2011年12月31日土曜日

フィクションが現実に凌駕されてしまった年

えー、2011年も終わります。

今年は、このブログはホントにまったく更新できず、つまりそれは、映画を殆ど見ていない、ということでもあるワケで、ホントに後悔の残る形になってしまいました。

原因ははっきりと分かっていて、それはやはり、震災のこと、ですね。



春ぐらいには、そんなに引きずらなくて済むんじゃないだろうか、なんて思ってたりもしたんですが、まぁ、ダメでした。
一応“物語作家”の端くれ(でもないんですけど)として、色々なことを頭の中で考えているうちに、どうにもこうにも浮き上がることができずに、ついに、年末に至る、という…。


作品(シナリオ)も、一応書いてみようとはしていて、実際に書き上げた作品もあったんですが、まぁ、なんていうか、あんまり納得のいく感じにはついにならず、という。

これは、ひょっとしたら年齢のせいかなぁ、とも思うんですが、その、体力というか集中力というか、そういうのが、明らかに落ちてまして。
ダメなんですよねぇ。




ま、グダグダここに言い訳を書いていってもホントにどうしょうもないんですけど。



うん。




改めて書くと、フィクションが「現実の無慈悲さ」に凌駕されてしまったと思うんですね。
NYのツインタワーが崩壊してしまった、あのテロ事件のときも、やっぱりそういうことが言われ、実際に自分も“そういう感覚”に襲われたんですけど、今回の震災とそれ以後、というのは、原発のことも含めて、ホントに色々なことを考えさせる、というか、頭に刺さって、それがずっと残っている、というか。



その、自分がなにか力になりたい、とか、作品を通じて東北にメッセージを、ということでは、全然ありません。
そういうことではなく、ホントに単純に、1人の人間として、俺がこのことを“消化”できていない、という、そういう話です。



実際に「映画を見る気になれない」という感覚もありましたしね。



もちろん、どうすればよいのか、ということも重々承知していて、つまり、この壁を乗り越えるためには、フィクションを書き続けていくしかない、と。
(あくまで、俺は、という話です。他に色々方法論を持っている人はいるワケで、それはそれで、尊重されるべき“覚悟”なハズで、それはそれ、です。)


やっていく、書いていくしかない以上、やるしかないワケですけど。



より強い物語、より強度のある世界観を掲示していかないと、「3.11」以降のこの現実の世界には意味が通らない、という、それは、ある種の命題というか、もはや単なる前提、というか。



自分のスタイルとして、というか、こういう形で書いている人間として、自分が納得していないモノを書いてもしょうがないワケで、そこのトコの覚悟を、年末という、「ひとつの区切り」としてある意味では分かりやすい“ポイント”を、“ピリオド”としてステロタイプ的に利用する形で、改めて自分の肝に銘じよう、と。


うん。

今は、そう思っています。




とにかく、来年は、映画をまたたくさん見たいです。ホントに。



これは偶然のタイミングの一致なんだけど、今年と去年は、本(書籍、雑誌、漫画)にやたらお金と時間を使ってたんですよ。
「週刊江戸」という、いわゆる分冊モノのシリーズを買う為に、毎週本屋に通ってて、それで「いい機会だからな」なんつって、とにかく本を買いまくってたので。

2012年は、もうちょっとそっちの出費を抑えて、映画を、それも、なるべく映画館で映画を観るように、と。


このブログも、更新します。


作品も書きます。


書くだけじゃなくって、撮りたいなぁ、なんていう気持ちもありまして。
ホントは、今年(2011年)に作品を撮ろう、なんて思ってたんですが、ぶっちゃけ、お金がねー。
ボランティア行ったりなんだりで、“在庫”がなくなってしまい…。


とにかく撮る、なんてことで、もう「自作自演」でもいいか、ぐらいの気持ちになってます。
一番単純なスタイル、ね。
自分で出て自分で撮る、みたいな。

もうそのくらいのアレでもいいから、一本作品を形にしないとマズいな、ぐらいの気でいまして…。



えぇ。
焦ってます。



ホントにねぇ。




来年は頑張るぞっ!





グダグダですが、今年の締めは、もうこれで終わります。


あとは来年!




良いお年を!

2011年12月15日木曜日

「ゴモラ」を観た

シャレオツな渋谷・青山のイメージフォーラムで、「ゴモラ」を観た。

 一部で結構話題になってた、イタリア産の作品で、イタリア版の「仁義なき戦い」だ、とか、そんな言葉もありましたが、いや、良かったです。
個人的には、ちょっと違う感じを予想してて、やや裏切られた、というか、まぁ、作品が良かったんで、別にいいんですけどね。 あんまり予備知識を入れないまま観にいったんですよねぇ。

原作があって、それも本屋さんで見かけたりはしてたんですが。

 なんていうか、もうちょっと“様式美”みたいなのを使って暴力を描くのかなぁ、とも思ってたんですが、全然違って、いわゆるリアリズム描写(リアル“に”描写する)、ということになると思うんですが、単にリアリズム、というだけでなく、目線を徹底的に低く、という、そういう意味でも(リアル“を”描写する)良かった、というか。

 しかし、これは良く思うんですが、この手の作品/この種の作風で作られた作品、というのは、ホントに世界中で作られていて、それこそ世界中で受容されている(需要がある)んだなぁ、と。

 手持ちの揺れるカメラ。対象に接近して、肉薄していくカメラ。黒味を強調した(陰を消さない)ザラザラしたタッチの画質。
登場する俳優たちも、顔は汚いし、汗はそのままだし、だいたい、着てる服も汚いし、という。


 で。


 ストーリーの構成は、三つのエピソードを平行して描く、という形。
三つのエピソードが絡み合う、ということではなく、平行して、並列に並んだまま進んでいきます。
最初、ここに戸惑ったんですけど、ま、別にこれはこれでいいですね。


 この作品が、単なる“バイオレンス描写”だけにしていない理由のひとつが、現代性、という部分。
 ストーリーのそれぞれのエピソードでは、犯罪組織と個人の対立が描かれていくんですね。
個人、というより、個人の“人間性”というか、まぁ、そういう、ただの対立ではなく、「内面を踏み荒らされる」ことに抗う個人、という感じなんですけど。

で。
その背景に、グローバリゼーション、というのがあるんです。

 犯罪組織自体も、より大きな“何か”に、経済的領域を脅かされている。 
なんていうか、別に犯罪組織に限らず、ある種の牧歌的な“組織”にも、この、グローバリゼーションというのは、競争を強いるワケですよ。
組織も、そしてその組織の周縁に暮らす個人も、その“新しい環境”に、新たに適応することを求められる。
 そこで産まれる暴力、というのが、この作品で描かれている暴力であって。

 もう1つが、犯罪組織にさえつま弾きにされてしまう人間の姿、というのが描かれている、と。
犯罪組織さえも「既得権益層」として振舞うワケですね。弱く孤独な個人、つまり、“弱者”の前では。
 ここは、個人的には結構ツボ、というか。

 犯罪組織の中での階級(階層)闘争、とか、組織同士の抗争とか、そういうのとは若干違う視点が、この作品には導入されている、と。
まぁ、これはあくまで個人的な感想ですけど。 
なんていうか、「同じパイを喰い合う」モノ同士の暴力、ではないワケですね。


特に、仕立て屋のエピソードは、そのまま日本に持ってきても全然成立する、というか、ホントに優れたアレだなぁ、と思うんですけど。
中国人の(恐らく、違法移民の)労働者たちから「マエストロ」なんて呼ばれて、という。

この、経済構造の変化が、実社会に物理的に変化を強いていて、それを凄い巧くストーリーに落とし込んでるよな、という部分は、この作品の良さだと思うし、つまり、ただの「暴力映画」じゃないんだ、ということだと思うんです。

産廃業者のエピソードも、南北格差、あるいは都市と田舎の格差、という、イタリア国内の経済格差を背景に語られているワケで、特に、最後の、若者が罵声として浴びせられる「ピザでも作ってろ!」というセリフは、ホントに刺さるモノがありましたね。

その辺の、つまり作品の持っている“深み”の部分というのは、多分原作の力に因るモノなんでしょうけど、でも、それを損なわないでしっかり作品のバックボーンとして成立させている、というのは、ホントに作り手の意思と“腕”を感じますね。

手前の、より表層的な、カメラワークとか暴力描写にもしっかりこだわりながら、そういう“深み”についても、意図的に切り捨てることなく、かといってそこにフォーカスし過ぎることもなく、しっかりと、複数のエピソードで出来ている作品全体の背景にあるものとして読み取らせる、という。


うん。

 構成力もそうだけど、ホントにここは、作り手の手腕なんじゃないかな、と思います。


 あ、あと、これは、イメージフォーラムっていう劇場で観たのも良かったのかもなぁ。
あそこ、雰囲気あるから。 それもコミで、良い作品だったな、と。 そういう結論ですね。



 

2011年9月21日水曜日

文学の力

新聞に、ノーベル文学賞受賞者の作家のインタビューが掲載されてまして。
印象的だったので、ここでご紹介。
作家というのは、マリオ・バルガルリョサさんという、ペルーの方で、御年75歳。
個人的には不勉強なもので名前もぜんぜん知らず、当然作品も読んだこともないんですが、文学が持つ力について、印象的な言葉を残しています。

東京大学での講演テーマは「文学への情熱ともうひとつの現実の創造」だった。
文学が描き出すもう一つの現実には私たちすべての願望が入っており、現実の世界に足りないものを教えてくれると語った。


「文学を楽しみのためだけのものと見なすのは誤りで、文学は私たちに現実の世界がうまく作られていないことを教えてくれる。
批判的な精神を養い、権力に従うだけではない人を作るから、いろいろな体制のもとで、支配したい人たちは文学に不信感を持つのです。」


「文学は偏見への最大の防御になる。
言葉のおかげで私たちは分かり合うことができ、過去の人たちがどう考え、どんな夢があったのかを知ることができる。
文学は人間に共通のものがあることを示し、時間や空間を超えた連帯感を生み、肌の色や言語、宗教などの壁を超越できる視点をもたらす。」


「私たちの世代は、作家は自分の時代に関わらねばならないとするサルトルの考えを深く心に刻んでいた。」


「良い文学は生きるための助けになる。障害を乗り越える力を与えてくれ、人生の一部になる。」




“文学”には、現実と切り結ぶだけの力があるのだ、と。
逆に言うと、そういう力のないものは、文学ではないのかもしれませんね。


ただの製品、プロダクト、というか。


ま、それはさておき。



「もうひとつの現実」を文学の機能性として提示する、と。

そして、そこから戻ってきて、「現実の世界」と切り結ぶ、と。そのフィードバックを実際に生み出すエネルギーこそが文学の“力”なんだ、と。


恐らく、そういうことなんだと思います。




なるほどなぁ、と。


そう思いました。

2011年8月14日日曜日

三池監督のインタビューより

今日の新聞に、三池崇監督のインタビューが載ってまして。
せっかくなんで、ここにアーカイブしておこうかな、と。


「十三人の刺客」は以前撮った「クローズzero」のようなケンカ表現を、今時希少な時代劇の枠組みでやると、どんなものが出来るかという発想でした。新しいものを求めたら、結果として古いものに行き着いた。
50年前なら「昔、悪い殿様がいました」という一言で、観客自身が物語を創り出していけた。でも、今の観客には、悪いヤツはどう逸脱しているか、どこが壊れているのかを丁寧に作っていかないと伝わらない。
例えば、稲垣吾郎さんが犬喰いするシーン。あれを入れることで、何かが過剰で、何かが欠落した人間の奇怪さと孤独を、あからさまに見せられた。
稲垣さん自身も、普段、いろんな制約がある人だから、演技することで殻を破る快感があったと思う。
今の僕らにとっては、武士たちの距離感や非情さはグッとくる要素もあるんです。「十三人の刺客」で、集められた侍たちが役所広司さんに「将軍の弟を討つ」と打ち明けられる。今の人間なら驚きますよ。「えっ」とか「そんなあ」とか。
ところが、武士はノーリアクション。そのまま受け止めるしかない。「使い捨てにいたす」と言われても、黙って平伏するだけ。



「一命」は若い夫婦の話ですが、「本音ぶっちゃけシーン」は入れませんでした。幸せも愛も、今のような概念としてはなかったはずですから。
映画なので、エンターテインメントの要素はゼロにはしないですけど、江戸時代に生きた人たちへのリスペクトは欠かないようにしたい。そいでないと、時代劇を作る意味がない。
江戸時代の人はみんな、何も起こらない日常を過ごしていたと思うんです。そして、ある日病にかかって簡単に死んでしまう。何も起こらないけど、ドラマチック、ひどく不自由で不便だけれど、人生とがっちり組み合っている楽しさがあった。


 「刺客」と「一命」ですね。


実は(恥ずかしながら)まだどちらの作品も観れてないんですよ。。。


面目ない。。。


特に「十三人の刺客」は、絶対に観たい作品だと思ってますんで。。。




えぇ。


観たいです。


観ます。必ず。






2011年6月7日火曜日

宮城県石巻市八幡町




復興は、まだその途についたばかりでした。。。





2011年5月26日木曜日

再び行って参ります

ぜんぜん映画のことを書けていないこのブログですが、今日もあんまり関係ない内容です。




明日からまた、災害ボランティアとして宮城県石巻市に行ってきます。
まさしく「ハートロッカー」の世界になってしまいましたが、おそらくこれが最後になると思います。

期間はまた一週間の予定で、今回も、前回と同じNGOに所属して、ということで。


前回は、ボランティアのメンバーで組むチーム(ひとチーム6人)のリーダーを務めたんですが、今回は、そのリーダーの役割もないので、まぁ、“一兵卒”って感じですかね。


泥/ヘドロや瓦礫の撤去が主な仕事になると思うんですが、まぁ、自分なりに頑張ってこようと思っています。



前回行った後は、二度目に行くことにはあんまり積極的ではなかった、というか、「なにか東京に居ながらできることを探してみよう」なんてことも考えてたんですが、どうも“不完全燃焼”感というか、「もうちょっと出来たんじゃないのかなぁ」とか、まぁ、いろいろモヤモヤしてたのもあったりして。

ただ、そういうのは些細なことで、基本的には「まだまだボランティアのマンパワーを必要としている」と。

であれば、行こうかな、と。


ワリと、そんな単純なアレです。


もちろん、ボランティアの人員がGWに急増して、その後に急減するんだろうなぁ、というのはなんとなく見通していたので、ちょうど谷間にあたる、この時期に、ということで。

(夏休みになったら、またボランティアの人員も増えるんじゃないかと思っています。というより、皆さん、ホントにマンパワーを必要としてる場所/状況なので、特に若い方は、ドンドン行ってみてください!)





しかし、アレだなぁ。。。
今年、まだ映画は数えるほどしか観てないんだなぁ。。。
映画館では、「TRON」しか観てないし。。。




帰ってきてから、たくさん観ます。



そして、自分の作品も書かなければいけません。。。




えぇ。
帰ってきてから、です。





とにかく、行ってきます。






でわ。

2011年5月5日木曜日

苦肉の策

えー、映画について書く、という主旨でやっているこのブログですが、ホントに最近映画を観れてなく、更新もまったく途絶えてしまっています。
お恥ずかしい限りで…。


一応、自作の作品を書こう、ということで、諸々の“準備”はしているんですが、「テンション待ち」みたいな状態が続いてまして…。
こちらに関しても、お恥ずかしい限りでございます…。





と、いいワケばかりなワケですが、今日のエントリーは、昨日の新聞に載っていた記事のご紹介。
映画とはあんまり関係なくって、上記の「言い訳」の“回答”にもなっていないんですが、一応、アーカイブしておく、という目的もこのブログにあるので、ご容赦下さい。


記事は、ミュージカルの「レ・ミゼラブル」。
そう、あの、アレです。


観たことないけど。



その「レ・ミゼラブル」の、超ロングランだった公演が閉幕する、ということだそうで。


全編を歌でつづり、回り舞台による流れるような場面転換で、長大な物語を一気に見せる作劇。シリアスな内容、鉄の塊のような装置、貧しい人々の群像…。様々な意味で「レ・ミゼ」は、明るく楽しいという一般的なミュージカルのイメージからは外れる。
「レ・ミゼ」はイギリス版をそのまま日本語で上演する契約だ。もちろん歌も。このことが、スター中心で人気を集める東宝の舞台作りを変えた。「難曲を歌う技術があり、役柄に合った声の人。それがイギリス側が示したキャスティングの条件でした」。初演から歌唱指導する音楽監督補は振り返る。
全役オーディションをしたが歌唱力のある俳優はまだ少ない。さらに、東宝の専務によれば「1人で演じるのは週8回が限度。でも上演権料の高さを考えると11回やりたい。苦肉の策で複数キャストにした」との事情もあった。
厳しい条件をクリアできる俳優を大勢集めねばならない。選考は難航。「スターを見せる」商業演劇の常識は崩れざるを得なかった。
鹿賀丈史、滝田栄、野口五郎、岩崎宏美、鳳蘭らの出演は決まったが、ダブル・トリプルキャストには、実力はあるが知名度は高くない俳優が起用された。
これが結果として、作品の精神と同調した。
「レ・ミゼ」はバルジャンの物語ではあるが、対立するジャベールの存在も大きいし、薄幸の女たちや学生ら登場する誰もが同じ重さの人生を背負っている。
音楽でも、バルジャンとジャベールが同じ曲を歌ったり、主役級のナンバーと小さな役のそれが同じだったり、誰もが相対化されている。スターも新人も対等な作品なのだ。
稽古前に、時代背景から歌まで様々なことを学べる「エコール」が開講され、出演者の実力は上がる。出番を得て無名の俳優もファンを増やす。多様な顔合わせが生まれ、それも観劇の楽しみになる。
スター主義を排すことで新しいスターが育つ。この循環が「レ・ミゼ」の活力になった。「主演者の比重が大きい作品と違い、柱が9人くらいいる。だから何人かは大胆な起用ができる」と専務は言う。



いい話だなぁ、と。




「育てながら勝つ」というのは、映画とはまったく関係ない、「ヨーロッパ・サッカーのクラブチーム」内で語られたりする言葉ですが、まぁ、そんな感じで。



うん。



いい話だなぁ、と。


「ああ無情」ね。



ウチにもありましたねぇ。
児童書というよりは、もうかなり大きくなってから買ってもらったのかなぁ。
大判で、厚さも物凄くて、ホントに枕みたいな本でしたねぇ。
「巌窟王」だったか「三銃士」だったか、確か二冊一緒に我が家にやってきたんですよねぇ。

妹と弟と三人で、なんでもボロボロになるまで読んだワケですけど。



いつか俺にも子供ができたら、買ってあげたりするんだろうなぁ、と。




そのときにはぜひ、読み返してみようと思いました。




あ、あと、ミュージカルも、ね。
いつかは観てみたいものです。
えぇ。



2011年4月23日土曜日

逆回しとスローモーション

えー、ちょっと(この手の音楽に)馴染みがない人には微妙なアレかもしれませんが。。。

ある、個人的にも大好きな、ラッパーの曲のPV、です。
「この場所で会おう」というタイトルの曲。





内容は、都会をサバイブする男女のブルーズ、という感じなんですが。。。

カッコつけていうと、「都会をサバイブする戦士たちの休日」とか、そんな感じ。



で。


この“ブルーズ感”を、スローモーションと逆回しの映像で、かなり上手に表現して、まぁ、なんていうか、「いいなぁ」と。

もちろん、逆回しじゃない部分の映像も完璧で、特に、バーカウンターを背にして、客たちの囲まれてマイクを握ってるショットが個人的には最高なんですが、とにかく、そういう部分も巧くて、いいですよね。
雰囲気が最高。




で、最後に、ちょっとしたアイデアを思いついちゃいまして。。。


逆回しのシークエンスで、最後に軽く、ホテルの廊下を歩くショットがあるんですが、なんか、「最後にそこで本人がくるっと振り返って、前を向いて歩き出す」っていうヤツです。



面白くないですか?



ずっと逆回しで引っ張ってきて、最後にそこだけ、同じようなアレかと思いきや、くるっと振り返って、普通に前を向いて歩き出す。。。



なんか、演出的な意味を付加させることもできそうだし、パッと見のインパクトも結構あるんじゃないかな、なんて。。。


意味的には、夢現(ゆめうつつ)な感じとか、輪廻転生じゃないけど、ちょっとしたループ感の画像上の演出とかにも使えそうだし。。。




と、アイデアを引き出してくれた、という意味でも、良いPVだと思いました。
普通にいい曲だっていうのもありますけどね。




うん。



今日はこんな感じです。
でわ。

2011年4月18日月曜日

帰投しました

やや報告が遅れましたが、宮城県石巻での災害ボランティアから、(一週間前に)帰って参りました。


「被災地の現状」は、使い古された感のある言葉になってしまいますが、やはり「想像を超えた」もので、本当に「瞼にこびりつく」というのはこういうことを言うんだと思います。
個人的には、阪神・淡路大震災の現場にも赴いたことがあるので、多少は“覚悟”というか、耐性みたいなのもあるかとは思っていたのですが。


もちろん、被災者の方々は、大震災の揺れを身体で体感し、その後の惨劇を体験なさっているワケで、俺が受けた衝撃なんてのとはまったく比較にならない、という話ではあるんですが。



一応、このブログは、映画の感想なんかを書いていくモノなので、それに引き付けて書くと、昨年話題になった「ハートロッカー」(傑作でした)に近い、という表現だと分かり易いでしょうか。


目の前に広がる市街の様子がまさしくそういう感じだった、というのはもちろんなんですが、もうひとつ、
あの「意味深なラスト」が、今の自分の心象に、ものすごく刺さってくる感じがしています。



震度6強というかなり強い余震を現地で体験したことや、計6人のチームを束ねる「チームリーダー」の役目を担った、ということもあり、ごくごく短い期間ではありましたが、まさに「ハートロッカー」を地でいくような体験をしたような気がします。



不謹慎/不道徳を承知で敢えて書けば、表現者の端くれとしては、貴重な体験をしたワケですが、しかし、これを「自分の表現」に落とし込む(あるいは、昇華させる)のは、ちょっとまだ難しそうな気がしています。
かなりの時間と手間と、覚悟が必要だなぁ、と。
今の所は、まだ、そういう感じです。




さて。


個人的な話はさておき、やはり「未曾有の大災害」ということで、before/afterで、人々の想像力/受容力、あるいは単に感性は、ここで決定的に変わってしまうんだ、という言説があります。

「表現」はここで大きな変化の時を迎えているのだ、と。
同時に、逆に「以前とまったく変わらない振る舞いをすること」が表現者には求められている、と言われていたりもします。



特に「オタク評論」のフィールドでは、「オタク的表現は大きな衝撃を受けた」「変わらざるを得ないだろう」ということが、いち早く指摘された気がします(気がする、というだけのことだとは思いますが)。


オタク的表現の世界に限らず、やはり、ありとあらゆる表現の世界において、その想像力と受容力、あるいは創造の条件は、変わってしまったのだと思います。
変わってしまった“世界の理”に沿って表現を立てていくのか、あるいは、“世界の理”に逆らって「変わらない何か」の存在を伝えようとするのか。
それは、各々の表現者がそれぞれの立場・思想・方法論・手段で実践していけばいいのだと思います。
どちらでも、それは正しいのだと思います。



ただ、その前に、ひとつ思うことを書いておこうと思います。
それは、16年前に、やはり人々を襲った大きな震災があった、ということです。


ひょっとすると、いま「東京に暮らす自分たち」が受けた「想像力に対する衝撃」を、16年前の関西に居た人たちは、あの時に体感していたのかもしれません。
(あの年には、東京ではオウムのサリン事件があったのですが…)




大震災とオウムがセットで語られる16年前のあの年と、大震災と原発危機が今後セットで語られるであろうこの年とが、なにか、相似形のように感じられます。




あまり意味のあるようなことを書けていませんね。。。



今日のエントリーは、このくらいにしようと思います。



大事なことは、「大きな災厄があった」と。

そのことを、忘れないことだと思っています。




なんか中途半端ですが、この辺で。
でわ。


2011年3月31日木曜日

というわけで

明日から一週間の予定で、宮城の石巻へ行ってきます。

災害ボランティアとして、です。



当初の予定、というか、個人的な希望からはちょっとズレて、今回は組織(NPO)が組織するボランティアグループの一員として行ってきます。

本当は、もうちょっと、個人的な、というか、一個人として活動できるスタイルで行きたかったんですが、もちろんそんなことは“現実”を考えればどうでもいいことなので。

今回は、ピースボートという組織に率いられて活動してきます。








ピースボートの方針で「ボランティアは一週間で必ず帰す」ということなので、本当は10日間ぐらい活動していたかったんですが、一週間で東京に帰ってきます。9日の夜に帰ってきます。


明日から4月だっていうのに、東京でこの寒さですから、宮城の寒さはもっと厳しいハズで、そこに野営をするので、そこの防寒云々が一番心配ですが、まぁ、頑張ってきます。

微力ながら、復興を助けてきます。




頑張れ東北。頑張れ宮城。




でわ。

行って参ります。

2011年1月28日金曜日

「トロン:レガシー」を観た

新宿バルト9で、噂の3D「トロン:レガシー」を観た。



いやぁ、3D。凄かったですねぇ。
なんつっても、大画面ですよ。3Dですよ。


実は、前作「トロン」は、見てないんです・・・。


だけど、CMで観せられたシーンに心を鷲掴みにされちゃって、公開を楽しみにしてたんですよねぇ。
あの、リングを(フリスビーみたいに)投げるショット。


ただ、フタを開けてみると、もちろん、そのリングでの戦闘シーンは熱かったんですが、バイクに乗って戦うシーンの方がメインだったみたいで・・・。

それはそれで、良かったんですが(3Dの特性を生かしている、という意味でもね)、リングのバトルももっと観たかったなぁ、なんて。


ま、いいんですけどね。



映像は、仮想現実の世界観というのが、ちょっと殺風景過ぎるっていうか、どうも単調になってしまって、もちろん作り手側の意図としては、それが狙いなんでしょうけど、そこがちょっとアレでした。
もっと派手でも良かったんじゃないかなぁ、なんて。



ま、前作との世界観の繋がりもあるんでしょうから、しょうがないっちゃしょうがないんですけど。



3Dに関しては、もうバッチリ。
リングとかバイク(の、光跡)という“飛び道具”も、バンバン効いてて、良かったです。




で。


ストーリーについてで、ちょっと面白かったトコがあって。


作品のストーリーは、ざっくり言ってしまうと、若い主人公が、「仮想現実世界」に旅立って消えてしまった父親を追って、自分も「仮装現実世界」に入っていく、という話なワケです。

そこで、父親と対面する、という。


ここで、いわゆる“定番”のハリウッド・スタイル(というか、アメリカのスタイル)だと、「父親と息子」の対立が描かれるハズなんです。

「父越え」は、アメリカ映画の、通奏低音の1つとして、色んな作家が、それこそゴリゴリの商業ベースのハリウッド大作でも、インディペンデント作品でも、繰り返し語られているストーリーの形であって。


ところが、この作品では、主人公自身は、父親と、感情的には色々あっても、話の流れの中で“共闘”することになるんですね。


これが、ちょっと面白かったです。



実は、その「仮想現実世界」というのは、父親が“創造主”となって作り上げた世界なワケですけど、そこに、“創造主”の代理人として、自分の“分身”を作るワケですね。

「仮想現実世界」ですから、当然、“創造主”がプログラムを書くワケですけど、「仮想現実世界」では、プログラムが擬人化(一応、そういうことにしておいて下さい)されて、“人格”を持った“身体”として、現れる、と。

で、その“代理人”が、暴走している、という話なワケです。
ストーリーでは。


“代理人”である“分身”が、暴走していて、つまり、“創造主”に反逆している。だから、父親は「仮想現実世界」の中に閉じ込められてしまっているんだ、と。
そういう話なワケですね。

息子は、そんな父親を、助けに来た、と。



で、この“分身”というのは、つまり、“創造主”の“息子”でもあるワケです。
“創造主”に作られたワケですから。



主人公からみたら、そいつは、実は「自分の弟」というか、そういう存在でもあって。



ストーリーの中で、“分身”は、「仮想現実世界」を「完璧な世界にするように」という使命を、プログラミングされているんです。
「そのために働きなさい」という命令を受けて、その世界に生まれた存在。

しかし、“創造主”は、生身の人間なワケで、つまり「完璧ではない」と。

従って、「完璧な世界」を造るためには、「生身の人間」である“創造主”自身を排除しなければいけない、と。

このパラドックスを、背負っているワケです。“分身”は。


つまり、敵役である“分身”が、「父越え」のストーリーを背負っているんですね。

この構図は、ちょっと面白かったです。


父親を奪い合う兄弟の物語。



主人公は、長い間父親が不在のまま育った、ということで、なんていうか、愛情不足じゃないけど、そういう、若干の「実存不安」みたいなのに陥っていて。
「父親を奪還する」というタスクを負うことで、それを克服する、という物語があるワケですけど、まぁ、そういう、親子愛の物語。


そして、パラドックスを背負わされてしまった“分身”の、「父を殺す」物語。





ストーリーの本編自体は、最後はなんか粗さが目立つ感じではあったんですが、でも、3D大作だし、こんな感じで良いんじゃないかな、なんて。



うん。




ま、映画館の大画面で観ないと意味がない、とまでは言いませんが、ぜひ3Dで、ね。



味わって欲しいな、と。






ちなみに、音楽はダフト・パンク。(本人たちも出演してます)

音楽は、最高でした。
ホントに。
世界観にバッチリはまってて。


その、音楽の感じも含めて、楽しんだなぁ、と。
そういう作品でした。















2011年1月25日火曜日

ミクロコスモス

ちょっと前ですが、かなり衝撃的なニュースがありました。
http://www.asahi.com/science/update/0115/TKY201101150246.html
米カリフォルニア州の砂漠デスバレーの2万2千~3万4千年前の岩塩の中に、単細胞の微生物が生存しているのを、ニューヨーク州立大の研究チームが見つけた。これほど古い生物が生きた形で見つかったのは非常に珍しい。
この微生物は、掘り出された岩塩に閉じこめられた塩水滴の中で見つかった。栄養を与えて最大90日間培養したところ、900の試料のうち五つが成長した。そのDNAを調べたところ、古細菌と呼ばれる生物の仲間で、高い塩分濃度の環境を好む特徴を持っていることがわかった。
塩水滴に残っていた緑藻が栄養源になったり、体の形を小さな球状に変化させて「休眠モード」状態になったりしていたことで生き残れたらしい。

ヤバくないスか?
“休眠モード”とか、明らかに言葉のチョイスが狂ってますが、そういう、ボキャブラリーを狂わすぐらいの衝撃的な大発見だ、ということですからねぇ。

しかし、「岩塩の中に閉じ込められていた」って、凄いな。。。
栄養を与えたところ、生き返った、ということですからね…。




そういえば、最近、この手の細菌/微生物関連で面白いニュース(発見)が幾つかあったりしたので、ちょっとまとめておきます。
http://www.47news.jp/CN/201012/CN2010120201000622通.html
通常の生物にとっては有毒なヒ素を生命活動の根幹となるDNAに取り込んで成長できる細菌を発見したと、米航空宇宙局(NASA)などの研究グループが発表した。
地球上の生物は主に炭素、酸素、水素、窒素、リン、硫黄の6元素でつくられており、これらは生命活動に不可欠と考えられている。だが、この細菌はリンをヒ素に換えても生きることができるという。
研究グループは米カリフォルニア州にあるヒ素濃度の高い塩水湖「モノ湖」に生息する「GFAJ1」という細菌に着目。
ヒ素が多くリンが少ない培養液で培養すると、リンが多い培養液よりは成長は遅くなるものの、細胞数が6日間で20倍以上に増え、GFAJ1はヒ素を取り込んで成長することを確認した。


NASAが「重大発表をする」という前フリをしてかなり話題になったニュースですが、要するに「ヒ素の中でも生きることができる」と。
そういう生物がいる、というだけで、これはかなりの大ニュースなんだ、と。
そういうことなワケですが。

ちなみに、炭素の代わりにケイ素で構成された生物、というのは、ワリとSFの世界ではポピュラーで、まぁ、確か「2010」にも木星(か、土星)の衛星に棲息する生物が、という描写があった記憶があります。
もちろん、我らが弐瓶勉先生の「BLAME!」には、その名も「珪素生物」という敵キャラが登場します。(ちなみに、弐瓶氏の「BIOMEGA」では、冬眠状態の微生物が発見され、水を与えると再び活動し始める、というシークエンスがあります)



もうひとつ。
http://www.asahi.com/science/update/0125/TKY201101240556.html
「農業」をする粘菌が見つかったと、米ライス大学の研究チームが発表した。
エサとなる細菌が少なくなると、食べ尽くさずに一部を体に取り込んでから別の場所に移る。移動先で体内の細菌をまいて、新天地で細菌が増えるのを待って食べるという。
この粘菌は、「キイロタマホコリカビ」。
新天地を目指して移動する時には、それまでバラバラに動いていた数万の細胞が寄り集まって、ナメクジのような形になる。移動先で胞子をまいて繁殖するときに、胞子を包む袋の中に取り込んでいた細菌も一緒にばらまく。

いまいちピンとこないかもしれませんが、要するに、粘菌が、自分の餌となる細菌を、“栽培”して増やしてから食べる、と。
そういう話ですね。
これも相当ヤバい発見ですよねぇ。

農業というより、遊牧に近いですけど。

しかし、本来は食料である細菌を「いったん体内に取り込んでから別の場所に移動する」って、それだけでもかなり高度。
で、移動した先で、「自分の胞子と一緒に細菌もばらまく」と。
そして、その場所で「細菌が増えるのをまって、その細菌を食べる」と。

う~ん。

よくよく考えると、何段階もの高度なステップを踏んでるワケですよね。
「体内に取り込む」(全部食べない)
「良い場所に移動する」
「胞子と一緒に細菌をバラまく」
「細菌が増えるのを待つ」

なんつーか、粘菌に「時間の感覚」っていうのがあるのか、と。

まずここが疑問。
「待つ」っていうのは、そういうことですもんね。


あと、「残りが少ない」とか「十分増えた」とか、そういう、外部の状況(細菌がたくさんあるかないか)をどう認識してるか、という部分。


というか、「残り少ないから全部食べない」っていうのは、はっきり言って、相当知的なアレですよ。
だって、殆どの動物は、目の前の“餌”は全部食べますからね。

うん。
そう考えると、この「農業」はそうとうヤバいです。





というワケで、恐るべきミクロコスモスの話題でした。
でわ。

2011年1月4日火曜日

「ディープ・エンド」を観る

新春ってことで、毎年この時期はテレビで大量に映画が放送されてたんですが、今年はあんまりない、という状況の中で、いつもの「映画天国」で、「ディープ・エンド」という作品を観る。


まぁ、作品名も知らず、俳優陣もほぼ知らず(ERのコバッチュ先生が出演してます)、という状態で、あんまり期待しないで観たんですが、なんていうか、独特な味、というか、不思議なタッチとストーリー展開で、結構満足してしまった作品でした。


舞台は、カリフォルニア州の、タホ湖(「レイク・タホ」という単語は、ワリと色んな作品に出てきますね)の湖畔の小さな町、です。
というより、湖畔に建っている主人公一家が住む家が、主な舞台。

主人公は主婦で、旦那は海軍の軍人で、「船長をしている」みたいなセリフがあるので、まぁ、中流家庭なんですが、その中でも上の方、ですね。中の上。
で、旦那は一切登場せず、不在のまま、です。この“不在感”は非常に大事で、「一人で家庭を守る主婦」という、そういう感じ。
子どもが三人と、旦那の親父、というのがいて、5人で、田舎なんだけど、湖畔の大きくて綺麗な家に住んでる。

で、長男が思春期で、大学進学の問題もあってちょっと難しい時期で、というのに加えて、なんとゲイで、しかも“よからぬ男”と付き合っている、という。
この、「長男との関係に問題を抱えている」という“前フリ”の語り方が上手で、まぁ、強引っちゃ強引なんですが、話が始まる前に、その息子はすでに「交通事故を起こしたばかり」ということになっているんですね。
「交通事故」って、結構大きなトピックなワケで、普通なら、この手のシークエンスを中心に語りたくなるワケですが、この作品では、サスペンスに使うこともせず、かなり潔くバッサリ削っています。
「事故があった」ということだけが、母親と息子の間に、大きな刺として残っている、という状態から話が始まる。
個人的には、この語り口は面白いと思いました。


で。
長男の“恋人”という男が現れ、そいつが、何の因果か、死んでしまう。
勝手に。(事故死、ということです)

しかし、と。

母親は、そうは思わないワケですね。「息子が殺った」と。そういう勘違いをして、死体を隠したりとか、色々する。(このシークエンスで、一度沈めた死体に、もう一度自分が泳いで会いにいく、というシーンがあります。ここも面白かった。)

で、ここでようやく、“悪役”が登場して、「ゲイの息子」のことをネタにして、恐喝しにくる男が現れる、と。
後半は、この“悪役”と主人公との間の関係性や、二人の心情の揺れ動き、みたいなが描写のメインになるので、まぁ、作品自体のテーマもここにあるワケですね。

つまり、“死体”とか“犯人探し”とか“犯罪隠蔽がバレる”とかは、実はあんまり主題ではない、と。

「サスペンスの衣を借りた人間ドラマ」なんですね。
ここがキモ。
要するに、この“塩梅”が非常に良い、と。
そういう作品でした。


強請にくる男が、揺れるワケですね。
諸々事情があって、男がポツンと家の中に置いてきぼりにされてしまうんですが、その時に、主人公の女性が「護ってきた」家庭、というのに触れるワケです。
その価値を知る、というか。

ここの演出は、浅いと言ったら確かに浅いんですが、半面、ストーリーの流れを損なわない形で、役者の演技に頼りかかりながらも、短い時間で「分かる人には分かる」形で、上手に描写されている。

そこまでの、単に「主人公は三人の子どもを抱える母親である」ことの描写に過ぎなかったことが、ここで、少し意味合いが変わるワケですね。
「そういうのを知らないまま育った人間もいるんだ」と。

ここで始めて、そういう“別の角度”が掲示される、と。

と。


で、ここで「父親の不在」の意味も強まるんですが、その「強請にきたチンピラ」が、「不在の父親の代替」みたいな感じになる。
逆に言うと、チンピラが「父性に目覚める」というか。


まぁ、そういう感じに話が展開していくワケです。

この感じは、ストーリーに派手で分かりやすい起伏がある、ということではなくって、まぁ、かなり地味ではあるんですけど、いいな、と。
人間ドラマ、ですから。
ね。



ただ、「諸々事情があって」と書きましたが、そこのシークエンスに関しては、ちょっと不満です。
偶然に依りすぎ、ですね。
もっと「チンピラの正体を知らないまま話している最中に何かが起こって~」とか、そういう風になれば良かったのになぁ、なんて。
あんなに偶然いろんなことが母親の身に降りかかるか、と。

そこは、ね。
ちょっとイマイチ。

必然性を持たせることは、十分可能だったと思いますね。
作品の構造上、他のもっと大事な部分で“偶然”に依る必要があるワケで、そうである以上、他の部分では偶然性は排除していかないと、と。

まぁ、あくまで玉に瑕、という感じですけど。



演出面では、おそらく監督の好みか、あるいは他のメッセージがあるのかは分かりませんが、ひたすら“水”をイメージさせる演出が繰り返されます。
湖畔、という舞台を強調する為なのかはちょっと分からないんですが、湖面、湖底、プール、「水球」、水槽、釣りゲーム、蛇口の水滴(このショットはかなりクール!)、水面に反射して揺れる光、などなど。
もう徹底してますね。

おそらく、そこに対しての、後半の「赤い車」と「赤いコート」ってことだとは思うんですが。
感覚的には分かるんですが、強い意味合いまでは、ちょっと分かりませんでした。

まぁ、シンプルで綺麗な画だった、と。
それは間違いないっス。


というより、あの舞台だよなぁ。
ロケーションの勝利、という感じはあります。間違いなく。


あとは、シナリオの巧さ、と。



そういう作品でした。



あ、あと、ちょっと思ったのが、こういう恐喝とか、あとは詐欺なんかもそうなんでしょうけど、その手の「犯罪の現場」っていうのは、いわゆる「裏社会にいる人間」と「普通に暮らす人間」が交わる場なんだな、と。
別に、こう書くと極めて普通の、当たり前のことなんですが、なんか、改めてそんなことを思ってしまいました。
普段は別々の世界で暮らしている人間同士が交錯する場、としての、犯罪の場。

自分の創作のヒントになりそうだな、なんて。

まぁ、それはさておき。




小品ながらも雰囲気の良い、佳作だと思いました。

そういう感じで。
でわ。