2010年6月10日木曜日

橋本忍伝承脚本術

新聞に、シナリオライターたちをめぐる、みたいな感じの連載コラムが載ってまして。 ま、連載自体はあんまり面白くなかったんですが、橋本忍さんの回は、かなり良かったので、ここに、個人的なアーカイブという意味も込めて、抜き書きですが、残しておきたいな、と。
橋本邸で連日向き合った山田洋次に、橋本忍は言った。 「人間の集中力はそんなに続かない。シナリオをイメージする時間は数分間だろう。一休みし、また集中する。原稿用紙をニラんで他のことを考えるのはいい。だけど鉛筆だけは離さない方がいい」 才能は要らない、忍耐力だ、と橋本は言った。山田は眠たくなっても鉛筆を離せなくなった。
これは、書くときの心構えの話ですね。弟子である山田洋次に、こう言った、と。 「だけど鉛筆だけは離さない方がいい」 そして、次は、どう書くかという内容についてのアドバイス。
橋本直伝の脚本のコツに「順番とリズム」がある。一つひとつのシーンをどうつなげていくか。正しい順番がある、と中島丈博は叩き込まれた。 等間隔ではいけない。トン、トンと重ねたら、観客が思う次のシーンより先へ飛ぶ。トン、トン、バーンだ。飛び過ぎるとついてこない。どこまで飛ぶか、数式では計れない─。
順番とリズム。 なるほど。。。 「トン、トンと重ねたら、観客が思う次のシーンより先にへ飛ぶ」 トン、トン、バーン。 これは、シーンごとの話なんだ、と。 順番か。。。 ちょっと意識して書いてみよう、と、こういうアレには極めて安直な人間である俺は、思ったのでした。 

2010年6月8日火曜日

「ワンダーボーイズ」を観る

月曜日の映画天国で、意外にオールスターキャストだった、「ワンダーボーイズ」を観る。

監督はカーティス・ハンソンってことで、これも意外ですが、面白かったです。


とりあえずメインキャストをザッと並べてみると、マイケル・ダグラス、トビー・マグワイア、フランシス・マクドーマンド、ロバート・ダウニー・Jr、ケイティ・ホームズ、と。

マイケル・ダグラスといえば、名作「トラフィック」での共演で、“絶世の美女”を実際に娶った、という“豪傑”なワケですが、この作品では、スランプに陥っている作家を、いい感じのくたびれ具合で好演。
ダウニーJrは、ゲイの編集者で、トビーに惚れちゃう、という。
「ファーゴ」の署長さんだった彼女は、今回は大学の学長さん。というより、マイケル・ダグラスの不倫相手で、しかも、相手を振り回す役どころ。
ケイティ・ホームズは、まぁ、超キュートなんですが、主人公のマイケル・ダグラスを、これまた誘惑しようしたり、振り回したり、という。


というか、こう書いただけで、なんだか楽しそうな雰囲気かもしれません。
タイトルの“ボーイズ”は、主人公以下の「アホな、子供みたいな男たち」ぐらいの意味ですかねぇ。


アメリカの映画の、こういう、いわゆる文芸作品みたいなジャンルの作品で、実は、けっこうこの「作家」という職業が登場するんですよねぇ。
たいていの場合、なんかの事情があって、書けない(スランプ)。
で、“相棒”として、編集者が出てくる。
あと、「作家」は、やたらモテる、という。


この作品も、そういう“定形”みたいなのは、しっかり踏襲してます。


う~ん。


面白さをどういう風に書いたらいいんですかね~。
ちょっと悩みますが。。。


まず、シナリオの、プロットがちゃんと練られてあって、文芸系にありがちな「ボーッとした感じ」じゃないんですね。結構、動く。
構造とか要素だけ抜き出したら、いわゆる普通のコメディみたいな感じなのかもしれません。

ただ、そういう空間に、「文学の世界に生きるキャラクター」たちが入れ込まれていることで、ちょっと違う雰囲気が薫ってくる、という。

舞台が、大学のキャンパスとその周辺の街、ということになっていて、これもいい感じに機能しているのかもしれませんね。
東部(ピッツバーグ)で、雪が積もっている季節。


あと、やっぱり、俳優陣の演技が良い。
演技っていうか、雰囲気ですかね。
ちゃんとみんな、キャラクターになってる。生きている、というか。
これはホントに、演出サイドの腕なんだと思います。


う~ん。


とにかく“雰囲気”がいいんだよな~。
それに尽きるのかもしれないなぁ。

よく練られたシナリオ。キャラクターを生きている俳優陣。
スクリーンに雰囲気を作ることに成功している演出。

そういうことなのかなぁ。。。


他に巧い言葉が見つからないんだけど。。。


まぁ。。。
結末としては、作家は書けるようになり、作家志望のトビーは夢を掴みかけ、ゲイの編集者は仕事の行き詰まりが解消され、愛情は回復し、ケイティは超キュートのまま…。

これも、定形っちゃ定形なワケです。大円団。


そして、これがニクいんですが、最後の最後に、PCが出てくるんですね。そこで「save」と。データのセーブ。
そこまでは、ずっと、タイプライターなんですよ。

ラストで、「新しい生活」が、愛情とともに始まっていて、それを「save」する、という。
これ、捉えようによってはかなりダサいんですけど、でも、いいワケです。
最後の最後に、グッとくる。

映画全編を通して浸っていた「いい雰囲気の空気感」が、ラストに、「いい感じ」で締められる、という。
これはこれで、かなり幸福な映画体験だと思うワケです。
何も、カタルシスだけが映画じゃないハズですから。



うん。



こういう作品を、こういうオールスター級のキャストで撮れる、というのが、まぁ、映画産業の懐の深さ、というんでしょうかね。
豊穣さ。
素晴らしいと思います。ホントに。



2010年6月7日月曜日

「ザ・プロフェッショナル」を観る

TBSのダイアモンドシアターで、ジーン・ハックマンの「ザ・プロフェッショナル」を観る。 原題は「heist」ってことで、意味は「強盗」だそうです。 タイトルの通り、プロの押し込み強盗の話。 まぁ、面白かったんですけどねー。 とりあえず、オープニングが超カッコいいです。 宝石店に強盗に入るんだけど、その手前、カフェから始まるんですね。 これが超クール。 このシーンで登場する女の人がもっともっと活躍すんのかな、なんて思ってたら、思ってた程ではなかったですね。 いや、活躍はしてるんですが、なんていうか、“いい感じ”じゃないんですよねぇ。彼女の良さというか魅力みたいなのが引き出されてる演出ではないっス。 というかですねー。 そもそも、主人公がジーン・ハックマンじゃなくてもいい、というかねぇ。 他のキャラクターもそうなんですが、あんまり“ハマってない”気がするんですよねぇ。 この作品は、シナリオが凄い練ってあって、ディテールもそうだし、プロットも何度も“裏返し”があって、とても巧いんですが、キャラクターたちがどうもイマイチ。 なんつかーねー。 陰影がないっていうか。 もちろん、クライムストーリーなワケで、そんな“人生の陰影”みたいなのは描く必要はない、という“筋論”もあるかとは思うんですが、それなら、別にハックマンじゃなくてもいいんじゃねーの、と。 もうちょっと若い人をキャスティングして、もうちょっとスピード感を、ね。 動きのある画、というか。 もちろん、ジーン・ハックマンみたいな大御所を据えて、「年寄りが引退を賭けて焦っている」みたいなニュアンスは、一応シナリオの中にも盛り込まれてはいるんですが、なんかねー。 微妙に中途半端。 ちょっと弱いんですよね。 別に、他の動機でも十分成立する話だと思うし。 実際の犯行のシークエンスとか、すげー面白んだよなー。 なるべくカネを掛けないようにして、でもちゃんと「航空貨物便の強奪」として撮れてるし、そこら辺は凄い上手なんだけど。 そういう部分は、ディテールもちゃんと作り込んであって。 その、“ディテール”っていうのは、プロットの部分、ですね。シナリオの、紙の上の部分の話。 画の質感は安っぽくって、B級感が滲んじゃってるんだけど。 だから、なんか勿体ないなー、なんて。 若い俳優さんで、もっとカメラを動かして撮れれば、もっともっと「こういう作品を観てほしい層」にちゃんと届いたんじゃないかなぁ、なんて。 どうも、そこら辺がしっくり来てない感じがするんだよなー。 どうもなー、と。 そういう作品でした。 面白かったけどね。 

2010年6月6日日曜日

姜尚中さんの書評より

新聞の書評欄に載っていた、姜尚中さんの書評。 韓国映画について書かれた「韓国映画史」という本の書評です(姜さんが書かれた本じゃありません。韓国で出版されて、それを翻訳した本について、姜が書評を書いて紹介している)。
それにしても、韓国映画はどのジャンルであっても、なぜこうもメロドラマ的な哀調を帯びているのか。私の中にずっとくすぶり続けてきた疑問だ。だが、それも本書を読んで氷解した。メロドラマ的な感傷は、植民地と内戦、分断と軍政という、過酷なまでの歴史によって強いられた二律背反的な感情の発露だったのだ。 他律的であるしかない主体が世界に対して抱く無力感と混乱、葛藤と煩悶。 ただし、そのような感傷的な悲哀の情は、他方では、現実を直視する力強いリアリズムの精神を形影相伴っている。その精神は、今でも、若手監督の作品を含む実に多くの作品に流れているのである。
「メロドラマ的な哀調」に「現実を直視するリアリズム」が同居している。 というより、むしろ、リアリズムが「メロドラマ」をより強固にしている、というか。 日本での「オタク文化」を研究の対象(あるいは、ベース)にしている大塚英志さんや東浩紀さんの本を読むと、特にマンガ・アニメ(及び、その近接ジャンルであるゲームやライトノベルその他)の“想像力”について書かれていたりするワケです。 そういう日本の“想像力”は、日本の社会の成り立ちや内包している歴史に因っている、ということが書かれていたりするワケですが、姜さんによれば、韓国の“想像力”も、やはり韓国の社会の成り立ちや歴史に因っているんだろう、と。 まぁ、アニメその他の通奏低音である「肥大化した自意識」も、やはり日本という社会の産物であり、というか…。 いや、話が逸れてますね。 韓国映画が持つ「メロドラマ的な哀調」について。 なるほどな、と。 メロドラマ的哀調、か。 確かに、もう今の日本の“想像力”からは、生まれてこないモノなのかもしれませんね。 そして、だからこそ、今の日本には韓国映画を受容するマーケットがある。 特に「泣き」についての「リアリズム」ですよね。 日本だと、「泣き」をプッシュしようとすると、どうしても“ファンタジー”の方向に飛躍してしまう。 それを容認する“想像力”が、作り手にも受け手にもあって、まぁ、それが心地よかったりするワケで、だからこそそういう作品が量産されるワケですが。 逆に、「リアリズム」に振ろうとすると、日本では、そこに「哀調」が同居しない。 “乾いたタッチ”になっちゃう、と。「それこそがリアリズムである」みたいな、ね。 例えば、是枝さんみたいな監督は、妙に湿ったリアリズム、というのを作り出すことが出来るワケですけど。 そっかー。 メロドラマ、ね。 メロドラマって、物語の大きさでいうと、ちょうど中間ぐらいの大きさなんだよね。 “国家”とか“戦争”とか、そういう、スケールの大きい話。 “愛”とか“恋”とか、“死”とか、個人個人の心の中の話という、小さな話。 その、ちょうど中間ぐらいの話。 “家”とか、ね。 “家族”。“組織と個人”とか。 う~ん。 まぁ、俺なりに分析しようとしてもぜんぜん進まない、という所が、なんていうか、ある限界を示しちゃってるのかなぁ。。。 なんつって。 まとまらない話を長々と書いてもしょうがないので、この辺で。 でわ。 



2010年6月5日土曜日

「断絶」を観る

邦題よりも“断然”原題「Two-Lane,Blacktop」の方がクールな、「断絶」を観る。

まぁ、ニューシネマ期の名作、ということでいいんですかね。

改めて、ということなんですが、作品については特に改めて感想っつーのもないかなー。


どうなんでしょうか。


もちろん、個人的には凄い好きな作品で、要するに、この「ぼんやりとした絶望」をぼんやりと描く、と。
個人的にも、こういう作品を自分で作る、ということに凄い憧れるワケですが、同時に、「この手の作風に憧れることの罠」みたいなのも、この時代に生きている限り、もうイヤというほど知ってるワケですね。

逆に、だからこそ憧れるワケですけどね。


う~ん。


こういう作品を観ると、“展開”とか“構造”とか、あるいは“テーマ”とか、そういうのに囚われているんだよなぁ、ということを感じるワケですよねぇ。
受け手も作り手も。


なんていうか、「作品を作る」という行為が何を拠り所にして進んでいくか、という問題だと思うワケです。
「映画を製作する」というプロジェクト自体が、どこを目標に進んでいくか。その目標というのは、作品に“根拠”を持たせることで獲得するワケです。

五里霧中の中を、スタッフ・キャスト(と、日々費やされる予算)と一緒に進んでいく、ということは、これはとても困難なワケですよね。
その、プロジェクト全体の設計図となるのが、シナリオなワケですが、プロジェクトを強化するためには、脚本を明確にしていくことが必要なワケです。
一概に「売るため」じゃないんですね。「わかりやすい脚本」というのは。


「明確な脚本」に因ってプロジェクトを進んでいくのと、もう一つある方法論は、監督が無理やり周囲を納得させながら作っていく、ということですね。
アート系作品は、だいたい、この方法論。(監督じゃなくて、プロデューサーとか、主演俳優とか、そういう人の場合もありますけど)

この作品は、いわゆる「アート系」ではありませんが、しかし、そういう方法論の、最高峰、ということですね。
「断絶」という作品は。


あくまで個人的なアレですが、俺は「イージーライダー」よりもこっちが好きです。
女の子の最後の感じがあんまり好きじゃないんですが、エンディングもいいし。

あと、この作品は色のタッチが好きなんです。ただ自然に撮ってるだけなんでしょうけど。
西部から東に進んでいくにつれて、道の回りの風景が平原から森の中に移り変わっていく感じとか。町の雰囲気も変わるしね。



まぁ、いいですよねぇ。
名作だと思います。



う~ん。


こういう作品が好きなくせに、俺が自分の車を持ってない(というより、免許すらもってない)、というのは、なんていうか、映画を志す人間としては、結構な欠陥なんだよなー。。。



2010年6月3日木曜日

「ウォッチメン」を観る

公開当初、各方面で話題になっていた「ウォッチメン」を、DVDを借りてきて観る。


いやぁ~。
なんて書けばいいのか、ぜんぜん分からない作品でしたが、まぁ、観ました。



とりあえず、実は個人的には、公開に合わせて出版されていた原作コミック(の、日本語翻訳版)を買ってたんですね。(アメコミ、結構好きなんです)
ワリと高くて、何げに勇気がいる買い物でしたが。


で。
その、「原作込みで」ということならば、これはもう素晴らしい作品だと思うワケですよ。
こんな難解な、長大な(普通に、物理的に、話が長い)コミック作品を、よくもまぁ、映画という表現形態で表現しきったな、と。
これはホントに、凄い。

冒頭の、世界観の部分を一挙に説明してしまうシークエンスとか、ホントに最高だと思うんです。あの曲と何分かの映像で、観てる側を一気に持っていく、ということでは。

キャラクターの雰囲気も、もうすべてのキャラクターが完璧に近いし(フクロウ型のマシンもね)。



ただ。
原作抜きで観たらどうなんだ、と。
コレは、相当大変だと思うんだよなぁ。



例えば、“重み”は全然違いますが、これって「キン肉マンの実写版」なワケですよ。
しかも、「王位争奪編」だけの。


アメコミっていう言うぐらいですから、アメリカでは、それこそ“古典”かもしれませんが、俺らにとっては、ね。なかなかそう簡単にはいかないワケで。


まず、「マスクを被ったヒーローたちが活躍する」というバックボーンがあるワケです。アメコミには。
その上で、それをメタフィクション化してるワケですよね。「そういうヒーローたちが現実にいる世界」という虚構がまず提示され、そのうえで、という構造になってる。

俺としては、原作コミックと、その中で読める膨大な量の解説と付記とがあって始めて、何となく理解できる世界観なワケですよ。


ヒーローが現実にいたとして、なおかつ、彼らの活動が非合法化されている、という世界。
しかも、“現実に”、正真正銘の“超人”が一人だけ存在している、ということになっているワケですね。放射線実験の失敗によって誕生してしまった、全身真っ青で全裸の男が。
しかも、ヒーローたちには、二つの世代があって、その関係性というのが設定されているワケです。(原作では、映画よりももうちょっと、この関係性が生む葛藤みたいなのが多く語られて、もっとややこしくなってます。映画では、描かれているのは、ほぼ、母と娘の衝突だけになってますが)


とにかく、そういう世界観とか諸々の表現、というのは、完全に成功してるワケですよねー。
凄い。ホントに。


だけど、と。
現代にそれを為す、という意味とか、それこそ、現代性とか、そういうトコは、疑問。
テーマというか、結末というか、メッセージというか、そういうのもちょっとぼんやりしちゃってる印象なんですよねぇ。
「で、なに?」というか。


こういう結末とか話の筋っていうのは、俺らは、それこそ「鉄腕アトム」の時代から、もうずっと消費し続けてるワケです。
お馴染みなワケですよ。

アメリカの、(原作が発表された)あの時代に、という意味性やそのインパクトということで言うと、「どうっスか?」と。

「やってみた」だけじゃねーの、というか。


う~ん。

だから、面白いっちゃ面白いんですけどね。
でもね、と。
「よくできてる」ってだけじゃ、それこそアラン・ムーアも納得しないんじゃねーのかなー。



と。
結論としては、そういう感じなんですよねー。


他に言葉が見つからない、というか。
原作のことを書いてもしょうがないしねー。




というワケで、この辺で。
でわ。



2010年6月2日水曜日

理論家、三宅裕司。

宇多丸さんのラジオ番組に、なんと、三宅裕司さんが出演してまして。


「お笑い論」をテーマに、かなり濃密なトークを繰り広げていました。
いわゆる“お笑い”というジャンルだけでなく、もっと広い「表現論」としても刺激的な内容だったんじゃないか、と。

前編
後編

三宅裕司っていう人は、この“業界”でも屈指の理論家でもあって、普段はそういう面を(俺が知る限りでは)殆ど見せないんですが、まぁ、肉薄する宇多丸さんに応えて、かなり突っ込んだ話をしてますよねぇ。

ざっとキーワードだけ並べてしまうと…


「素に戻って突っ込む稽古」
「殴ると思ったら殴んないのかよ」というリアクション
アドリブだと感じると、お客さんが喜ぶ。
しかし、それを再現しようとすると、絶対に、スベる。お客さんには伝わってしまう。
誰でもできるワケじゃない。
重く見せるのは、簡単。稽古をすれば良い。芝居がうまくなる。重くなる。
コメディは、重くなってはダメ。「いま起きているように」演じる。
「ストーリーの設定」・・・物語。
緊張感をチャージする装置としての物語(ストーリーの設定)。
役者がもともと持っているモノを発見して、それを「ストーリーの設定」の中に入れ込んであげる。
「見つけてあげる」「設定に入れ込んであげる」「押し込む」。
間=緊張感をチャージするための時間 「息を吸わせる時間」
落とす=吐く 「笑い=一度に息を吐く時間」
緊張感→思ってもいない展開、落差。落ち。
「ちゃんとした作りモン」
大勢で一緒に笑う、という体験。相乗効果で、面白いことがもっと面白くなる。
「そこに持っていくまでの設定」話の流れ。ストーリー。


という感じでしょうかね。ま、ぜひ聴いてみて下さい。前後半合わせて、たっぷり一時間っス。



あと、三宅さんっていうのは、「理論家なんだけど落語家にならなかった演者」という意味でも、稀有な存在、というか。

この人は、音楽もやるし(実際にジャズのビッグバンドを率いている。パートはドラム)、映画も詳しいし、なにより、本人自身のセンスもすごくって(あと、“笑い”の腕力も)、そういう、「理論」だけじゃない部分が、ね。
劇団・一座を率いて“笑い”という頂点に導いていく能力(リーダーシップ? カリスマ性?)も含めて。
耳を傾ける価値がある人物の一人だと思います。



興味深いのが、タカ&トシについて。
志村けんがタカトシを評価してるワケです。自分の番組で横に置いたりして。

三宅裕司も、タカトシを自分の手元に招いていた時期があった、と。

となると、俺らは、タカトシの“佇まい”を通して、志村けんや三宅裕司の“思想”みたいなのを垣間見ることができる、というか。



まぁ、永久保存版としたいっス。