2014年12月26日金曜日

「インターステラー」を観た

クリストファー・ノーラン監督の新作「インターステラー」を、クリスマスにイオンモール内のシネコン、Tジョイ京都で観た。


C・ノーランは、まぁ、言うまでもないことですけど、今一番旬なハリウッド・フィルムメーカーなワケですよねぇ。
「ダークナイト」で、シネフィルからマスマーケットまで、幅広く、各方面それぞれのツボをガッチリ掴んだワケで。


「インセプション」は、ディカプリオや渡辺謙やジョセフ・ゴードン=レヴィットといった、マネーメイク・スターをズラッと並べたオールスターキャストでしたが、今作は、もちろん“オールスター”ではあるんですけど、受けた印象としては、ちょっと地味め。

これは、実は、演出のアレなんですよね。
誰もが、「如何に実際にいるかのように」撮られていて、アン・ハサウェイも化粧っ気全然なしって感じで出てきますし。
主役マシュー・マコノヒーの“農夫”っぷりとか、なかなかですよねぇ。

今作においては、C・ノーランは、そういうリアリティをチョイスした、と。
そういうことですね。

作品において、どのレベルにリアリティを設定するのか、というのは、特にSFでは、とても大事な要素になってくるワケで。

「映画」というのは、そもそも“虚構”として撮影されるワケで、その、実際に撮影する段階では、所謂“現実”と同じ「リアリティのレベル」では、作らないワケです。
リアリティ度は下げる。フィクションの度合い、ということでいうと、上げる。
「作られた現実」というのは、そういうもので、そうしておいて初めて、「大画面での鑑賞に耐え得る」モノになる、と。


その、「リアリティのレベル」の調整に、C・ノーランは、自覚的なワケです。
「ダークナイト」では、唯一つ「バットマンがいる」という所“だけ”を、“虚構”としたワケですね。
これまでのアメコミの実写化作品よりも、「フィクションのレベル」を、グッと下げた。

「インセプション」では、一つの作品の中に、“現実”と“まるごと虚構の世界”とを同居させて、そこを自由に行き交う、みたいな作りになってて。


今作では、「リアリティのレベル」は、より引き下げられていて、そこから一気に飛躍する、という構成になっていますね。

農場から、宇宙船の中、という。
この構成を成立させる為には、オープニングのマシュー・マコノヒーの“農夫”としての存在感、というのは、とても大事な要素、ということなのでしょう。



で。


作品の主題からは逸れるかもしれませんが、個人的にちょっと感じた印象を書いておくと、「テクノロジー」と「キリスト教」、みたいなテーマを感じたんですね。

キリスト教、というか、まぁ、大きく括って「宗教」とか、あるいは「宗教的」というか。

キーワードとして、例えば「疫病」なんていう言葉も(訳語ではあるんですが)、ちょっと聖書の記述を連想させる感じがあったりして。

聖書に限らず、なんていうか、「疫病」って、ちょっと「古い言葉」ですよね。仰々しい、というか。
不作の正体は結局正確に明かされず、まぁ、温暖化とか気候の変化とか、そういう“解釈”をさせていますけど。

例えば、「十二人の宇宙飛行士が先行している」エピソードの“12”という数字は、使徒を思わせるし、「そのうちの三人がメッセージを送ってきている」なんていうのも、「東方の三賢者」を思わせるし、水(液体)に覆われた惑星の地表の描写は、もちろん「ノアの方舟」の「大洪水」を思わせるトピックだし。

そもそも、「何者か」からのメッセージを受けて、それを解読し、という、最初の主人公と娘の謎解きシークエンスも、やっぱり宗教的な匂いを感じさせるし。


しかし、ということですね。
「何者か」の正体は、未来の自分、というか、五次元空間からメッセージを送っていた自分、というオチだし、最後には、人類は宇宙ステーションを“自作”することが出来ているし、再び主人公を(“密航者”としてではあるものの)送り出すことが出来るし、つまり、人類は、自分たちのテクノロジーの力によって、(なんとか)天変地異の脅威から生き延びることが出来るのだ、と。

そういう主題を感じてしまったんですよねぇ。

孤独に耐えられなくて、人類全体を騙すマット・デイモンは、人間が本質的に持つ弱さを体現している存在だけれども、同時に、最後まで希望を失わない精神や、自己犠牲を厭わない、という、そういう人間たちも、描かれていて。
特に、主人公の娘は、父親に捨てられたという感覚に苛まれながら、しかしその孤独感には、打ち克っているワケで。

まぁ、人間賛歌、というか、ね。


父と娘の愛、というだけでなく。



あと、ちょっと思ったのが、「父と息子」の話じゃないんだな、と。
「父と息子」というのは、アメリカ映画の普遍的なテーマなワケで。
それこそ「バットマン」にも、「父と息子」というテーマは内在しているし。
そこは新鮮でした。


子役の、健気な感じとか、泣き顔とか、良かったです。




ただし。






なんていうか、SFの、タイムスリップを扱う作品なんかだと、「未来の自分が過去の自分を救う」というオチは、結構使い古されているものでもあって。
ブラックホールも。

そういう意味では、「インセプション」の「夢の中に入り込んで潜在意識を植え付けて、帰ってくる」というギミックは、ホントに面白かったんだけど、今作では、そういう“驚き”は、あんまりなかったんですよねぇ。


大風呂敷の包み方、というか。

まぁ、人間賛歌とする為には、必要なギミックではあるので、良いっちゃ良いんですけど。


そこだけ。



例えば、スタートレックなんかでも、タイムスリップものっていうのは、あるワケですよ。
ただ、スタートレックは、それこそ何十年もかけて世界観を丸ごと構築しておいて、ということなワケで。
やっぱり、太陽系と時空を股にかけて、というスケールの話っていうのは、どうしても手間暇が掛かってしまうもんですからねぇ。
太陽系外探査とタイムスリップと、人類滅亡の危機と、家族愛を、ということになると、なかなか大変になっちゃうワケで。

そういう意味では、上手な脚本だとは思いますけど、やっぱり、ね。
長いし(二時間半以上)。







なんか、単純に、マット・デイモンは嘘をついていた、という展開に普通にビックリしちゃったりとか、そういうアレはあるんですけど。
「重力の謎を解明することはできないことが分かっていた」というのも、ストーリーの展開としては、面白かったし。
「マジか?」という感じで。







ちょっと前に公開されてた、ノーラン組で製作された「トランセンデンス」が、なんかイマイチだったのを思い出して、今作と比べてしまいまして。
「やっぱ、(脚本の)ジョナサン・ノーランがいい仕事してんだな」と。
そんなことも、思いましたね。




というワケで、物凄い期待してたので、その分ちょっとした所が気になってしまって、というアレで若干マイナスですが、面白かったのは面白かったな、と。


良い作品でした。
C・ノーラン。次作にも引き続き、超期待。















2014年12月11日木曜日

「Nas / life is illmatic」を観た

立誠シネマで、稀代のリリシストNasのドキュメンタリー「life is illmatic」を観た。



ナズNasの、半生を描く、ということではなく、デビューアルバム「illmatic」と、そこに至るまでの少年時代を追う、という形のドキュメンタリー。

基本的に、この切り取り方が成功している作品、ですね。
人生全体ではなく、あるいは当時のヒップホップ全体でもなく(ギャングスタラップについては、まったく言及がない)、天才ナズの、一作目に絞った内容で。


ひとつ面白かったのが、「影響を受けた」という色んなアーティストのインタビューが出て来るんですが、殆どが、一言だけ、というところ。
なんて贅沢なんだ、というか。

アリシア・キーズなんか、いつものバッチリメイクでインタビューに応えてるんですが、ほぼ「凄かった」ってだけで終わってます。
作品がとにかく締まった感じになっているのは、インタビューにしろ何にしろ、とにかく内容を絞ってるのが巧くいっているからだと思うんですが、それも「切り取り方」の巧さ、ということですね。

アルバムの楽曲の曲ごとのエピソードなんかも、ピート・ロックの話とか、結構ゾクゾクしちゃうんですが、その曲に頼り過ぎないんですね。
一曲丸ごと、とか、そういう風にはならない。
変に感傷的にもならずに、DJプレミアもQティップも、快くインタビューに応えている、という雰囲気で、“今の”ライブでラップするところと、当時のミュージックビデオの映像を交えながら、サクサク進んでいく感じで。
このテンポ感が、いいんだと思います。



ナズ本人の言葉で印象的だったのが、「自分はそんなに悪くない家庭で育った」と言っているところ。
働き者の母親に愛情をしっかり注がれながら育ったんだ、と。そういう風に語っています。
だから、道を誤らずに済んだ、と。
両親の離婚が“幸福な家庭”に陰を差した、と語るんですが、ナズの実弟が「それでちょっとグレた」と。
この辺りの“構成”も、上手いなぁ、と。

もう一つが、クラック禍が蔓延する前の“パーティー”の感じは、「ハッピーだった」みたいに言うんですね。
でも、と。

クラックが、ぶち壊してしまった、という。



中盤、メイン・ソースのラージ・プロフェッサーにフックアップされる、というシークエンスで、「Live at BBQ」という曲のライブ映像が流されるんですが、そのステージ上にいるラージ・プロフェッサーやそのクルーたちが、なんか楽しそうなんですよ。
パーティーを楽しんでる感じ。
自分たちのステージなんだから、当たり前っちゃ当たり前なんですけど、自分たちが連れてきた“ナスティ・ナス”がラップするぜ、みたいな時に、すげーノリノリな感じでステージに並んでて。

新人の天才リリシストが登場することで、なんか、皆が「アガってる」ワケですよねぇ。
この感じ。


勝手な解釈ですけど、クラック禍に壊されてしまったコミュニティの“連帯感”みたいなのを、そのコミュニティから天才が登場したことで、もう一度取り戻す、みたいな。
いや、実態は、そんなに甘いモノじゃない、というのも間違いないんですが、なんていうか、そういう“空気”みたいなのを感じたりして。

いいなぁ、と。



もう一つ印象的だったのが、「ブリッジ・イズ・オーバー」に至る“バトル”について、当時を振り返って語るナズの表情。
いい顔して語るんですよねぇ。ソファの背もたれに腰掛けて。
あのショットは、良いです。
ロクサーヌ・シャンテにステージに上げてもらったのにスベって、怒られた、とか、そういう話も最高。


子供の頃、兄に無理やりラップを聴かされて、面倒だから「ダメだ」と言ってたけど、内心では「凄い」と思ってた弟、とか、その辺も最高。



うん。


やっぱり、ポイントとしては、繰り返しになりますけど、ナズのキャリア自体(例えば、二枚目以降)ではなく、あくまでデビューアルバムとそのアルバムの背景にフォーカスしていることが、凄い締まった良い作品になっている要因だと思うんですね。

この切り取り方だと、実はナズ本人も「対象について語る語り部の一人」に過ぎなくなっていて、という構図になってて。
なんていうか、健全な距離感、というか。

「illmatic」という作品には、社会や時代背景、ナズが育った環境、家族、ヒップホップという総体的なムーブメント、などなどの要素が、ナズ本人の意思・意図とはまた違う必然性を持って流れ込んでいて、そういうのを巧く語っている、と。

良いと思います。



技法としては、写真を映像として取り込んでいるんですけど、その時に、ある程度加工してるんですね。
単純に写真を動かしたりとか、人物を切り取って浮かび上がらせるようにしたりとか、あとは、フォーカスを弄ってミニチュアみたいに見せる手法があるんですけど、そういうのを使ったりとか。
それぞれの技法自体は、例えばフォトショップなんかで簡単に出来るようなアレかもしれないんですけど(詳しくは分かりませんが)、やり過ぎず、かといってシンプルに写真を繋げるだけでもなく、という感じで。

で、作品の最後に、アルバムのジャケット写真のエピソードが語られるんです。
作品の構成として、そういう風に、巧く「写真の話」に持っていくようになってる。

エピソード自体もグッとくる感じですが、なんていうか、構成もポイント高いですよねぇ。

写真そのものも、凄いクールだし。




うん。


いや、褒めてばっかりですけど。



単純にドキュメンタリーとして(技術的・技法的に)優れている、というだけでなく、作り手の“対象”に対する愛と敬意が伝わってきて、なおかつ、その敬意を観る側が“共有”できる、という。

そういう、良い作品でした。
機会があれば、ぜひどうぞ。





















2014年12月8日月曜日

「ジョン・ラーベ ~南京のシンドラー」を観た

一部で話題になっていた作品、「ジョン・ラーベ ~南京のシンドラー」を観た。


観てきました。
京都市内の、社会福祉協議会の持ってる施設の中の会議室での、上映会、という形で。
料金は、1000円。

南京事件を扱っている、ということで、配給会社を通じての一般公開はされない、という、まぁ、その辺の話は、ここではそんなに深くは触れませんが、そういう諸々の“事情”があった、という作品です。
たまたま、なんかの拍子に、「京都でも上映される」ということが分かって、いい機会だから、ということで行ってきました。

なんか、盛況でした。
やっぱりそういう“事情”が、逆に宣伝効果を生んでいるんだと思います。
客層は、やっぱりちょっと、特徴ありましたけどね。

まぁ、こういう、市民の手による上映会、というのは、とてもいいことだと思うんで、今回のこの作品に関する“活動”が、今後の一つのメルクマールになればいいなぁ、と。



で。



ざっくりとストーリーを紹介してしまうと、南京に駐在している、ドイツ・シーメンス社の支社長、という人物が主人公で。名前は、ジョン・ラーベ。
ドイツ人です。なので当然、「ナチス」「ハイル・ヒットラー」とか、そういう単語が出てきます。
日本軍の侵攻が近い、という状況で、南京にいる欧米人を中心に、市内に中立地域(安全地域)を設けて、そこで民間人を保護しよう、ということになるんですね。
赤十字のマークが掲げられて、国際委員会、みたいな名称で。

で、主人公たちが奮闘するんですが、という話。



日本での配給・公開に関して、恐らく一番尻込みされたであろうポイント、というのがあって、それを最初に挙げてしまうと、それは、「皇族の司令官」、というところ。
その描き方、ということですね。
そこに関しての個人的なアレは、なんていうか、不勉強なのもあって、ちょっと是非/正否云々は言えないんですけど、まぁ、ここでしょう。
演じているのは、香川照之。



そのこと自体は、さておき。



ひとつ言いたいのは、シナリオ面で、ちょっと“弱い”んですよねぇ。
弱い。
脚本がイマイチなんです。


だから、こういう言い方はちょっとアレですけど、それも配給されなかった一因だったんじゃないのかなぁ、というか。

なんていうか、「想定されるであろうゴタゴタ」を突破してでも公開したい、という作品ではなかった、という感じだったんじゃないのかなぁ、と。


“弱さ”というのは、幾つかあるんですけど、まず具体的に言ってしまうと、国際委員会を立ち上げよう、というシークエンスで、主人公が周囲(の欧米人)を裏切って帰国してしまうかもしれない、というシチュエーションになるんですね。
設立の準備の為の会議に主人公が現れない、という場面。もう日本軍の侵攻が始まっているのに、という。
ここで、主人公が現れないことに憤ったメンバーたちが、主人公が帰国便に本当に乗っているかどうか、というのを、港に確かに行くんです。
で、港でのシーン、というのが、ワリと派手な感じで描写されるんですけど、これ、全然要らないんですよ。

切羽詰ってるのに、わざわざ皆で雁首揃えて港まで行かないでしょ。
作劇的には、まったく無駄なシークエンス。

主人公が妻だけを帰国させる、という決意を描写する為のシーンなんですけど、ここに物凄くおカネ掛かってるんですね。
巨大な客船、襲撃してくるゼロ戦、モブ、港のセット、などなど。
爆破のショットなんかもあって、喩えCGだとしても、おカネは掛かってますから。

派手なんですけど、意味がない。



もうひとつ。
これはストーリーの構造の問題なんですけど、「少数/個人を救おうとして、多数/全体が危機に陥る」というモチーフが、繰り返し使われるんです。

これは、様々なスケールで同じ構図の悲劇が、という、意図的な設定だと思うんですけど、でも、個人的には逆効果に思えてしまいまして。

サスペンスの作劇法としては、なんていうか、一般的過ぎるアレ、というのもあるんですけど。

なんていうか、「少数派も多数派も、『軍の上層部(≒エリート)』という『別の少数派』に踏み潰されてしまう」というのが、戦争なりファシズムなりを語る映画での描かれるべき本質なワケですよ。


史実を脚色している、ということである以上、しょうがない部分もあるかとは思うんですけど、そういう作品だからこそ、シナリオにおける工夫とかギミックとか、“強さ”が求められるワケで。

詳しく“構図”を説明してもいいんですけど、ポイントが逸れたりするのもアレなんで、このくらいで。


もうひとつ。

これは演出面の話でもあるんですけど、“逃げた兵士”を追って、日本兵が病院に入ってきちゃう、というシークエンスがあるんですね。
緊張感があって、しっかり作られたシーンなんですけど、ここで、例えば「手術室に入ってきた日本兵が、そこにいた大勢の中国人たちの視線に、思わず怯む」とか、そういう描写があれば、もっともっと深みが出て来ると思うんです。

怯えが生む暴力性。

虚勢、とも言いますけど。

中国人たちの無言の圧力に怯えた兵士が、思わず、無差別に発砲してしまう、という、そういうシーンになっていればな、と。

演出的には、ホンのちょっとのアレなんですけどね。
でも、ストーリーに深みを加えていくのは、そういう、ちょっとした部分のアレなワケで。

そういう“浅さ”みたいなのは、ちょっとマイナスポイントではないかなぁ、と。



あと、これは作品本体とは関係ないんですけど、普通に字幕に脱字とかあるんですよねぇ。
日本での公開の経緯云々を考えると、しょうがないっちゃしょうがないんですが、作品に対する熱意なんかを思うと、ちょっと残念。
あと、セリフに対して、字幕が出るのが、微妙に遅い。
この違和感みたいなのは、俺だけのアレかもしれませんが、若干気になりました。

まぁ、そういう細かいアレも、さておき。





その、「中立地帯」というのは、「ユダヤ人のゲットー」の、逆の意味でのメタファーなワケです。
ヨーロッパでは、ナチスドイツがユダヤ人を、街中の「ユダヤ人地区」に押し込んで、最終的には虐殺したワケですけど。
南京では、その逆。
日本軍が侵攻してきて、ドイツ人が市民を、街中の「中立地帯」で救う。

これは、現代のドイツ人にとっては、ある種の救いでもあるワケで。

要するに“そういう作品”なんだろうなぁ、と。



ドイツ人にも正義の為に働いた人間がいて、という。
日本軍の中にも、虐殺を命じた人間とそれを実行した人間がいて、命令に苦悩した人間もいた、という、それと同じ構図がドイツの側にもあって、と。
そういう構図を描くことで、少なくともドイツの中には、救われるような気持ちになる人間もいるんだろうなぁ、と。

もちろん、それで全然良いワケですけど。




作品全体としては、良い作品ですよね。
佳作って感じで。

セットもちゃんと作り込んでて、特に砲撃を受けた後の廃墟は、良かったです。


自主上映、という形も含めて、貴重な、良い映画体験だったなぁ、と。

そういう感じですね。



機会があれば、ぜひ観てみて下さい。














2014年12月4日木曜日

「日本列島」を観た

京都文化博物館フィルムシアターの宇野重吉特集上映で、熊井啓監督の「日本列島」を観た。


65年公開のモノクロフィルムの作品で、いわゆる“黒い霧”系のサスペンス、ですね。
面白かったです。


主演の宇野重吉が演じる人物は、在日米軍のMPの通訳を務めている、というキャラクターで、軍の関係者(当然、アメリカ人)が巻き込まれた“未解決事件”の調査をして欲しい、と、アメリカ人の上司に依頼される、というのが話の起こり。


まず、ここが新鮮だなぁ、と。
右向いても左向いても警察官なワケですよ。最近は。

元英語教師の、占領軍の通訳。

“相棒”役に、二谷英明が居るんですけど、彼は新聞記者。
未解決事件を“特ダネ”として追いかける記者なワケですけど、彼の、警察組織との関係性の描き方も、面白い。

そもそも事件が“未解決”なのは、日本の警察とアメリカ軍との間での“綱引き”みたいなのがあったからで、それも、“現場”と“上層部”で捻れがあって、とか、そういう感じで。


戦争当時の“遺産”が、依然、日本の社会のあちこちに“残滓”としてあった時代なワケですよね。
闇として。黒い霧として。
戦争の“残滓”と、占領下の時代の“残滓”。

そして、当時未だ占領統治下にあった沖縄の存在。



そういう、社会全体に重く覆いかぶさっていた“闇”を、なんていうか、宇野重吉の苦り切った表情と背中が、巧く表現している、というか。



元英語教師、という人物なんですね。
で、調査の過程で、教え子と出会ったり、“被害者”の娘と擬似的な親子関係を結んでみたりしながら、しかし、事件の調査自体は、いつもどこかで“何者か”によって遮られてしまう。

主人公は、ある“過去”を背負っていて、というより、引き摺っていて、なんていうか、“虚無”に陥っている、という背景があって。
ある種のニヒリズムを背負って生活している、と。



その、主人公がニヒリズムに陥っている状態からの、「人間性の快復」が、ひとつあるワケです。

それは、“日本列島”自体の「戦後の(精神的な)復興」のメタファーとして語られ得るんでしょうけど、まぁ、そういう諸々を背負って表現するに相応しい俳優なんだな、と。
宇野重吉という存在は。



そういうストーリーとその背景にある“物語”の他に、個人的にハッとしたのが、なんていうか、シャープな画作り、という部分ですね。


一番良かったのが、小学校の屋上に立ち尽くす女性教師を、さらに上方から見下ろして捉える、というショット。
グラウンドの先の校門から出て行く“訪問者”の後姿を、“被害者”の娘である女性教師が見つめている、というショットなんですけど、これはかなりグッときました。

ストーリーの舞台は、恐らく東京の多摩地区にある横田基地なんですけど、それにちなんで、背景に「多満自慢」の看板が出て来るカットがあるんですけど、個人的には(八王子出身なもんで)、ちょっと嬉しかったです。
多摩から横浜、そこから、江ノ島っぽい島影が出てきたり、新宿と思わせるような画があったりして、何気にどこも個人的に所縁がある場所だったりして。

ま、それは本筋とは関係ないですね。
あしからず。




ひとつ思ったのは、この時代(まで)の女性の立ち振る舞いっていうか、なんか物凄く抑制された身体性、というのを感じたんですね。
性的な事ではまったくなく、歩き方とか佇まいとか、姿勢とか仕草の話なんですけど。
“マナー”とか“躾”みたいなことだと思うんですけど、そういう姿が、なんか、ストーリーに絡み合って浮かび上がってくる、というか。

感情を抑えて、押し殺して、しかし、こみ上げてくる感情の波というのは確かにあって、「人前では憚られるから」みたいな、そういう抑制を自ら効かせつつ、しかし、という。

戦争だとか国家の犯罪だとか、あるいは陰謀だとかに翻弄されながら、しかし、必死に自分の足で立って生き抜いていこう、という、所謂欧米流のフェミニズムとは少し違うニュアンスを抱えた「自立した女性像」なのかなぁ、という感じで。




というワケで、個人的にも色々収穫の多かった映画体験でした。
さすが名作。良かったです。















2014年12月2日火曜日

「自由と壁とヒップホップ」を観た

立誠シネマ・プロジェクトでやってた、パレスチナのラッパーたちのドキュメンタリー「自由を壁とヒップホップ」を観た。



この作品は、確か去年か一昨年に日本で公開されてて、観たいとは思ってたんだけど、なんだかんだで見逃してしまっていたヤツで。
なぜか、今年のこのタイミングで、京都の(超)ミニシアターで上映する、ということで、観て参りました。


良かったです。

惜しむらくは、なんていうか、「パレスチナにラッパーがいる」というところにとどまっていること。
そこが惜しい。

もう少し、パレスチナが強いられている状況なり、彼ら(ラッパーたち)の音楽性なり内面なりを、深く掘り下げて欲しかったなぁ、と。

惜しむらくは、ですけどね。


「パレスチナにもヒップホップを体現しているラッパーたちがいる」というメッセージを、世界中にいる「ヒップホップ・ネイション」に集う人々にそれを伝え、連帯を呼びかける“役割”を果たしている、という意味では、ホントに感動的だし、とても意味のある作品で、それはそれで、良いんですけど。


ドキュメンタリーの“価値”というのは、「そこに行き、それを撮る」ことにあるとすれば、もう、十分素晴らしい作品では、あります。



ただね、と。



作品には、何組かのグループのソロのラッパーが登場しますが、彼らは互いに「異なる環境」にいるんですね。
それは、単純に場所や育ちが違う、ということではなくって、パレスチナの現状を文字通り体現している、とも言えるんですけど。

自治区の二つの区域、ガザ地区、西岸地区(west bankというらしいです。)。
そして、イスラエル国家の中で“二級市民”として暮らすパレスチナ人。

この三つ。


この、彼らの互いに差異、みたいなのが、実は作品の隠れたテーマ、みたいになってるんですけど、イスラエルによって「行動の自由」を剥奪されている彼らは、距離的にはすぐ近くに住んでいるんですけど、直接交わることはできない。


これは、別に彼らが自ら選んだ、ということはまったくなく、彼らの親世代・その上の世代が、難民として国外避難を強いられたり、あるいはその後、難民としてキャンプで生活を営むことを選択したり、あるいは、“国内”に居続けることを選択したり、という、そういうことに因る“差異”なワケですけど。

“専門用語”で言えば、まさしく「分断統治」の具体例でもあるんですが、それはさておき。


彼らが直面している“抑圧”というのは、かなり違うワケです。
自治区では、もうホントに、撮影中に銃声がバンバン響いてたり、ロケット弾で破壊されたビル(マンション)があったり、壁一面弾痕があったり、とか、そんな状況で。


“二級市民”として暮らす人々はまた違って、例えば、街を歩いているだけで警察やユダヤ人たちにジロジロ見られ、(ヘブライ語ではなく)アラビア語を話していると尋問される、とか、そういう感じ。


そういう状況下で、より“ハード”で“シリアス”な同胞に対しての引け目、みたいなのも、あるワケです。
彼らも人間ですから。

それらを乗り越えて、互いに連帯し合う、というのが、一つの(隠れた)テーマ。



もう一つは、女性の存在。

女性性、という、また別の“抑圧”があるワケですね。
特に、ムスリム社会には。


面白いことに、へジャブを着ている女性も確かにいるんですが、殆どの女性、特に、作品の中で“マイクを握る”女性たちは皆、セクシーなんですよ。

つまり、イスラム社会でありながら、かなり世俗的な感じで。

しかしそれでも、女性というだけで抑圧を受けている、という。

実は、この「女性蔑視」というのは、ヒップホップ自体が内包しつつ、常に(世界中で)批難と議論と克服の試みがなされている、という、ちょっと違うファクターの問題でもあるんですけど、この作品中では、あくまで、イスラム社会におけるそれ、という形で語られています。

彼女たちの、活き活きとラップし、歌う姿。
まぁ、素晴らしいですよね。



最後にもうひとつ。
これも“隠された”テーマだと思うんですけど、パレスチナ社会においては、(恐らく、ですけど)ヒップホップという“イズム”の信奉者というのは、かなり少数なんじゃないのか、という点。

単純に、ヒップホップのファン、ということですけど。

そんなに市民権を得ている音楽ではないんじゃないかなぁ、と。

これは、あくまで俺の勝手な推測ですけどね。



ただ、そういう意味では、二重三重の“マイノリティ”なワケですね。


パレスチナ人として、イスラエル国家から、直接的・暴力的・恒常的・非人道的・非人間的な抑圧を受けつつ、パレスチナ社会の中のマイノリティとして、「ダンスビートに政治的メッセージを乗せる」≒ヒップホップ・アーティストとして生きる、という。
(女性の場合、そこに女性性という“枷”がそこに加わる。)



もちろん、だからこそ、彼らと世界中のヒップホップが連帯する必要と意味があるワケですけど。




ただね、と。


繰り返しになりますけど、そういう、色んな要素に対しての掘り下げ方が、やっぱり深みが足りない気がするんですよねぇ。

インタビューも、彼らと彼らの家族に対してだけだし。




あと、もう一つ気になったのが、彼らの通信手段。
携帯で互いにコンタクトを取るんです。
あと、PC使ってチャットしたり。

その“ツール”をもうちょっと掘り下げていくって方法だってあったんじゃないの、とか。

だって、その携帯って、イスラエルの企業が提供している回線なハズですから。


“テクノロジー”って、ヒップホップっていうジャンルには、とても大事なファクターだし、この時代においては、とても重要なトピックでしょ。
インターネットって。


ちなみに、この作品が撮られたのは、エジプト市民革命よりもだいぶ前なんで、実際、まだ「フェイスブック」とか「ツイッター」とかのワードは、出てきません。
「抵抗のツール」としてのインターネット、というのは、もうちょっと最近になってからのトピック、ですね。
それはさておき。



あと、タイトルもあんまり好きじゃないです。
「自由」って言葉は、響きがいいし、もちろん彼らにとっても大事なことなんだろうけど、彼らは「平和な生活が欲しい」って言ってるんですよ。
もちろん、それは「自由」ってことでもあるんですけど、でも、彼らはもっと切実だし、このタイトルだと、彼らの“切迫感”みたいなのが伝わってこない気がする。
「パレスチニアン・ラッパー」とか、そんなタイトルでよかったんじゃないのかなぁ、というか。
(Palestinian Rapperzというグループが実際に登場してます。)





なんかケチつけてばっかりですが、いい作品なのは間違いないですよ。
だけど、ということです。




あと、“壁”のインパクトは、やっぱり凄かった。
抑圧とか、そういうレベルじゃないよね。やっぱり。















2014年11月14日金曜日

「誰よりも狙われた男」を観た

二条シネマのレイトショーで、ジョン・ル・カレ原作、フィリップ・シーモア・ホフマン主演の「誰よりも狙われた男」を観た。


いやぁ、良かったです。
時間的に、かなり無理して行ったんですが(帰りも終電でギリギリ)、劇場に観に行った甲斐がありました。

舞台は、ドイツの港湾都市ハンブルグ。
単純に“港湾”というだけでなく、いわゆる“結節点”の一つ、ということですよね。ヨーロッパの。
それから、やっぱり「首都ではない」という部分でも、主人公の「左遷された先」というニュアンスがあるワケで、そういう意味でも、この「ハンブルグが舞台になっている」というのは、ストーリー上でも重要なファクターになってまして。


で。


まず、冒頭15分くらいで、舞台が港湾都市であること、主人公(ホフマン)が“ある組織”を率いていること、その組織が「警察ではないこと」が明示されます。
“港湾都市”、というより、なんていうか、「金属と直線だけで形作られた」街、インダストリアルな感じが、特に強く打ち出されて、その中を、ガリガリに痩せた髭面の若者、という、いかにもな“難民”が、彷徨い歩く、という。
そして、彼が、防犯カメラによって補足される、というイントロダクション。


ル・カレ作品の(個人的には)“前作”にあたる「裏切りのサーカス」は、舞台が“少し前の”冷戦時代だったワケで、その時代背景とか舞台となるロンドンとか、いわゆる“サーカス”の内部の感じとか、やっぱり若干説明が必要だったと思うんですけど、今作は、「9.11」以後の世界、つまり“現代”、イスラム過激派「ジハーディスト」が“監視対象”、というストーリーで、まぁ、説明要りませんからね。

ドイツ人もチェチェン人も、みんな英語を話すのは、ちょっとアレですけど、まぁ、しょうがないです。




ストーリーのキーとなっている要素が幾つかあって、その一つが、セリフにもあるんですけど、「魚を捕まえて、それを餌にバラクーダを釣り上げて、バラクーダを餌に、鮫を釣る」という部分。
小者を補足して、そこから順々に大物・大きな目的に迫っていく、という、主人公が率いる情報機関の活動方針みたいなことなんですけど。

これは、いきなり“クライマックス”の話をしてしまうと、“追う側”の主人公たちにも同じロジックが当てはまってしまっていて、つまり、主人公たちの小さな組織(ハンブルグという地方都市で活動している小さなグループ)が、より大きな”組織”、つまり、「同じビルの“上の”フロア」にいる組織、あるいは「ベルリンの内務省」、あるいは、「(超大国の)CIA」といった組織に、「喰われてしまう」という。

これは、要するにクライマックスのカタストロフィーを支えるロジックなワケですけど、かなりインパクトあります。
「そういうことだったのか!」という感じで。



もう一つは、「親子関係」。
というより、「父子関係」かな。


ひょっとすると、原作の小説だと、この部分がもう少し掘り下げられて描写されているのかもしれませんが、映画の今作では、サラッと触れられているだけって感じで。
ただ、ストーリー的には、大事なポイントになっていると思います。

まず、“ターゲット”である、チェチェン人の青年。
そもそも彼の“動機”が、「父親に対する云々」なワケですけど、彼に関わる、銀行家、というキャラクターがいまして、彼は自分の父親の銀行を継いだ、という立場にあって。
“父親同士”の約束、というのが、そもそものストーリーの起こりになっているんですね。
なので、銀行家自身は、自分の父親の行為が遺した“契約”に、巻き込まれる形で、関わることになる。

この銀行家は、ウィレム・デフォーが演じてるんですが、このキャラクターは、相当いいです。
“怪演”じゃないデフォー、というのは、もちろん良いに決まってるんですけど、なんていうか、立ち姿がもう「困惑している」ワケですね。
困った顔の、痩身のデフォーの姿、というのが、ホフマンとのよい対比にもなってて。


もう一人、若くて美人の人権派の女性弁護士。
裕福な家庭に育ち、父親は判事で、という、まぁ、いわゆる“エリート”なワケですけど、人権派の弁護士として活動している、と。
移動は、自転車。(デフォーは、高級スポーツカーに乗ってます。)

デフォーの銀行家も、弁護士の彼女も、ホフマンの「実際に戦っているんだ」という迫力に圧倒されて、協力を強要される、という展開になるワケですけど。

そのホフマンは、家族の描写はなく、それどころか、私生活の描写も殆どありません。(終盤になって、唯一、“趣味”みたいなことが描写されますが。)
その孤独感が、かえって存在感を引き立たせる、ということなワケですけど、彼は逆に、「父親」として振る舞うワケです。
擬似的な、父親。
自分の“情報源”を護ろう、という、ある種の美学を持ってるんですけど、その美学は、「家族を護る父親」に、とても似ている。

チェチェン人が「父の行為」への“反抗”から、“遺産”を寄付する、ということになるんですけど、その彼の意思を、情報機関としては利用しつつ、身柄の保障をどうにか果たそうとする。

そして、それが成し得ない、というカタストロフィー。



というかですねぇ。
観る側としては、もう、カタストロフィーを期待してしまっているワケですよ。
もう、ホフマンの表情を見ているだけで、どこかで「裏切られるんだろうな」という心情に、こっちがなってきてしまう。
もちろん、演出が、そういう方向に引っ張っていく、というのもあるんですけど。
その、期待しているカタストロフィーが起きることによるカタルシス、という、よく分からない心理状態になる、というか。


そして、圧巻なのが、ラストショット。
主人公が、自分の車に乗り込んで、“少しの距離”を走って、また車から降りる、というシークエンスなんですけど、カメラのピントが、「車の外」じゃないんですね。
車内。
ハンドルとかダッシュボードとか、そういう所に焦点されている。
この画は、かなり強いです。



ただ、惜しむらくは、この強さのあるラストショットがあるだけに、ということだと思うんですけど、実の父を“失う”ことになった、アラブ系の青年の“心情”が、置き去りになっている、というところ。

例えば、この青年が、父親を“奪還”するために、銃を握る、という“オチ”ならば、「暴力の連鎖」というか、「テロ防止の名目で、テロリストを育ててしまっている」という、ある種普遍的なテーゼを掲示して終わることができたと思うんですけど。

実際は、主人公の憤りと絶望、というラストショットなんで、まぁ、全然それで良いとは思うんですが。





あと、これは予算的な都合かもしれないんですが、例えば、ハンブルグが舞台、ということなんですけど、そこで安易に港湾施設とか、空港だとかで撮ったりはしないワケです。
ロケの話ですけど。
そういうところで派手さを出す、ということではなく、あくまで俳優同士のやり取りで、ストーリーを語っていく、という。
スパイものですけど、アクションもないし、基本的にはダイアローグと画の力強さで構築されている作品で、それは成功している、という意味でも、好感持てますよねぇ。
(もちろん、「007」シリーズみたいな、派手なのも、好きですけど。)
変に「ベイルート」の回想シーンを入れない、とか、そういうところもポイント高いです。


弁護士を拉致するシークエンスの、主人公が公園の並木通りに立っているショットなんかは、ホントにクールで、グッときました。



うん。


力強い、いい作品でした。
お薦め。













2014年10月20日月曜日

「御法度」を観た

CSの日本映画専門チャンネルでやってた、大島渚監督の遺作「御法度」を観た。


もう20年前か、と。
なんか、まずそんな感慨が来ちゃいました。
崔洋一監督も、なんか今やすっかり“テレビコメンテーター”だしなぁ、なんて。
(もちろん、ずっと作品は作り続けているワケですけど。)



新撰組を題材に、ということで、日本人なら誰でも知ってるワケです。
男が二人いて、片方が「トシ」と呼びかければ、その男がどんな格好をしてても、どんな背格好でも、呼ばれた方は土方歳三で、呼んだ方は近藤勇である、と。

もう、誰もが分かってしまう。

近藤勇の側に美青年が立っていれば、それは沖田総司である、と。
誰もが了解できるワケです。

そういう前提で、ストーリーが語られ始める。


どうしてこういう指摘をするかっていうと、それは、衣装のインパクトが圧倒的にあるから。

あの、水色の模様が入った羽織、というのが、新撰組の“記号”なワケですけど、あの色と模様っていうのは、ある種マンガ的、というか、それはホントに、上手く言えないんだけど、ちょっと“現実離れ”した色、というのが原因だと思うんだけど、そうなっちゃうワケですよね。

どうしてもマンガ的になっちゃう。

それを、黒を基調とした制服で、ズバッと魅せちゃう。
これは、ホントに成功してると思います。
単純にクールだし、俳優陣の人選も含めて、なんていうか、ゴツゴツした存在感、というか。
(藤原喜明の武田観柳斎とか、歩いてるだけでめちゃめちゃカッコいい。)



作品全体の色も、黒味が強調された質感になっているワケですね。



とにかく、画面全体に“緊張感”があるワケです。
色と、質感で、緊張感を与えている。



“ご存知”新撰組という題材を扱うにあたって、採用する“記号”を、意識的にチョイスしているワケですよね。
“軽薄”になってしまうような“記号”は避ける、と。しかし、そうじゃない“記号”は、使う。

近藤勇、土方歳三、沖田総司、「池田屋」という言葉、などなど。



もう一つ、この作品についての大事なトピックは、俳優陣。
松田龍平、というのはもちろんですが、ビートたけし・崔洋一の二人。
あるいは、トミーズ雅。

この三人に共通しているのは、顔、ですね。
つまり、存在感。


セリフ回しとか、別に巧くないワケです。
松田龍平も含めて、言葉を「自然に言う」という感じにはなってない。
でも、それでいい、と。

朴訥、ということだと思うんですけど。
セリフをスラスラ言う、ということだけが、俳優の仕事じゃない、と。

その世界に存在している、ということを、そこに映っているだけで表現できていれば、それでいいんだ、というか。

崔洋一演じる近藤局長の、馬に乗っている姿なんか、クールですよねぇ。
身体の揺られ方、とか、凄いリアル。


あとは、ビートたけし。
俳優としてのビートたけしっていうのは、なんていうか、いつも一緒なワケです。
髷つけてようが、スーツ着てようが、ステテコ着てようが。
姿勢悪いのも、そのまま。歩き方も話し方も、そのまま。

まぁ、そもそもどんな俳優も、そういうもんだって言えばそうなワケですけど。
しかし、それにしても、そのまま。

そういう土方歳三、ということで。


もちろん、いいんですけどね。
ただ、ちょっと「ズルい」な、なんて。


キャスティングの勝利、と言えばそうなんですけどね。
それが大島監督の“腕”と言えば、もちろんそうなんですけど。



トミーズ雅も、いい味だしてます。
この人も、そのままですけど。


ただ、トミーズ雅が演じる隊の幹部が、美少年に翻弄されるシークエンスは、ちょっと“面白い”んですよ。
しかし、笑っていいものかどうか、という戸惑いがあったりして。
画面の質感とかは、相変わらずずっと、緊張感に満ちたそれなワケで。

個人的には、そこが少しだけひっかかりました。



しかし、石畳(石階段)で夜中に彼が襲われるカットは、最高にクールです。
あれはいい。


要するに、そういうシーン/カットを魅せる為の装置、という感じなんですかねぇ。
逆に、ラストの、なんか幻想的な方に振り切っちゃってるシークエンスは、あまり好きじゃないです。
見事ではあるけど。



しかし、新撰組、という、男だけで組織された集団が陥った(と、ここでは敢えて書きますが)、“粛清”という罠は、大島渚が取り上げる以上、各種の政治(的)組織の暗喩と、それらへのメッセージ、という意味合いを、観る側はどうしても投影してしまうワケで。
なんせ、“遺作”ですからねぇ。




う~ん。



あんまり「大島監督」という切り口だけで語らない方がいいのかなぁ、と、観終わった今も、悩みながら、このエントリーを書いています。

かといって、作品自体の感想を書き連ねる、というテンションにもならない、というのも正直なアレで。


良い作品である、というのは、感覚としては分かるんですけど。
あまり語らせてくれない、というのが、一番しっくりくる感想でもあって。




う~ん。。。


まだ(俺の)修養が足らんなぁ、と。
まだまだ語るには早い、と。

そういう作品なんだと思います。
はい。







2014年7月31日木曜日

「北陸代理戦争」を観た

CSの日本映画専門チャンネルで、深作欣二監督の「北陸代理戦争」を観た。


なんでも、“東映チャンネル”との合同企画ってことで、仁侠映画特集というのをやってて、今月は「北陸代理戦争」。
先月は「県警対組織暴力」だった、ということで。


深作監督、松方弘樹主演の、お馴染みの“実録”作品、ですね。


ただ、この作品の中で、個人的に一番印象的なのは、野川由美子が演じるキャラクターなんですよ。
その美しさはともかく(ホントにハッとする瞬間が、幾つもあります)、このキャラクターの輝きが、後々の「極道の妻たち」というシリーズに繋がったんだな、と。

「仁義なき」シリーズから、「極道の妻たち」へ、という、まぁ、別にそういう風に“映画史”的に考えてみても、だから何なんだ、という話ではあるんですけど。


弟と妹がいる、姉。
飲み屋の女将で、“男”を乗り換えていくようにして、“店”が大きくなっていく。
出会うヤクザは皆、虜にされてしまう。


日本海の荒波の水飛沫を直接被るような、辺鄙な場所に建っている掘っ立て小屋から、町に出て来て、男ぶりで鳴らす若いヤクザの“女”になり、その“男”の為に、敵に抱かれ、しかし、“男”は垢抜けない妹に取られ(寝取られ)、やがて、その元敵の敵に抱かれ、元敵を捨て、やがて再びしかし、という。


作品中では、主役はあくまで松方弘樹なワケですけど、(繰り返しになるけど)その美しさと相まって、野川由美子演じる“女将”のキャラクターは、魅せますよねぇ。



もちろん、他にも印象的なキャラクターっていうのは居るワケで、松方弘樹の舎弟が、刑務所から出獄してきた“兄貴分”と久しぶりに再会する場面は、特に、グッときましたけど。
なんか、脚を引き摺ってるワケですよ。
抗争で、傷を負ったせいで。

だけど、と。


唯一、信用できる舎弟だ、と。



もう一人、刑務所の中で出会った伊吹吾郎と、主人公の三人。

主人公を待っていた妹を併せても、たった四人。



定型的ではありながらも、やっぱり、グッとくる感じはありますよねぇ。



ただ。


ただやっぱり、どうしても“定型”的なんですよ。


もう一つ、年代の設定が、例えば「仁義なき戦い」よりは、ちょっと新しいワケですね。
作品の中の話で、製作年代自体は、たいして変わらないんですけど。


ただ、高々5年ぐらいの間に、演じる俳優たちも、変わってるんですよねぇ。
良く言えば貫禄が出てるし、悪く言えば、エッジが立ってない。
尖ってた部分が、なんか、ね。

画質のタッチも含めて、その辺のところで、やっぱり“迫力”に欠ける、という印象がどうしてもある。

アクションシーンのカメラワークも、よく言えば“お馴染み”。
逆に言えば、やっぱりちょっと、マンネリ。


という感じを、どうしても持ってしまう。




ドロッとした感じが、薄まっちゃってるんですよねぇ。
要素一つ一つに細かい原因があると思うんですけど。


作り手側が狙っていたハズの、「北陸の人間が持つ~」的な、実録路線の持つ(持っているハズの)ドロドロぐちゃぐちゃな感じが、どうも、“定型”が見え隠れすることで、観る側に、なんかズレて伝わっちゃってる、というか。

あくまで、個人的な感想ですけど。



社会全体に漂っていた混沌、ヤクザという“生業”自体が持っていた混沌、ヤクザの抗争という“構図”が持つ混沌。

ここで言う混沌とは、弱肉強食、群れずにいられない弱者、群れることで虚勢を張る男たち、その虚勢で互いの生存を削りあわないといけない男たち、その男たち全体を押しつぶそうとするモノ、などなど、ということになるワケですけど。


ヤクザ映画は、“実録路線”で、その混沌を描くことに成功していたワケですけど、その“混沌”は、もう少し時代が下ると、例えば「女と男」という、そういう、人間個人個人の関係性の中に押し込まれていって、それがヤクザ映画では、「極道の妻たち」という形になる。

“混沌”を、個人同士の関係性の中に押し込むことで、まぁ、社会全体はより“クリーン”になり、しかし、と。
関係性が衝突・破綻したときに、混沌が表出してくる。


やがて、“混沌”や“闇”というのが、もっとミニマムな、一人一人の人間の心の中に封じ込まれていく。
それがどうなるか。
社会はもっとクリーンになるワケですけど。

しかし、ヤクザ映画が、その状況を、描けるかどうか。



描けるハズだとは思うんですが、まぁ、その話はさておき。



代理戦争。



面白いんですけどねぇ。


色んな要素が、なんかちょっとずつズレてる、という印象。
そこに尽きるかなぁ。


ただ、野川由美子のキャラクターが、のちの傑作シリーズを用意したんだなぁ、と。
そういうことを思った作品でした。






2014年7月28日月曜日

「容疑者」を観た

BS日テレでやってた、ロバート・デニーロ主演の「容疑者」を観た。

原題は「City by the sea」ということで、「海沿いの街」ってことですね。
NY近郊の、ロングアイランドの南岸のビーチが、そこです。

最初はコニーアイランドかと思ったんですが、もっと寂れた、つまりもっと“郊外”の場所でした。

ただ、実は、あんまり「海沿いの街」ってとこに意味はなくて、ただ主人公がそこで育った、というだけのことなんですけど、まぁ、製作者サイドには、思い入れのある場所なのでしょう。
印象的なショットが幾つかあって、その辺には“思い入れ”を感じました。



ストーリーラインは、ちょっと凝ってて、主人公は(もちろん)ロバート・デニーロ。
NY市警の刑事で、生まれ育った街(ロングアイランド)からは離れて、市内の署で勤務してて、家族はなくて、独り暮らし。
同じアパートの下の階に暮らす女性と、恋愛中。

で、かつては家庭を持っていたことがあって、元妻と一人息子とは、もう何年も没交渉のまま。
元妻と一人息子は、“地元”の、ロングアイランドに暮らしている、と。

その、息子というのが、もうホントにダメ人間で、無職のヤク中。


主人公は、“養父”がいて、養父は“実父”を逮捕した刑事、ということなんですね。
実の父親は、主人公が幼い頃に、誘拐事件を起こして、その時に、誘拐した乳児を(誤まって)殺してしまう。
その結果、死刑に処された、と。

天涯孤独になってしまった主人公を、刑事が引き取ってくれて、“養父”として育ててくれた、と。
これが、主人公が抱える“前史”としてあるワケですね。


つまり、主人公と息子、主人公と父親、という、そういう「家族の系譜」がテーマになっているストーリー。


これがですねぇ。
邦題が「容疑者」ですからねぇ。

ちょっと違う。

もちろん「海沿いの街」も、直接的には「父子関係」とは言ってないワケですけど、抽象度があるワケで、つまり“ホームタウン”のニュアンスがそこにあるワケで、少なくとも「容疑者」よりは、テーマに近い。

サスペンスとして売りたい、というアレがねぇ。
魂胆が。
デニーロ主演、デニーロが刑事で、というのは、確かにそういうストーリーなワケですけど、でもね、と。


ただ実は、なんていうか、作品全体にも、この“なんか違う”感じがずっとあったりしているワケです。

もともと、ノンフィクションというか、実際にあったことを元に作られている、ということらしく、その“縛り”があるからかもしれないんですけど、せっかく“強い骨格”があるのに、それをどう語るか、という部分に荒さがある、というか、とにかく、しっくりきてないんですよねぇ。

もったいないと思います。


まず、音楽が異様にダサい。

それから、ショット/カットが、なんかあんまり意味を持っていない、というか、これは最初の「その街である意味はあんまりない」というのと関係してると思うんだけど、そういう所が弱いんですよねぇ。

セリフとかダイアローグ以外で、つまり、「そこにあるものを映す」時に、どう映すか、なにを選んで映すか、という、そういうことで伝えられることっていうのがあるワケで、まさにそこら辺が、映画を映画たらしめているハズなワケで、観る側も、無意識にしろ意識的にしろ、そういうのを求めている部分があると思うんですけど、この作品に関しては、そういうのはあんまり感じない、と。
どうも、淡々とカットが流れていくだけ、という感じで。

まぁ、それはそれで、いいんでしょうけど、でも、せっかく、ねぇ。
こういう街で撮ってるんですから。
もうちょっと“意味”を映し出しても良かったんじゃないかなぁ、なんて。


もうひとつ、キャラクターが、なんか、薄っぺらいんですよねぇ。
主人公はもちろん、ちゃんと“存在”しているんですけど、その周囲の人たちが、どうも、違う。
ただ自分勝手身勝手に、自分の都合で、つまり作る側の都合で、自分の心情を叫んでいるだけ、というか。

脇役と言えども、主人公と直接関係する、つまり、ストーリーに直接関わってくるキャラクターたちが皆そうだと、これは巧くいかないですよ。

唯一魅力的なキャラクターは、息子のガールフレンドとして登場する女の子。
ファーストフードのドライブインで働いている、という登場なんですけど、彼女には実は、幼い子供がいて、父親は(当然)主人公の息子なんだけど。
彼女も元ヤク中で、でも今はシングルマザーとして頑張っていて、でも、という。

主人公には、なんと孫までいた、ということになるんですけど、彼女は、自分の息子(主人公の孫)を連れて、主人公のアパートに押しかけてきたりして。

その、彼女の葛藤、というか、涙のシークエンスは、とてもいいんですよねぇ。


ストーリーラインとしては、主人公の父親、息子、孫、という、つまり、息子と孫(さらに、自分と孫)の関係という、「父子関係」の重層化が起きていて、思わず呻ってしまう、という感じなんですけど。


でも、そのせっかくの骨格に対して、肉付けが、どうも巧くいってない、という感じで。



ストーリーラインは、ホントに素晴らしいと思うんですよ。


実父との屈折した父子関係。
刑事としても人間としても、優れた人物である養父。

養父に憧れるようにして、自分も刑事になった主人公。
死刑囚の息子が刑事に、という、周囲の白眼視とも、主人公は闘いながら、名刑事として、仕事に打ち込む。
しかし、自分が持った家庭は、上手くいかなくて、崩壊してしまう。

その息子との関係。
自分自身も、息子にとっては「良くない父親」なんだ、と。
そうはならないと思っていたのに、実父とは違う形なんだけど、でも、息子にとってはやっぱり「良くない父親」で、息子は、主人公に対して屈折した感情を抱いている。

そして、息子の子供、つまり孫。
生活能力のまったくない息子は、もう既に、孫に対しては「良くない父親」でしかなくて。

じゃあ、主人公は、どうするか。
息子のガールフレンドは、「疲れた」と言って、主人公に子供を押し付けて、姿を消してしまう。
主人公は、「手に負えない」と、孫を児童養護施設に預けようとする。

しかし、と。


これは、かなり魅力のあるストーリーラインだと思います。


しかし、もったいなくも、なんかズレた感じの作品に仕上がってしまっている、と。



ひとつ思うに、“男たち”だけでストーリーを収めようとしているからかなぁ、というのは、あります。

主人公のガールフレンドがいて、彼女は、孫を手放そうとする主人公を責めるんですけど、それで終わりなんですね。
責めて、アパートから出て行って、それでおしまい。

ラスト、孫と主人公との関係の中に、彼女がいるだけで、だいぶ違った印象になっていたんじゃないかと思うんですけど。



まぁ、それだけじゃないですね。



うん。








この辺で。





面白いんだけどなぁ、と。



そういう作品でした。






2014年7月15日火曜日

「アクト・オブ・キリング」を観た

京都の木屋町にある立誠シネマプロジェクトという、 “超”がつくミニシアターで、ドキュメンタリー“問題作”「アクト・オブ・キリング」を観た。


ツイッターの自分のタイムラインで、東京での公開のタイミングでかなり話題になってて、それで「京都じゃ観れないだろうなぁ」なんて思ってたんですが、予想外に、やってたので、ということで、観に行ってきました。
この「ツイッターで話題になってた」以上の情報を殆ど仕入れないままだったので、実は「アクト・オブ~」の意味をよく分かってなくて、タイムライン上の感想も、なんか普通、というか、今思うと平易で安直な(≒チープな)ものばかりだったなぁ、という感じなんですが、要するに、“ストレートな”ドキュメンタリー作品ではなかった、というか。
もちろん、仮に、この題材に対して、ストレートに作られていたとしても、それはそれで、当然かなり“強い”内容の作品になっていたとは思うんですが(で、観る前は、そういう作品だと思ってたワケです。)、実際は、そうじゃない、と。


この、二段構えの衝撃、というか。

内容の“強さ”と、手法に対する驚き。



インドネシアで過去に起きた「虐殺」について、取材をして、ドキュメンタリー作品を作る、と。
製作者は、ロンドンの「ジョシュア」という人物が、作中に、「カメラの横にいる人物」として度々言及される形で、登場します(本人の姿は映らない)。

しかし、「被害者側に対する取材は許可されない」とのことで、どうするか。

“加害者側”とは、接触できるワケです。

この、“加害者側”に、「虐殺を再現する映画を作ってくれないか」と。
“映画”といっても、まぁ、いわゆる“自主製作”の類のモノで、そんなに大掛かりのモノはできないし、しかし、現地の俳優やセットや撮影クルー、特殊メイクなんかも動員して、さらに、「再現映画を製作している有志たち」という形で、地元テレビの取材を受けたりして、チープでありながら、それなりにガッチリ製作はしているみたいなんですけど。

つまり、「虐殺」を、自作自演で再現してくれないか、と。

そういう形で、その「製作の過程」を、ドキュメンタリーの形で追う。それが「アクト」の意味だったんですね。
俺も、もうちょっとちゃんと考えてれば、タイトルの意味も少しは分かれたんじゃないかとは思うんですが。
「虐殺の演技」。


そういう、メタフィクション/メタリアルな、そういう手法で撮られた、ドキュメンタリー(ノンフィクション)作品。


インドネシアという国で起きた「虐殺」については、それ自体についてはここでは詳しくは書きませんが、ざっくりと(俺の視点で)言うと、当時世界中で起きていた「共産主義陣営対資本主義陣営」の衝突が、インドネシア国内に持ち込まれて、インドネシアでは、共産主義者とそのレッテルを貼られた人々が「虐殺」された、ということで。

ここで、“加害者側”というのが、今も実際に、インドネシアという国を“支配”している人たちで、というのがポイントで、つまり、「虐殺」が正当化されているワケです。

ここが出発点。


「虐殺」を、実際に「手足となって」実行した人物、というのが、この作品の“主人公”で、その人物は、いわゆる“地元のギャング”ですね。
「プレマン」という呼称らしいんですけど。日本で言う「ヤクザ」。

それから、「青年団」という団体。
彼らは、極彩色の迷彩の戦闘服という制服を持っていて、集会なんかでも、かなりの動員力がある組織。現時点でも、選挙で候補者を立てたり支援したりで、かなりの影響力を持っているっぽくって、まぁ、その辺は日本人の俺にも想像がしやすい感じではありますけど。
ボーイスカウトなんかよりはずっと戦闘的だし、政治的。
要するに、民兵組織。

あとは、地元の知事とか議員なんかの政治家や、小さな新聞社のオーナーみたいな、資本家。


ざっくりまとめて、右翼勢力、ですね。

彼らが、彼らが「共産主義者」を呼ぶ相手を、「虐殺」した、と。


特に主人公と、彼の“舎弟”及び“同志”は、「虐殺」について、嬉々として語ります。
要するにここが、平易な感想を呼び起こすポイントなんですけど、彼ら自身の中では、「虐殺」は、なんていうか、“権力者たち”からは正当化されていることに加えて、彼ら自身の内面の中でも、その行為を正当化しようとしてきた過去があっただろう、と。
それは、揺るぎのない強固なものなんでしょうけど。

自分の内面を相対化する、とか、自分自身に懐疑を持つ、とか、そういう“知的に高度な内省”みたいなのとは無縁に見える人たちなんで、まぁ、そういうことになるワケですけど。


「虐殺の再現」という試みは、とにかく、着々と進んでいく、と。


幾つかポイントがあるんですけど、まずひとつは、エキストラたちを使うんですね。
もうホントに、その辺の、いわゆる“隣人たち”に呼びかけて、集まってもらって、みたいな感じで。

彼らが、もう迫真の演技を見せるワケです。
いわゆる“素人”たちが。

シャーマニズム/アニミズム的な、トランス状態、みたいな。

“役”に物凄い入り込む。言い方を変えると、“役”に成り切ることができる。
被害者を演じる側は、泣き叫び、加害者を演じる側は、アジテーションに拳を突き上げる。

これは、「“熱狂”の度合い云々」という、まぁ、言葉は悪いですけど、文明論的なアレがまず出てきそうですけど、個人的に思うのは、「虐殺」の“記憶”が、まだ濃厚に残っているんだろうな、ということ。

社会全体、コミュニティ全体で、まだ「虐殺」の記憶が強く共有されていて、それが、「再現映画の撮影」という“祭り”によって、強く呼び起こされる、という。
呼び覚まされる、というか。

作品中では、それが、“加害者側”のメンタルに、非常に影響を与える、ということになっていくワケですけど。
つまり、当事者たちが“ドン引き”するぐらいなワケですよ。その熱狂、というのが。

それがまず一つ。



2番目が、主人公の“同志”として、つまり“当事者”の一人として現れる人物。
彼は、主人公とは違うレベルの“成功者”という感じで生活を送っている人物なんですけど、登場の段階で、ちょっと苦笑いだったりして。
過去の「虐殺」に対する認識、というのが、主人公とはちょっと違う。
若干“反省”している。葛藤を抱え、それを主人公たちに、小出しに語ったりするワケです。

「虐殺」を否定はしないものの、彼らの子供たちが不憫だ、とか、そんな感じで。

彼の登場は、恐らく撮る側にとっても大きなもので、「ジョシュア」は、彼が運転する車の中で、彼に対する単独のインタビューを試みます。
ところが、ここでは彼は、一切の葛藤を見せない。
「ブッシュだってやってる」と言ったりして、なんていうか、かなり強固な理論武装というか、要するに、撮る側の“期待”には応えてくれない。
ガードが固くなってる。
そういう形では、吐露しないワケです。

彼と主人公と、もう一人、同年代の男と三人で話すシークエンス、というのがあるんですけど、三人目はなんと「自分は知らなかった」と言うんですね。
これを、彼は「そんなハズはない」と斬って捨てます。「公然の秘密だった」と。
「自分は関わってない、ということにしたいんだろうけど…」的なことも、ずばり、言います。

つまり、彼は、自分たちの行為の意味を、はっきりと認識している。
“犯罪性”もそうだし、同時に、“成果”というか“効力”というか、彼らの言うところの“価値”、というか。

負の部分をはっきり認識しているからこそ、より強固に、自分を正当化する必要があるワケだし、実際、そうしている。

「虐殺」の再現において、主人公と同じように、ディティールもかなり細かく思い出してたりするんですが、その“意味”を問われた場合においては、正当性・正統性を、揺らがずに、主張する。


三つ目のポイントとして、主人公の隣人として登場しながら、「実は継父が殺されたんです」と言い出す人物。

彼は、母親の再婚相手が、華人だった、ということなんですね。
当時のインドネシアの「共産主義者」は、(ソ連ではなく)中国共産党の影響下にあって、その関連で、華人は、彼ら右翼勢力の“敵”と看做されていて、華人というだけで、拷問及び虐殺の対象だった、ということなんですけど(つまり、ここに「虐殺」の真の犯罪性の一つがあるワケですけど)、「自分の継父が、殺された」と。
その男は、言い始めるんです。
再現映画の、セット撮影の、リハーサルのときに。

「被害者側の取材が許されなかった」という状況の中で、恐らく彼は、もっとも「被害者側」に近い存在なワケですけど、そういう存在が、突如現れる、という。
突然、そう告白し始めるワケですから。

主人公たちは当然、戸惑うワケですけど。

しかし、その彼は、「あなた方を批難しているワケではない」とも言うんですね。その場で。
現政権による言論統制が効いている中では、当然そう言うしかないワケですけど、同時に彼は、なんとも微妙な表情にもなります。

つまり、ここで観る側は、「現実には、そう言う以外にない社会」というものを見せられるワケですけど。

このドキュメンタリー作品全体が、そういう“空間”の中で撮られている、と。
そういうことなワケですね。



主人公の横に常に伴う形で、カメラがあるワケですけど、そこにカメラがある、ということ自体は、実は、主人公たちの主張・立場を、肯定している形になっているワケです。
少なくとも、それを撮っている時と場所においては。


これは、実は、なんていうか、かなり暴力的、というか、かなり危うい形でもあるワケで。

主人公たちは、カメラの“肯定”を背に、例えば、街中を歩くワケです。
華人の商店主たちから、“ショバ代”的を徴収する、というより、単なる恐喝の現場、というシークエンスがあるんですけど、そこでは、商店主たちの屈辱的な姿が露に撮られています。


この“スタンス”は、実は、かなり危うい。
少なくとも、そのカメラが回っている瞬間には。

「再現してくれ。その過程を撮らせてくれ」というのは、彼らに対する“肯定”の意を含ませてのことなワケで、少なくとも、彼らには、そう信じさせている。

しかし、そういう“スタンス”でなければ、撮れないトピック、というのもあるのも間違いないんですけど。


この“危うさ”に関しては、何気に、かなり巧妙に説明が回避されていて、個人的には実は、「撮る側がもうちょっと顔を覗かせてもいいんじゃないか」という、あくまでその程度ですけど、ちょっと不満です。
まぁ、そういう、製作者サイドの“倫理”の問題と、「虐殺」のそれとを比べたら、もう、それこそ比べ物にならない、という話なワケですけど。


ただ。
こんなことを気にするのは、俺だけかもしれませんが、この作品は、形としては、“結果的に”ということになっているワケです。
結果的に、「虐殺」という、その行為の、犯罪性を抉り出している、ということになってる。

そんなことはないワケですね。
“告発”することを目的に、製作されているハズですから。
“結果的に”なワケがない。

まぁ、メタ・ノンフィクション(という言葉があれば)、ということなんだ、と言えば、それまでなんですけど。


もうひとつ、ポイントしてあるのが、主人公が使う、「サド」という言葉。
作中、「映画」(≒フィクション)が、キーワードとして頻出するんですけど、実際の「虐殺」の“参考”にした、とか、そんなことを言いながら、再現しようとしていくワケですけど、その中に、「サド」という単語も出てくる。

これは、主人公としては、「楽しんでやっていたんじゃない」と。
そういう含意だと思うんですね。

「アクション映画で、人が殺されているのを見て楽しむ」という感覚が、「サド」だと。
「人を殺すのを楽しむ」ことが“狂気”だとすれば、自分たちは、違った、と。
そういうことだと思うんですけど。

あくまで彼らの“主張”なワケで、個人的には、敢えて言及する、ということは、逆にそういう感覚があったからだ、と思いますが、これは、実際にどうだったか、というのは、難しい話だとも思います。




話を戻すと、作中の、「再現映画のクライマックス」の、(チープでありながらも)圧倒的な自己肯定感は、もう眩暈がしそうですけど、しかし、それが彼らの“現実”でもある、という。
この感じ。


そして、作品本体の、ラスト。
「虐殺」を再現する中で、「加害者」であった主人公が、「被害者」つまり殺される側を演じることで、自分たちの行為についての“意味”に、“到達”してしまう。

悟ってしまう、という。

心理療法とか、なんとかセラピーとか、ロールプレイ(?)療法、とか、そういうのに“嵌る”状態に突如陥る、というか。


こういう結末になるっていうのは、狙って撮ってたんだろうか?
もしそうだとしたら、これは凄いぞ、と。

そんな感じの感想が咄嗟に浮かんだんですけど、実際はどうなんでしょうか?



まぁ、この“結末”の衝撃度こそが、この作品が持つ本来の衝撃度なワケですけど。



こうなるか、と。



いやホントに、“結末”に対しては、そういう言葉しかないですよねぇ。



主人公の心が突如破壊される、という、そういう意味での“暴力性”も湛えているワケです。
この作品は。



うん。


そういう、衝撃な作品でした。








2014年7月7日月曜日

「瞼の母」を観た

京都文化博物館のフィルムシアターで、土曜の真昼間に平均年齢(恐らく)80歳オーバーな方々と共に、中村錦之助主演の「瞼の母」を観た。



何度も書いてますけど、“文化事業”として、フィルムアーカイヴの公開をしてるんですけど、500円なんスよ。マジで。安い!
なんか、年会費で4000円払うと、無料(タダ!)になるみたいな“サービス”もあるらしいんで、来月あたり、ちょっとマジで入会しようかと思ってます。
8回行けばトントンってことですもんねぇ。


まぁ、それはさておき。



錦之助主演の「瞼の母」。
個人的に、諸々時代劇の勉強中で、“ある筋”から「瞼の母」を勧められてまして、「古い作品だし、観るチャンスは簡単にはないなぁ…」なんて思ってたら、「…あった」と。
上映してました、ということで。


主人公の弟分として、松方弘樹が出演してて、まさかの松方弘樹つながりっていうのもありましたけど。


冒頭からしばらくは、その松方弘樹と錦之助が、二人揃い踏み、というか、まぁ、渡世人の兄弟分の関係性を梃子にして、主人公の抱える“コンプレックス”みたいなのを(たっぷりと)描写していくんですね。

ここで、なんていうか、ヤクザ(渡世人)の、“弱さ”が徹底的に語られるんです。

なんか、主人公が情けない男に見えるぐらいに。



もちろんこれは、「錦之助が演じる」という前提があってのストーリーテリングなワケで、プログラムピクチャーとスターシステムという、この時代の製作システムがあっての語り口ではあるんですけど。

しかし、“稼業”や“看板”を謳い、男らしさ・荒っぽさを主張し、競いぶつけ合う、彼らヤクザこそ、実は“弱さ”“脆さ”“後ろ暗さ”を抱えていて、単に「そう生きるしかなかった」ということでなく、「そう生きることも難しい」みたいな、そういう捻った葛藤が、ある、と。

この、「渡世人稼業の人間が持つ弱さ」をどう描くか、あるいは、描くか描かないか、つまり、内面の弱さにまで踏み込んで語るか、あるいは無視して強さや様式美に拠りかかってストーリーを語るか、というのは、なんていうか、とても大事な要素なワケですよ。

もう“思想”の問題、というか。作り手の。
それは同時に、観る側(受容する側)の“思想”の問題でもあるワケですけど。


この作品では、それがかなり強調されて描かれている、と。

まぁ、タイトルからして「瞼の母」ですから、“母性”を巡る物語であることははっきりしているワケで、当然っちゃ当然なんですけど。

そして、文盲である義兄弟二人。
“代筆”という、このシークエンスはホントに素晴らしいですよねぇ。
絶対に思いつかない。
筆を持つ手を重ねて書いてもらって、そのさなかに、あまりの近さに、「母の温もり」みたいなのを感じてしまって、泣いてしまう、という。

普通に考えれば、単純に代筆してもらえばいいワケで、「なんかヘンだな」とか思っちゃったんですよ。実は。
でも、と。

考えられたカットだった、と。
なるほど、と思ってしまいました。




で。

後半は、主人公が江戸に赴いて、母親を探す、という流れ。


この、物語が転換するときに、盲目の老女が物乞いで三味線を弾いて、(酔って)ご機嫌な町人が唄を唄うんですけど、これがかなりいい感じのグルーヴで、ちょっと新鮮でした。
ラップのフリースタイルみたいで、結構“いい感じ”で。


ま、それもさておき。



まぁ、後半は、紆余曲折あって、母親と対面を果たすも、ということなワケですけど、ひとつ思ったのは、「渡世人が生き別れの母親を探し出す」という、この“ネタ”一発なワケですよねぇ。
このネタの一発だけで、作品(≒商品)として成立させちゃっている、という、83分という、特に長尺ではないんですけど、それでも、ちゃんと一本の映画として成立してるワケで。


なるほどなぁ、と。

「よく出来てんな」と、なんかバカみたいな感想ですけど、そんなことを考えたりもしちゃったりして。



結末は、なんか色々作品ごとに違ってるっていう話なんですけど、錦之助バージョンでは、“暗さ”を抱えたまま、引きずったまま終わる、ということで、これはこれで、良いんだと思います。



うん。



あともう一つ、カメラのアングルが、凄い低いんですね。
どのカットも、ショットも。


多分、全編セットで撮影されているからだと思うんですけど、ひょっとすると、カメラマンの個性とか何かの狙いだったりするんでしょうか。
不勉強なもんで、そこまでは分かりませんでしたけど。

でも、結構動くんですよねぇ。カメラが。
引いたり寄ったり、揺れたり。

色んなことしてるんだなぁ、と。


障子を挟んで、向こうからはこっちが見えない、見えないハズなんだけどでも、みたいなカットとか、そういうエッジの効いた構図もあったりして、凄ぇな、と。




うん。


さすが古典。
面白かったです。


まぁ、やっぱり、スクリーンで観てるからだと思うんですけど、新作を観てるのと変わらない感覚で、古くささを感じない、新鮮な映画体験でした。




2014年7月3日木曜日

「県警対組織暴力」を観た

CSの日本映画専門チャンネルでやってた、深作欣二監督/笠原和夫脚本の超クラシック「県警対組織暴力」を観た。


ちょっと前に、“Fさんライブラリー”で観てはいたんですが、改めて、ということで。

もう、紛うことなき名作なワケですけど、「仁義なき戦い」で“発見”された実録路線が、ある種の“洗練”を経てこの作品に辿り着いた、という、なんていうか、一つの到達点、というか。
日本映画の歴史には、当然幾つかの“ピーク”があるワケですけど、個人的にはその幾つかあるピークの一つのような気がしますね。
もちろん、途を開いた「仁義なき戦い」も素晴らしいですけど、粘着度と湿度が増していくところと、シリーズ化されることによって、“逆に”ある種の様式を帯びるようになっていく感じもあるワケで、まぁ、完全に好みのアレですけど、個人的には、この作品のドライな感じの方が、好きです。


さて。


まず、冒頭の「この作品はフィクションである」という“但し書き”からして、もう“掴み”に掛かってくるワケですよねぇ。
タイトルと、フォント(っていう言葉でいいのかな? あの字体のことです。)のあの感じ。
「実在の○○とは無関係です」と言っておきながら、その直後に出る「倉島市」という地名のテロップ。
倉敷+広島という、誰もが「実在の地名」を浮べてしまう、この感じ。
2回捻ったら元通り、というか、「『捻れ』『捻れ』って煩いから2回捻ってやったよ」的な、せせら嗤いの顔が浮かんでくるこの感じ。
最高です。



それから、まぁ、やっぱり菅原文太ですよねぇ。

その、ちょっと大人になってる感があるワケですね。
これがいいです。
対する松方弘樹は、あんまりそんな感じがなくて、相変わらずシャープな存在感を放っているのと対照的に、文太さんは、生活感とか寂寥感とか、そういう感じを上手に背中とか肩のラインで表現してる。
サングラスの感じとかは、ワケ分かんないですけど。

クライマックスの、撃ってしまった後の表情とか、最高ですよね。


それから勿論、このクライマックスとドライ極まるラストに持っていくまでの、緻密なシナリオ。

隙がない、というか、揺るぎがない、ということだと思うんですけど、まぁ、巧いなぁ、と。
見事だと思います。

小さ過ぎず大き過ぎないスケール感とか。
出所してきた親分の、服役している中で闘争心を失ってしまっていて、なんか「毎日一時間念仏を唱える」ような爺に成り下がって帰ってくる、なんていうディテールは、なかなか書けませんよ。
田中邦衛の“使い捨て”感や、すかさずそこを攻めてくる金子信雄のあの感じとか、どこも大好きです。

あと、好きなセリフがもう一つあって、クライマックスで“裏切って”拳銃を奪って発砲した直後の松方弘樹が、既に警察の手の中にある室田日出男を呼び寄せるんですよ。
「柄原こっちこい!」って。
あのセリフは最高。
ヤクザの若頭とその右腕の関係性を、変に美化もせず、様式美に頼りもせず、強さや暴力性だけでない弱さや脆さを、つまり、人間性丸々全部を、あのセリフをあのシチュエーションに挟み込むことで、見事に表してますよねぇ。




警察とヤクザの癒着。

というか、別に警察とヤクザだけじゃないワケですよね。腐敗しているのは。
市議会議員もそうだし、コンビナートで描写される“企業”の領域も、そうだし。

そういう意味では、それ自体は秀逸なこのタイトルは、実は“テーマ”の半分も言い得ていなくて、つまり、片方に、市井という泥沼に這いつくばって身体を張ってもがいているヤクザと、刑事がいて、その反対側に、“下層”を踏みつけにしている“上層”と、“下層”を踏みつけにするだけでなく、踏み台にしてさらに自分が儲けようとする人間たちがいて、という、そういう構図なワケで。

菅原文太に「終戦を知っているか?」と言わせることで、戦争(と、敗戦)体験の有無という世代間のコンフリクトを表現しようとしているワケですけど、実はそれもテーマとしては「県警対組織暴力」というタイトルからははみ出てしまっていて、さらにややこしいことに、大きなテーマは、その世代間のコンフリクトだけでもない、という。


つまり、分断統治されている、と。
抗争させられている、ということなワケですね。ヤクザとヤクザ、ヤクザと警察、所轄と県警。
泥沼の中でお互いに牙を剥いて向かっている同士が、実は、泥沼の外側からの圧力で、そういう風に戦わされているだけに過ぎなくて、本当に牙を剥くべき相手は、実はその外にいるんだ、と。

そういう意味で、深作欣二が最後に撮った「バトル・ロワイヤル」というのは、まさにそのタイトルに現れているように、“互いに殺し合う”という、そのテーマを内包した作品なワケで。


分断統治には、“暴力”というのは、これは不可欠なワケです。
互いに憎しみ合うように仕向けられ、理性による歯止めを効かせないようにされた状態で、暴力をぶつけ合う。
そういうシチュエーションを描こうとしたからこそ、深作作品では暴力が絶え間なく描写されたワケで、ワリとそこって語られなかったりしますよねぇ。

なぜ暴力が描かれなければならないのか。


もちろん、深作監督だけでなく、笠原和夫の問題意識がそこにあったからこその、作品群なワケですけど。



まぁ、ここでは、それはさておき。



ラスト。
ドシャ降りの雨の中、長いトンネルの先、誰かも分からない相手に、撥ね飛ばされ、そして、その生死をすら描かない、という。
なんという結末。

ハードにボイルされた、ハードにドライな(しかしシチュエーションは雨天というウェットコンディションという)、この結末。


痺れちゃうなぁ。


好きです。
名作。






2014年5月15日木曜日

「L.A.大捜査線/狼たちの街」を観た

まさかの“捜査線”つながりで、BS-TBSで放送してた「L.A.大捜査線/狼たちの街」を観た。

「CSI」でお馴染み、ウィリアム・L・ピーターセン主演、ということで、若き日のピーターセンが、とてもシャープな存在感で出てきます。
「CSI」では、なんかモサモサした、なんかすっトロい印象の役柄として出てくるワケで、かなり新鮮ですけど。
敵役は、これもまた、若々しいウォレム・デフォー。こちらは、デフォーはいつでもデフォー、という感じで、怪演。



ストーリーは、けっこう込み入ってて、単純に話の面白さを感じる内容でした。

主人公は、シークレット・サービス。
シークレット・サービスっていうのは、(当時は)アメリカ政府の財務省の管轄下の捜査機関で、贋札の捜査っていうのが大事な任務としてあるワケですね。
もう一つの、要人の警護っていう任務の方がよく知られてますけど。


その、主人公は、ただ捜査官だってだけでなく、「若くて血気盛んで、やり手の」という形容詞がつく人物だ、と。

冒頭からの幾つかのシークエンスで、主人公と組んでいたベテラン捜査官が、定年で引退になって、ということが語られます。
未解決の捜査案件が一つあって、要するにそれが、ウォレム・デフォーが率いる組織なんですけど。



もうひとつ、ちょっと分かりにくい形で主人公の“人となり”を描写する要素があるんですけど、それは、「ベースジャンプ」。
ウィキペディアの項目から引くと、こんな感じで書かれています。
ベースジャンプ (BASE jump) は、地上にある建造物や断崖などの高いところからパラシュートを使って降下するスポーツである。飛行機から飛び降りるスカイダイビングと比較して非常に危険であり、エクストリームスポーツの一つに分類され、その中でも最も危険なものとされる。

つまり、主人公は、若くて、どこか“ぶっ飛んだヤツ”ってことですね。
古い言葉に「翔んでる」っていうのがありますけど、「新人類」とか「シラケ」とか、まぁ、今で言ったら「ゆとり」とか、そういう、ある時期の、ある世代の若者を指して、というより、半ば揶揄して使うアレですけど。
奇しくもダブルミーニングになってますけど、つまり、主人公は「翔んでる」ワケです。

翔んでる若者、ウィリアム・ピーターセン。

とりあえず、そういう前提で、ということで、いきなり結末みたいなのを書いてしまうと、要するに“ニヒリズム”みたいなのがテーマだったりするんです。

ニヒリズムというか、多分“生きている実感”の乏しさ、ということだと思うんですけど、ジャンプという、スリルを得ることで初めて“実感”できる、みたいな、そういうキャラクター設定。
生きる/死ぬ、という感覚に対する執着は、ただ日常を生きているだけではそれを実感することができない、というところに因るワケで、これが、「事件の解決」とは別の“疾走感”みたいなのをキャラクターに与えている、というか。


“疾走”というか、まぁ、殆ど“暴走”なんですけど、そういう、無軌道なエネルギー、みたいなのも、“若さ”なワケで。



で。


その、定年を間近に(数日後)控えた相棒が、何者かに殺害されてしまう、という事件が起こる、と。
自分と同世代の新パートナーと組んで、相棒が追っていた未解決事件を、追い始める主人公。
犯人は、贋札を作っている犯罪組織で、ということで、ここは、シークレットサービスならではの任務なワケで、面白いですよね。

で、組織のリーダー(ウォレム・デフォー)と接触することに成功して、囮捜査として、取引を持ちかける。
ところが、その取引に必要な“現金”がない、と。
上司の決裁が下りず、せっかくの逮捕の好機を逃すことになってしまう。

どうするか、ということで、主人公は、自分が使ってる(肉体関係も持っている)女から、別の犯罪組織の取引の情報を入手して、その取引で使われる現金を強奪してしまおう、と。
そういう計画を立てるワケですね。

殺されたパートナーの為に、囮捜査を仕掛けて、その囮捜査の為に、現金の強奪を企てる。

で、強奪自体は成功するんだけど、その後に、なんだか物凄い“追跡”を受ける、と。
とても犯罪組織のやることとは思えない程の、死に物狂いの追跡を受け、主人公たちも必死に逃げる。(カーチェイスのシークエンスは、結構迫力があって、良かったです。好きですね。)

その過程で、一人の男を殺してしまうが、なんとか逃げ切る。


ところが、と。


それはなんと、FBIの用意していたカネだったんですね。
FBIはFBIで、別の捜査のためにそのカネをLAに持ち込んでいて、それをシークレット・サービスの捜査官である主人公たちが強奪してしまい、死者が一人でている、という、とんでもない事態になってしまう。


この、捜査機関同士の対立、というのは、個人的に凄い好きな展開で、まぁ、そういう作品っていうのはいっぱいあるもんなんですが、この作品も、個人的に一番ツボだったのは、この、ストーリーの展開の部分。

犯罪者だと思ってたら、なんと“同業他社”だった、と。

主人公の新パートナーは、罪悪感に苛まれ、弱気を吐くんですが、ニヒリズムによって駆動している主人公は、抑えが効く状態ではなく、止まらない、と。


血塗られた“現金”を抱えて、デフォーに会いに行く主人公たち。



そしてなんと…。

最後のこの展開。

とんでもない結末。

軽く驚いちゃいましたけど。



ズバリ言うと、主人公の死。



そして、罪悪感に苛まれていた男が、ある種の“覚醒”をする、と。

自分なりのニヒリズムをまとい、そして、という結末。



う~ん。

なかなか面白かったです。





ただの刑事ドラマでなく、メロドラマでもヒューマンストーリーでもなく、しかも、「ただの刑事ドラマじゃない」というのが、“重厚に”作ってある、ということじゃなく、ストーリーに“捻り”を加えることで成立させている、という気がするんですね。

ここが結構ポイント。


重厚に、というのは、悪く言えば“肥大化”でしかないワケで、この作品に関しては、そういう方向にはいかないワケです。
主人公の家族なんて少しも描かれない。
新旧のパートナーとの関係と、情報屋の女との支配的な関係性だけ。

その中で、生きる/死ぬことを、あくまでドライに描いていく。


成功してますよねぇ。
なんか、奇妙な感動があるワケで。



うん。
誰にでもお勧めできる作品ではない、というのは間違いないんですが、この奇妙な感動というのもまた、それなりに意味と価値があるんじゃないか、というか。



そういう感じの、不思議な作品でした。


今日はこの辺で。
でわ。



2014年5月14日水曜日

「復讐捜査線」を観た

CSのFOXムービーでやってた、メル・ギブソン主演の「復讐捜査線」を観た。

原題は「Edge of Darkness」、ということで、なんだろう、直訳すると「暗闇の端」ってことで、闇と明るい部分の境界線ってことですね。

しかし、完全に余談ですが、“捜査線”って言葉、現実に使ってるんだろうか?
新聞とか、実際のニュースでは一度も見たことないですけど、タイトルにはやたら出てくる言葉。
捜査線。



で。


舞台はボストン。老いた刑事であるメル・ギブソンは、帰郷してきた娘を空港に迎えに行く。久しぶりの再会。
ところが、娘の体調が、なんか思わしくない。吐いたりしてて、「つわりか?」と一瞬思わせといて、娘本人の口から「妊娠じゃないから」と。

じゃあなんだ、ということなワケですけど、その大事な告白をする、という時に、なんと、ショットガンを構えた暴漢に、撃たれて死んでしまうんです。

この展開!

ちょっと驚きました。

地元の警察の刑事たちは(主人公の同僚でもある)、父親、つまりメル・ギブソンを狙った犯行で、娘が撃たれたのはその誤射だ、という見込みで捜査を始めるんですが、父親本人は、犯人の狙いは自分じゃなくって最初から娘だったんじゃねぇか、と、独自捜査を始める。

で、なんと、ガイガーカウンターが出てくるんですね。娘の遺品から。



被爆だった、と。



日本における“3.11以後”を予言したかのようなアレですけど、でも、良いです。


ストーリーの展開としては、核兵器の製造を巡る“陰謀”みたいなのがあって、それを告発する云々の動きに娘が加担していて、ということになるんですけど、その、軍産複合体だとか、核兵器だとかの話を、ガイガーカウンターだけでずばっと言っちゃう、という、ここですよねぇ。

シナリオの巧さ、というか。


いちいち核融合炉とか核ミサイルの弾頭だとかを、映像で表現してられないワケです。カネがかかってしょうがない。
ガイガーカウンターだけ、ですから。
これで十分。


しかしだからといって、貧乏臭く作ってるワケでは全然なくって、娘の友人とのシーンのカースタントなんか、結構凄い。


というか、なんか“音”でびっくりさせるんですよ。編集のアレで。
何度も何度も。
なんか、同じテクニックで何度もびっくりしちゃって、ちょっと複雑でしたけど。

ま、この辺も、巧いです。


それから、放射能汚染されたミルクで被爆しちゃう、というのも、時限装置みたいで、良かったです。思わぬ緊迫感。



ひとつだけ気になったのが、娘のボーイフレンドとの関係性。
娘を挟んだ親父と彼氏、というのは、もう、なんていうか、どうにでも使える“オイシイ”ギミックなワケですよねぇ。
そこが、ワリとサラッとし過ぎてるよなぁ、とは思いました。


まぁ、その分、「もう一人の主人公」とも言うべき、謎のフィクサーという登場人物がいるんですけど、彼と父親との関係性の描写に重きを置いたのでしょう。

こいつは、ホントに謎の存在。
ただ、“Edge of Darkness”を文字通り体言する存在でもあるので、作り手としては、重要なキャラクター、ということなんでしょう。



うん。


なんていうか、無駄なお金を使わないで、大きな話を上手にコンパクトにまとめて作品にしている、という、話も面白いし、良い作品でした。
お薦めです。















2014年4月24日木曜日

「レイヤー・ケーキ」を観た

CSのムービープラス・チャンネルでやっていた、ダニエル・クレイグ主演の「レイヤー・ケーキ」を観た。

2004年のイギリスで製作、ということで、全然知らない作品でした。
監督は、マシュー・ヴォーンという人で、ガイ・リッチー人脈の人らしいんですが、G・リッチーとは一味違うスタイリッシュさがあって、好感。


良い作品でした。
面白かったです。

原作の小説がある、とのことで、映画化に関しては、脚本もその作家が担当してます。この、シナリオが、まず良い。
かなり込み入ったストーリーで、まぁ、幾つもどんでん返しを、みたいな作りになってるんですが、なんていうか、ただ“裏切る”だけじゃない、と。
ちゃんとストーリーとして成立してて、無理のない形でひっくり返していく。

これは、なかなか出来ないですよ。
後から考えても、ちゃんと辻褄が合うようになってたりとか、“ちゃんと”作ってある、という感じで。
破綻がない。

これは、画や演技も含めた、作品の映画としての要素ひとつひとつがちゃんとシナリオを支えている、という、ことだと思うんですね。
ひとつひとつの要素が、作品を構成する要素としてそこに在る、という。

回りくどい書き方をしましたけど、要するに、バランスが良い、と。
そういうことだと思うんですけど。



ストーリーは、麻薬密売組織の一員である主人公が、自分の“ボス”からなんかやっかいな仕事を振られて、なんか振り回されてだんだんドツボに嵌っていくんだけど、というのが大まかな流れ。

D・クレイグは、組織の中の小さなグループのリーダーで、仕事は卸売り。

ワリとやり手で、振る舞いもクールで、オープニングも、主人公のクールなモノローグから始まるんだけど、と。

その組織に、かなり“ギャング度”が高い、荒くれ者たちのグループが、“対岸”のオランダ・アムステルダムから大量のエクスタシー(錠剤)を持ち込んできて、買い取ってくれ、という話になるんだけど、その大量の錠剤は、実は“製造元”のセルビア人組織から、買い付けてきたモノじゃなくって、銃で脅して奪い取ってきたモノで、つまり盗品だった、と。

で、冷血で知られるセルビア人組織は、奪還と制裁のために、ヒットマンをロンドンに送り込んでくる。

主人公は、金額で折り合いが付かない、という理由で、その取引を嫌がるんだけど、自分のボスの命令で、その盗品の大量の錠剤を、買い取って、売りさばかなくてはならない。


同時に、そのボスから、別の仕事の話があって、それは、ある娘を探し出してくれ、と。
育ちのいい娘なんだけど、ドラッグを覚えちゃって、ジャンキーの男と一緒に失踪してて、ということで。
で、主人公は、自分の“配下”の2人組の男に、その娘を探し出すように命令する。


で、なんかごちゃごちゃ話が進んでいくんだけど、ストーリーが展開するにつれて、主人公はどんどん追い込まれていく。
ドツボ。
にっちもさっちもいかなくなってくる。

セルビア人のヒットマン(名前は、ドラゴン。ストイコビッチと同じ名前)は超凄腕だし、娘はなかなか見つからないし。


で、ここで、その“ボス”よりも強大な“大ボス”みたいなのが登場するんですね。
この辺の展開は、ホントに面白いです。

その“ボス”が実は裏切り者なんだぞ、と。その“大ボス”が告げるワケです。


これって、実は結構新しいですよねぇ。
自分のボスが裏切り者だった、という。

そもそも今の事態は、その“ボス”と“大ボス”の対立が原因だった、という。
ビックリする主人公。
そして、そのボスを射殺。
で、その夜は、バッドトリップしちゃうんだけど、翌朝には、クールにしゃきっとして出てくる。
この辺の描写も、斬れ味があって良いです。


で、ボスは殺したんだけど、主人公のドン詰まり状態は解消してなくって、今度はその大ボスの圧力を受ける。

セルビア人組織と、大ボスと、盗品の“ブツ”を持っている荒くれ者たち。

そのにっちもさっちもいかない状態を、一気にズバッと解決するんですけど、それがなんと、警察で、という。
これは面白かったですねぇ。

それで、押収されたブツを、また持ってきて、と。


巧いです。
この辺は、原作の小説の筋書きなワケで、まさしくシナリオの勝利ということなんですけど、見事ですよねぇ。

また、D・クレイグの、ニヒルな感じの表情がいいんですよ。

恐らく作品の主題である、ニヒリズム/ペシニズム、「人間万事塞翁が馬」みたいな、因果応報的な雰囲気を、身体全体で物凄く巧く表現している。

いいです。


この、作品の要素すべてががっちり噛み合ってる感。


うん。



知らないで観たんですが、大満足の作品でした。











2014年2月13日木曜日

「地下水道」を観た

ポーランドのアンジェイ・ワイダ監督の「地下水道」を、京都みなみ会館で観た。



いやぁ、凄いものを観てしまった…。



京都には、小さいけどかなりディープなミニシアター文化が(どうやら)あって、そのミニシアターの一つ、京都みなみ会館という映画館でやってる、特集上映「ポーランド映画祭2014」の上映作品のひとつ、ワイダ監督の「地下水道」を。


ポーランド派。
恥ずかしながら、初めてでした。


舞台は、ドイツ占領下のワルシャワ。大戦末期、いよいよドイツの敗戦が予見されるようになったことから、ポーランド国内のレジスタンスが蜂起して、という。


まず、冒頭の長回しがハンパないです。
爆撃と砲撃で廃墟と化した都市の、街路を、レジスタンスたちが縦隊で歩いていくんですけど、もう延々歩いていく。走ったり、物陰に隠れたりしながら。
それを、ナレーション入りで、延々と撮る。

単純に、「セットどうなってんだ?」って感じなんですけど、要するに、作品全編でそういうことになってて、もうそんなこと言ってられなくなる、という、とんでもないことになってるんですけど。


で、それはともかく、戦うレジスタンスたち。


なにげに、部隊に愛人を同伴してたり、ちょっとアマチュアな感じの中隊が戦うんですが、彼らが、重装備のドイツ軍に圧倒されて、退却することになり、市内に張り巡らされた“地下水道”に潜る、ということに。

この、煉瓦作りの下水道の中を、中隊の生き残り(レジスタンスの女性が2人含まれている)たちが、進んでいくワケですけど、ここから、雰囲気が一気に変わるんですね。
ドイツ軍との戦いが、なんか、自分たちとの闘いに変化・転化する。


この、サスペンス感。
凄いですよ。ホントに。


下水の泥の感じとか、なんか湯気を上げてたり、「ドイツ軍に毒ガスを浴びせられた」と叫んで狂気に陥っていくレジスタンスたち、とか。

下士官みたいなヤツが、部下を気遣う隊長にウソの報告をしながら、とか…。

暗闇、泥水、汚泥、閉塞感、圧迫感、酸欠、疲労、苛立ち、ルートを見失った焦り、絶望感、などなど…。


そして、地上へ出るための、何通りかの出口(マンホール)。
これが強烈。
河へ出る排水溝には、なんと鉄柵。そこで息絶える恋人。
希望と共に這い上がったところにいる、ドイツ兵と、銃殺を待つ同胞たち。
そして、手榴弾のトラップ。


どれもエグい。
このサスペンス感は、物凄いと思います。


特にですねぇ。。。
ドイツ兵たちが待ち伏せしている、なんかの施設の中庭みたいな場所のショット。
ここも長回しで、中庭をパンしていくんですけど、ドイツ兵が背後に立ってて、その先に、虜囚となった同胞のレジスタンスたちがいて(その、絶望し切った表情!)、その先には、銃刑場代わりになっている壁があるんです。
血の痕があって。

いやぁ、痺れた。


そして、ラストシーン。
部下を探しに、地下に戻るか、否か。
隊長が、逡巡するんです。
あんなカット、観たことないです。マジで。



う~ん。


だから、戦争云々やレジスタンス、ドイツ軍による占領、というトピックを題材として取り上げながら、ちょっと別の部分、サスペンスのストーリーテリングという、ある意味では映画としての根幹の部分に、物凄い力強さがあって、むしろにそこに強く惹かれる、という。


もちろん、これは、今の時代に今の自分が観たら、という前提でのアレであって、だからこそ今も色褪せない(観るべき)価値があるんだ、ということが言いたいワケですけど、それが、実際の作り手の側の意図と合致しているかは、また別の話ではありますけど。



いやぁ、貴重な体験をしてしまったなぁ、と。



傑作です。
別に改めて言うことでもないんですけどね…。









2014年2月9日日曜日

「金環蝕」を観た

BS朝日でやってた、「金環蝕」を観た。



知らなかったんですが、政界の汚職を描いた、なんか物凄いオールスターキャストの作品。
実際にあった汚職事件をモデルに、登場する人物も、みんな実在の人間をモデルに描かれている、とのことで、「史実を忠実に描く」のがテーマの作品、ですね。
1975年に製作されてて、原作はさらにその10年前に刊行されています。


という、“データ”をまず書き出しておかないといけないワケですね。


結論から言うと、けっこう面白かったんですが、なんていうか、“強いストーリーライン”というのを感じることはなくって、それは、平成26年の現代では、この手の“汚職の構図”っていうのは、もう十分過ぎるくらい知らされているからなんですね。

だけど、原作が書かれた時代や、映画化された時代には、多分まだ“新鮮味”みたいなのがあって、その「巨悪を暴く」みたいなテーマはそれなりにキャッチーだったと思うんです。

個人的には、だからストーリー自体にはもう新鮮さは全然なくって、ただ、こういうジャーナリスティックな作品も作り得るんだ、という、そこですよね。

オールスター、ですから。



とにかく、登場人物に“善人”なんか一人も居ないワケですよ。

唯一、高橋悦史演じる“ジャーナリスト”が、“正義”っぽいことを口にするんですけど、彼自身も、なんか町工場の2階に狭苦しい事務所を構えた、怪しい情報誌の主宰者、という役どころで、電源開発公社の社長から「賛助金」の名目でカネをせしめてる、みたいなアレで。


なんかもう、凄いですよねぇ。ドロドロ。


宇野重吉の、なんかもう原形が分かんないくらいの“異形”な役作りとか、やり過ぎちゃって逆に聞き取りにくい、みたいになっちゃってますけど。
仲代達也も、顔色すげー悪いし。



あと、徹底した男尊女卑の描写は、面白かったです。
女は、なんかもう、“男の持ち物”なんだ、みたいな。

ジャンヌ・ダルク的なヒロインなんか、登場しませんから。



誰もが、欲のために生き、欲のために話し、欲のために動き、欲のために殺し、そして死んでいく、という。



まぁ、アレですよね。
ALWAYS 三丁目の夕日」とセットで観たら、なおいっそう面白いんじゃないんでしょうか。
(俺は観ないけど…)




うん。
なんか、ざっくりし過ぎの身のない文章になっちゃいましたが、面白いのは間違いないです。


高橋悦史、好きだし。
いい俳優さんですよね。













2014年2月7日金曜日

「デビルズ・ダブル」を観た

CSのムービープラス・チャンネルでやってた、リー・タマホリ監督の「デビルズ・ダブル」を観た。

この作品は、邦題として副題が付けられてまして、それは「ある影武者の物語」。
“ダブル”っていうのは、影武者(古い言葉ですけどね。他にいい言い方ないんだろうか…)って意味みたいで。



そうです!
只今日本全土が激震中の、佐村河内守さんでお馴染みのワードになってる、あの“影武者”なんですっ!

いやぁ、奇遇。

もちろん、この河内守さん(いや、冗談ですよ。佐村河内さん)のトピックも、ドラマ化必死ってことで、特にノンフィクション系のライターさんたちは、今頃色めき立っていることでしょう。
こんなドラマチックな話、そうそうないですからねぇ。


いや、下世話ゴシップなモードは、これくらいにして。



太平洋を股にかける漢、リー・タマホリ監督による(ちなみに、タマホリって名前だけに、“ある種”の性的スキャンダルの持ち主でもあります。悪しからず)、あの、イラクのサダム・フセインの長男、ウダイの“影武者”の話。


北朝鮮の金正日にも、影武者がいた(しかも、何人も)って話ですけど、作中でも、父であるサダムにも身代わりの贋者がいて、そして、自分は長男の影武者で、というシークエンスが出てきます。



いやしかし、凄まじい。


正直、“替え玉”の“主”である、ウダイ・フセインの鬼畜っぷりが凄すぎて、ドン引きしちゃいましてですねぇ。。。
物語に入れないんですよねぇ。気持ちが。

まぁ、このリー・タマホリって人は、「へビィな題材」をへビィなままそのまま受け手に投げてくる、という作風の映画作家でして。

いや、とんでもないですよ。


ストーリーの、それこそ80%くらいが、ウダイの悪行みたいな感じですからねぇ。
父親のサダムが、ちょっと良識のある人物にすら感じてしまう、という、ワケの分からない心情に陥ってしまう、という。


しかし、この、“狂人”と、その“悪”に取り込まれないように精神的に一生懸命抗う“影武者”を、二役で演じてる、と。
要するに、ここを観る作品なんですよね。本来は。

合成なのか、どうやって撮ってるのか全然分かんないですけど、そこの撮影テクニックと演技(演じ分け)は、ホントに凄いです。巧い。

特に、「影武者が“主”を演じようとする」のを演じる、というシーンが幾つかあるんですけど、そこが凄い。
ちゃんと「影武者が演じてる」ようになってるんです。


その影武者本人の自伝を基にしている、というのもあって、「俺がお前」「お前が俺」みたいな、アイデンティティや自己の実存に深く潜っていく、というような展開にはならないんですけど(個人的には、そういう話だと思ってたので)、まぁ、これはこれでいいんでしょう。


もう、ハンパないっすよ。独裁者の息子って。



あと、映像のタッチがちょっと独特で、詳しくは分からないんですけど、新鮮でした。
どういう手法なんでしょうか?
プラスチックみたいな、なんていうと全然伝わらないと思うんですけど、光量が凄い多くて、なおかつ凄く鮮明に撮ってる。
まぁ、砂漠の国ってことで、光量の感じはそこを狙ってるんだと思うんですけど、黒味も強くて、なおかつクリアなんですね。

この画のタッチは、詳細が分からないだけに、気になるトコです。



でも、旧イラク政権の内情をこういう形で描いているワケですけど、かつての国情っていうのが、ここで描かれている通りだったのなら、「イスラム過激派」と協力関係にあるワケないよなぁ、と。
物凄く素朴なアレですけど。
宗教性って、まったくないですもんね。

そもそもフセイン政権っていうのは、隣国のイラン(革命によって、政教を完全に一致させた政体の国)に対する防波堤として、各国から有形無形の支持を受けていた、という成り立ちを持っているワケですけど。

ま、そういう大きな話は、いいですね。



そんなワケで、諸々、見る側を試してくるような作品ですけど、観る価値はある良い作品だと思いました。
でわ。


2014年2月6日木曜日

「96時間」を観た

CSのムービー・プラス・チャンネルで放送していた、リーアム・ニーソン主演のヒット作「96時間」を観た。


原題は「Taken」ということで、“盗られた”とか、そういう意味でしょうかね。「持ってかれた」ってニュアンスでしょうか。
この邦題だと、実はあんまり切迫感が伝わらない気がしたんですけどねぇ。“96時間”って、結構長い気がしちゃって。
単純に“48時間”の2倍ですもんねぇ。


ま、瑣末な話はさておき。


リーアム・ニーソン主演、です。
個人的には、こういう、所謂“演技派”の俳優さんがアクション作品に出る、というのは、大賛成で、やっぱりいいワケですよねぇ。L・ニーソン。

製作はリュック・ベッソン組、ということで、脚本にもL・ベッソンがタッチしてますけど、脚本は、「上手い」という部分と「チープ…」という部分が、なんか、交互にっていうか、なんかマダラなんですよねぇ。
ムラがある、というか。

話の運び。

巧いなぁ、なんて思うポイントもあれば、「?」ってトコもあるし、あとは「技に溺れたな」みたいなトコもあったりして。
「グッド・ラック」って言わせる、とか、別に要らないと思うんだよなぁ。
相手が“口癖”でその言葉を使ってて、去ろうとしている主人公に皮肉として言い返す、みたいな感じで十分掴めるし。

あと、最初のトコ、心配しすぎですよねぇ。
まるで“予知能力”があるかのように、危機に陥ることを心配している。
ここもですねぇ、なんか娘の愛らしさに押し切られちゃって、渋々認めたんだけど、みたいにしておいて、あとでその判断を悔やむ、みたいにすれば、もっと滋味が出たんじゃないかなぁ、なんて。


まぁ、いいんですけど。


でも、プロローグ(旅立つ前)の父娘の感じとか、いいですよねぇ。
あういう心の機微みたいなのは、いいです。L・ニーソンの渋い雰囲気が、憂いがちな父親の感じと合ってて、良かったです。こういうのは、好きです。


あと、もう一つ好感を抱いてしまったポイントがあって、それは、格闘シーン。
L・ニーソンが、元CIAのエージェントとして身に着けた格闘術で、敵と素手で闘う、というトコなんですけど、いわゆる、マーシャルアーツってヤツで。

これ、「今から格闘シーンでーす」みたいな“臭味”がないのが良いな、と。
「はい、魅せ場でーす」みたいに作られてると、とたんにB級・C級感が出てきちゃうワケですよねぇ。
アクションシーンもちゃんと作ってるんだけど、わざとらしくもない、という、この辺はイイ感じだな、と。
良かったです。


あとは、やっぱり「パリの暗黒面」ですよねぇ。
売春婦が街角に立ってる感じとか、良かったです。
建築現場のコンテナ事務所の中に売春窟がある、とか、普通じゃなかなか発想できないと思います。
良かった。


うん。



いい作品ですよね。ヒットするのも納得です。
L・ニーソンって、華があるタイプの俳優さんじゃないけど、キャラクターとしては、それがいい、と。
悩めるパパ、ということですから。



その辺の、製作サイドの狙いが上手にハマってる、良作でした。














2014年2月5日水曜日

「ストーン」を観た

CS(FOXムービー)でやってたのを録画してあった、ロバート・デニーロ主演の「ストーン」を観た。


いや、平日の昼間からなかなかなモノをぶっこんで来るな、という、CS放送の番組編成の奥深さを改めて感じた作品だったんですが、とにかく地味で、かつ、かなり深くえぐってくる、という作品でした。

テーマはずばり「信仰心」。
“宗教”とか、具体的な“キリスト教”とかよりも、もうちょっと深く踏み込んだ領域を描こうとしています。
デニーロ演じる主人公は、刑務所の職員として、仮釈放を望む囚人たちを審査するのが仕事。(看守ではない)
そのデニーロに仮釈放の審査を申請している囚人役に、エドワード・ノートン。
その囚人の妻で、主人公を誘惑する役が、ミラ・ジョボヴィッチ。
もう一人、大事なキャラクターで、主人公の奥さん、という人物が出てきて、だいたいこの四人でストーリーが回っていきます。


とりあえず、仮釈放の申請をするエドワード・ノートンと、それを審査するデニーロ、という構図が多いんですけど、ノートンは、刑務所内での生活の中で、一枚のパンフレットを手にして、そこに書かれている、やや“カルト”チックな教義に影響されて、なんていうか、ある種の“信仰への目覚め”を経て、人間性がちょっと変わってくるんですね。


片や、真面目人間として描かれるデニーロなんですけど、そもそも冒頭で描かれる“悪徳”と、なんと、ミラに誘惑されて“堕ちてしまう”、ということで、“善人”と“悪人”が、立場が入れ替わってしまって、と。
そういう話です。



「ストーン」というのは、E・ノートン演じるキャラクターの苗字なんですけど、なにか他に意味を含ませている言葉なのかは、ちょっと分かりませんでした。
多分、あるとは思うんですけど。
なんなんでしょう?
「石みたいな人間」ってことなんでしょうかね?
固い≒硬い・堅い、とか、無感動、とか。
不感症のことを、なんかこんな言葉(スラング)で言ってたのを、観たか読んだかした記憶がありますけど、ちょっと自信ありません…。


あと、なんつってもミラ・ジョボヴィッチ。

アメリカの、特にインディペンデント系の映画には、何故か、こういう「無邪気で、美人で、物凄い魅力的で、男を惹きつけてやまない」女、というのが良く登場するんですよねぇ。
コケティッシュで、本人は無自覚なんだけど、周囲の男たちを振り回して、そして男はグチャグチャに巻き込まれて、人生の泥沼に堕ちていく、というストーリー。

こういう、なんかとんでもない魅力を持った女に振り回されたい、みたいな潜在的な願望があるんでしょうか。

殆どの場合、オツムがちょっと足んない、という感じで描かれるんですけど、その、コケティッシュ、というトコが、いわゆるファムファタールとはちょっと違うニュアンスなんですけど。


なんか、“そういう女”への憧憬、みたいなのがあるんですかねぇ。
そこら辺の感覚は、ちょっと分からないんですけど、とにかく、ミラが演じるキャラクターっていうのは、そういう感じ。
デニーロが、ミラに誘惑される、と。そういう話。
同時に、自分の“信仰”に疑問を抱いてしまう。

E・ノートンは、かなりエキセントリックに信仰にハマっていくんですが、対照的に、デニーロは、自分の信仰心への不信感を覚えてしまう。

それは、どちらも、それまでの自分の人生そのものに対する疑問なワケですよね。
自分の人生丸ごとを、否定しないといけなくなってくる。


ただですねぇ。
この作品は、情報量が多いタイプの作品ではないワケです。
テンポで引っ張る作品でもない、情報量の密度を上げて惹きつけるタイプでもない、と。
間、というか、隙間がいっぱいある。
で、観る側が、その隙間の時間に、考えさせられる、と。
そういう隙間があることで、受け手が自分で考えさせられる、そのことが作品に奥行きを与えている、と。
そういうことなんだと思います。


とにかく地味だし、テーマも抽象的で突き刺さるアレでもないんですけど、不思議な説得力がある、という、そういう作品でした。




2014年1月13日月曜日

「たそがれ清兵衛」を観た

BS日テレで、山田洋次監督の「たそがれ清兵衛」を観た。


もう12年前、ですか。
山田洋次監督が、寅さんシリーズを作り終えて、「学校」シリーズの後に時代劇を撮り始めて、その最初の作品。

宮沢りえが物凄い可愛い、というか、美しいですけど。


脚本は、山田洋次監督と朝間義隆。


東北の小藩を舞台に、ということで、時代考証云々が語られる作品ですけど、個人的には、(十年以上経っている、ということもあるんでしょうけど)その辺はあまり気にならない、というか、なるほどな、というぐらいで。

リアリズム/リアリティっていうのとは別に、やっぱり“山田洋次節”的なモノで満ちている作品なワケですよねぇ。


閉塞感・緊張感に満ちた幕末という時代背景なのだ、ということを宣言しておきながら、その閉塞感や緊張感とはまったく異なる、日常、あるいは日常の幸福、家庭、というモノを主人公は追い求め、しかし、これまた“時代の空気”とはまったく別のベクトルの“権力”と“権威”と“因習”みたいなのが、彼を押し潰そうとする、という。

主人公は、ある種求道的でもあるんですけど。

権力・権威の側が安易に利用し得る「武士として~」の“生き方”から、主人公は「逃走することで闘争している」という、まぁ、まさにそこが、山田洋次のイズムなんだろうな、という。


「日常の幸福感の尊さ」が謳い上げられるワケですけど、実は、それもある種の“手段”なワケですよ。
貧しさひもじさ、情けなさ、絶望感、閉塞感、などなど。
身分差、貧困、病なんかは、全て不条理であって、主人公にとっては、その不条理の圧迫から逃走するための、“逃走先”として、家族があるワケです。
「家族を護り、子の成長を愛でる」ことで、ようやく本人は自分を保つことができる。


この“逃走”を全肯定するところにこの作品の主題があり、ひいては山田洋次の「作家のテーマ」なワケで、求道者的に振舞うか、あるいは、笑い笑われながら生きていく姿を描くのであれば、それは「寅さん」になるワケですけど。



ラスト、彼と剣戟を交わす敵役の藩士は、結果的にはその“逃走先”がなく、「逃げろ」と促されつつも、「自分のプライド」≒自分自身、という言い訳を背に、刀を抜く。

で。
革命だとか体制転換だとか(つまり、大政奉還)、あるいは藩内の権力闘争とかには、主人公は「興味がない」という風に描かれるワケですけど、本当のところは実は、「そこに加わる資格すらない」ということなんじゃないか、と。

いや、作品中では、そう語られることはないんですけどね。
あたかも、「主人公はそう人生を選択した」という描写になってますけど。


ここは、少し難しいところ。





いや、別にいいんですけど。



ちょっと視点を変えて、画の作り方にも、やっぱり山田節が溢れています。
山田洋次の“手クセ”の一つに、エキストラが第三者として割り込んでくる、というのがあります。
単純に、画面の一番手前に、通行人が現れて横切っていく、というアレなんですけど。

多分、そうやって動く者が入ってくる、という“動き”そのものが映画なんだ、という意識があるだと思うんですけど、逆に、「入らない」ことで、緊張感が高まってしまうことを嫌うからなんじゃないかなぁ、というか。

主人公と相手役が二人だけで話していると、映画では、それだけで緊張感がチャージされちゃうワケですよね。
緊張感っていうのは、別にマイナスの感情ってだけじゃなくって、恋愛感情もそうだし、もちろん、敵意もそうなんですけど。


そういう感情がいちいち高くなってしまうのを回避するために、山田洋次は、たびたびこの手法を使います。(一般的な方法論でもあるんで、別に特別な何かってワケじゃないんですけど。)

あと、単純にムラの風景を遠景として撮る、という場合でも、単に風景を撮る、というだけだと、そこに意味が生まれてしまう場合があって、それを回避するために、そこに「日常生活を営んでいる」ことの記号として、通行人を入れてくる。

ただ、結果的に、画面の中の人口密度が上がっちゃうんですよねぇ。
寒村、鄙びた邑、みたいな感じが、薄まっちゃうんですよねぇ。
人が普通に歩く、ということは、「なんだ、元気に歩いてんじゃねーかよ」的なことになりがちなワケで、しかし、通行人を演じるエキストラが、そこまで“演技”をするワケでもないワケで。


ま、それも枝葉の話、ですね。


なんだかんだで良妻賢母のバリエーションを描く、という女性観も含めて、山田洋次イズム全開の、という形容詞が付く時代劇、と。




真田広之のちょっとずんぐりした体型に「小太刀」っていうのは、良かったですね。
最初は、草臥れた下級武士・小役人にはちょっとな、なんて感じたりもしたんですけど、良かったです。



というより、リアリティすらも「演出の為の手段」なんだ、と。
演出、というのは、作品の主題を伝える為のモノですから、要するに、リアリズムすらも、そのためのツールなんだ、という部分。
役者だって、という、ね。
言い過ぎかもしれませんけど。




あと、宮沢りえはホントに綺麗だな、と。
リアリティは全然感じないんですけど、でも、いいんですよね、これで。



というワケで、「時代劇の勉強中」という個人的なエクスキューズを抜きにしても、面白い作品でした。








2014年1月10日金曜日

「野良犬」を観た

京都文化博物館フィルムセンターで、黒澤明監督の「野良犬」を観た。


京都の、もうホントに市内のど真ん中にある文化博物館は、フィルムライブラリー事業というのがあって、そのアーカイブを上映してるんですよ。
500円で。

http://www.bunpaku.or.jp/exhi_film.html


実はいま、曲がりなりにも京都で暮らすことになったもんで、利用しない手はないな、と。

やっぱり、東京と比べると、ミニシアターは少ないんですけど(大阪まで出れば、いろいろあるんでしょうけど)、まぁ、京都は映画産業の街でもあるワケで。
今まで、正直あまり意識したことはなかったですけどね。

でもまぁ、行ってきました。
クロサワ。


今さら何を言うことがあるんだ、という感じですけど、とにかく“初期の名作”でもある、「野良犬」です。
未見でした。
本とかで間接的に内容を知ってるぐらいで。

勉強になりますよね、やっぱり。



まず、冒頭、志村喬の登場するシーンの強さ。
その後の、苦悩する三船敏郎に掛けるセリフ、「コルトがなけりゃブローニングでやったさ」。

この辺はやっぱり、いいです。

それから、やっぱりテクニカルな方法でサスペンスを魅せる、部分ですね。
野球場の、あの感じ。
もしくは、ホテルのロビーの、あの公衆電話とその直前の言葉のやり取り。

改めて気付いたんですけど、延々と闇市の巡り歩くシークエンスでも、画の構図、というか、切り取り方っていうのは、ワリとスクウェアなんですよね。
ワリとスクウェアで、きちんきちんと撮っていく感じ。
もちろんこの感覚は、今だからこそのアレなワケで、当時は手持ちのカメラだってなかったワケで、とにかくデカいカメラをゴツい三脚に乗せて撮る、ということしかできかなったワケですから、それでいいんですけど、でもその“制約”の下でも、緊張感・緊迫感をチャージしている。

それは、「全部を見せない」というテクニック、ということだ思うんですけど。

まぁ、見事ですよ。
シナリオの勝利でもあるんでしょうけど。

場内アナウンスで2回呼び出す、とか、最高ですよねぇ。



もちろん、主題も。

追う側と追われる側の関係性を主題にして、表裏同一であるかも、とか、お前は俺なんだ、とか、そういう、“ポストモダン”に片足突っ込んでいる感じは、この時代を考えれば、やっぱり圧倒的に“新しい”ですよ。

現代/現在でも全然通用するテーマだし、プロットだし。
その“新しさ”には、ちょっと圧倒される感じ。



やっぱりかなり異端視されたと思うんですよねぇ。

なにしろ、戦後すぐの頃ですから。
「復員」とか「アプレゲール」とか、そういう言葉が何度も出てきますけど、そういう時代。
その時代に、美男美女のファンタジーではなく、リアルな世情をリアルに描く、という、それだけで相当エッヂが立ってるな、と思うワケですけど。

しかし、同時に技術的な巧さと“腕力”でもって、“ウケ”も同時に取る、という。
異端にして王道、豪腕でありながら職人技も。

そして何より、悩める青年を演じる、三船敏郎。
あるいは、“大人の余裕”を装う難しさに悩む中年、志村喬。

刑事に“告げ口”なんかしない、という、脆さを必死に繕おうと突っ張ってみせる淡路恵子。





あと、科学捜査なんかも盛り込まれてるんですね。
線条痕。
それから、聞き込み。尾行。過去の捜査のデータの照会。
若い刑事とベテラン刑事のコンビ。


いいですよねぇ。



わざわざ出掛けて行った甲斐がありました。
スクリーンで観れたのは、結構貴重な体験だと思うしね。


うん。



よかったです。さすが巨匠。









2014年1月7日火曜日

「ゼロ・グラヴィティ」を観た

JR二条駅の駅のすぐ目の前にある、TOHOシネマズ二条で、3D作品「ゼロ・グラヴィティ」を観た。


事前に情報をあんまり仕入れず、単に「かなり良いらしいぞ」ということだけで行ったんですが、いや良かった。
かなり良かったですね。


観た直後の(手前味噌ながら)自分のツイート。
思わず、呟かずにいられませんでした。



やっぱりこの、ヒューマニズムっていうか、いわゆる“人間本位”な所ですよね。

なにかとんでもない事態、天変地異とか神の怒りの鉄槌とか、凶悪犯とか、そういうことじゃない、と。
そもそもの起こりからして、思い違い、というか、こうなることを予想していなかった、というヒューマン・エラーなワケで、そこから、宇宙に取り残されたたった二人の苦闘が始まるワケですけど、その二人しか出てこない、という、この荒業。
(ちなみに、あと数人出てくるうちの一人は、死体。もう一人は、無線の交信相手で、エド・ハリス。)


一人は、「スピード」でバスの車内で“加速度”に絡め取られた、サンドラ・ブロック。
もう一人が、軽薄に喋り続ける、ジョージ・クルーニー。
G・クルーニーはしかも、殆ど素の顔が登場しません。ガラス越しの顔が少し。薄笑いを浮べた表情で。


そして、サンドラ・ブロックも、決してスーパーウーマンじゃないワケですね。
リプリーやサラ・コナー的なイズムではなく、娘を失った過去を抱える、科学者、という役どころ。

そんな、あんまり“フィジカル”なキャラクターでない彼女が、生き延びるために、一生懸命頑張る、と。
いいですよねぇ。サンドラ・ブロック。素晴らしいです。



ともかく、喋り続けるワケです。クルーニーは。
ウザい。

しかし“状況”が変わると、「喋り続けること」が命を繋ぐシグナル、というか、ある種のライフラインになるワケですよねぇ。
地球との交信もそうだし、その二人のお互い、ということでもそうだし。
興奮してはいけない状況で(酸素がなくなるので)、落ち着け、と言うこともそうだし、喋り続けることで生きてることを確認することもそうだし、なにより、自分の“おしゃべり”で、相手の気持ちを静める、という。
無駄口を交わすことで、人間は“平常心”になれる、ということですよね。気がまぎれる。
集中し過ぎても良くない、というシチュエーション。思い詰めるな、と。

そういう、コミュニケーションの“効用”を、彼は知っているワケです。

その結果、「ミッション・コマンダー」である彼は、常に状況に対して、こうすれば“生き残れる”という解決策を、彼女に告げ続けることができる。


この辺の、シナリオにおけるキャラクターの“効かせ方”っていうのは、ホントに素晴らしい。

そして、四苦八苦(さらに十六苦ぐらい)して、彼女は、地上に帰って来る。


ここっ!


いったん海に沈んじゃう、という、ここですよ!

宇宙服を、彼女が脱ぐワケです。
これが良い!
裸の人間、つまり裸のヒューマン、生命体としての人間。



その、ひとつの“生命”が、海の、波打ち際に、現れるワケです。
ここは、なんていうか、生命の進化のメタファーでもあるワケですね。
遥か昔、海の中にいた生命が、地上に進出してくる。その瞬間の、メタファー。

そして、立ち上がる。立ち上がろうとする。
そのときに、“重力”が、彼女をグッと引っ張る。地面に向かって。

帰ってきた、と。


この「帰ってきた」という描写を、彼女を“裸”にして語る必要があるワケです。
絶対に。
どうするか?
いったん海に放り投げる、という、そういう解決策が、このシナリオには盛り込まれていて、それがさらに、感動的なラストカットに必然的に繋がっている。

これが、着陸用ポッドから宇宙服姿のまま出てくる、というだけじゃ、ダメなワケですよねぇ。
感動が全然足りない。
“生命体としてのヒューマン”を出せないワケですね、それでは。
かといって、裸のままポッドに乗り込んで、というワケにもいかない。それだと、今度はリアリティーを逸脱してしまう。

ここの、最後の5分くらいのアレは、ちょっとホントに感動的でしたよねぇ。



作劇上の、「ありきたりさ」の罠を、巧妙に回避してるワケですね。
「二人しか出ない」とか「誰にも出迎えられない」とか、そういう諸々の結果、“ありきたりの作品”に陥ってしまう、という罠から、逃れている。


帰還するために、何か特殊な物凄いテクノロジーを出す、とか、そういうことではないワケです。
地表の側から新しいロケットを打ち上げる、とか、そういうことですらない。
主人公が、自分の力で還ってくる。


挫けそうになる時もある、と。
しかし、そこで再び彼女の気持ちを立て直させるのは、娘との記憶、英語を話すことすらできない相手との交信、そして、さっきまでいた軽薄なコマンダー。
つまり、人間との“繋がり”なワケですよね。
コミュニケーション。
コミュニケーションによって、人間が人間に作用して、つまり、他人の心が言葉を介して自分の心に作用し、意思が生まれる。
意思が、“ひらめき”を、つまり“アイデア”を生み、そして、という。


いやぁ、「人間って素晴らしい」と。



うん。




それと、ストーリー本体とは関係ないトピックですが、幾つか。

このストーリーは、「ロシア人の無配慮な暴走によって振り回されるアメリカ人。そのアメリカ人が、中国の協力で助かる」というプロットとして切り取ることも出来るんですが、これは、昨今の国際状況を踏まえた、とてもポリティカルな、まぁ、とてもハリウッドらしい運びになっています。

ただ同時に「『神舟』はソユーズと同じプロトコルだ」なんていうセリフもあって、独自技術ではない、という点を突いてて、鋭い。



もう一つ。
ホントに最後の最後、エンドクレジットが流れるところでバックで流れる“音”は、クルーニー演じるキャラクターの“運命”を明示していて、ある種、彼の勇気を称える、みたいになっています。(多分)

彼の献身さがなければ、主人公の生還はなかったワケで、作り手は、観る側の「彼に対する感情」を一度裏切りますが(「生きてたんだ!」→「違いました」)、その後は、ちょっとほったらかし、みたいな印象がなくもない、と。

主人公が(まるですべての“生命体”を代表するような形で)生還するんで、それはそれでいいんですけどね。


宇宙空間を漂い続けないといけない彼に対する、まぁ、ケジメというか、「描かない」という選択も、それはそれで演出の狙いなワケで、正解なんですけど、エンドクレジットのあの感じは、そういうことなんじゃないのかなぁ、と。
これは、俺の勝手な“深読み”ですけどね。



ま、些少な諸々はさておき。




原題「グラヴィティ」。
ラストの、彼女が体感した“重力”こそが、この作品のテーマなワケですけど。


素晴らしかったです。