよねー。多分。
あるいは、価値を知らない、というか。

違うかな?



まぁ、他にも、この作品の凄さを語る言葉はいろいろあると思いますが、その、語り切れない部分も含めて、良い作品だな、と。
傑作!

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