2014年7月15日火曜日

「アクト・オブ・キリング」を観た

京都の木屋町にある立誠シネマプロジェクトという、 “超”がつくミニシアターで、ドキュメンタリー“問題作”「アクト・オブ・キリング」を観た。


ツイッターの自分のタイムラインで、東京での公開のタイミングでかなり話題になってて、それで「京都じゃ観れないだろうなぁ」なんて思ってたんですが、予想外に、やってたので、ということで、観に行ってきました。
この「ツイッターで話題になってた」以上の情報を殆ど仕入れないままだったので、実は「アクト・オブ~」の意味をよく分かってなくて、タイムライン上の感想も、なんか普通、というか、今思うと平易で安直な(≒チープな)ものばかりだったなぁ、という感じなんですが、要するに、“ストレートな”ドキュメンタリー作品ではなかった、というか。
もちろん、仮に、この題材に対して、ストレートに作られていたとしても、それはそれで、当然かなり“強い”内容の作品になっていたとは思うんですが(で、観る前は、そういう作品だと思ってたワケです。)、実際は、そうじゃない、と。


この、二段構えの衝撃、というか。

内容の“強さ”と、手法に対する驚き。



インドネシアで過去に起きた「虐殺」について、取材をして、ドキュメンタリー作品を作る、と。
製作者は、ロンドンの「ジョシュア」という人物が、作中に、「カメラの横にいる人物」として度々言及される形で、登場します(本人の姿は映らない)。

しかし、「被害者側に対する取材は許可されない」とのことで、どうするか。

“加害者側”とは、接触できるワケです。

この、“加害者側”に、「虐殺を再現する映画を作ってくれないか」と。
“映画”といっても、まぁ、いわゆる“自主製作”の類のモノで、そんなに大掛かりのモノはできないし、しかし、現地の俳優やセットや撮影クルー、特殊メイクなんかも動員して、さらに、「再現映画を製作している有志たち」という形で、地元テレビの取材を受けたりして、チープでありながら、それなりにガッチリ製作はしているみたいなんですけど。

つまり、「虐殺」を、自作自演で再現してくれないか、と。

そういう形で、その「製作の過程」を、ドキュメンタリーの形で追う。それが「アクト」の意味だったんですね。
俺も、もうちょっとちゃんと考えてれば、タイトルの意味も少しは分かれたんじゃないかとは思うんですが。
「虐殺の演技」。


そういう、メタフィクション/メタリアルな、そういう手法で撮られた、ドキュメンタリー(ノンフィクション)作品。


インドネシアという国で起きた「虐殺」については、それ自体についてはここでは詳しくは書きませんが、ざっくりと(俺の視点で)言うと、当時世界中で起きていた「共産主義陣営対資本主義陣営」の衝突が、インドネシア国内に持ち込まれて、インドネシアでは、共産主義者とそのレッテルを貼られた人々が「虐殺」された、ということで。

ここで、“加害者側”というのが、今も実際に、インドネシアという国を“支配”している人たちで、というのがポイントで、つまり、「虐殺」が正当化されているワケです。

ここが出発点。


「虐殺」を、実際に「手足となって」実行した人物、というのが、この作品の“主人公”で、その人物は、いわゆる“地元のギャング”ですね。
「プレマン」という呼称らしいんですけど。日本で言う「ヤクザ」。

それから、「青年団」という団体。
彼らは、極彩色の迷彩の戦闘服という制服を持っていて、集会なんかでも、かなりの動員力がある組織。現時点でも、選挙で候補者を立てたり支援したりで、かなりの影響力を持っているっぽくって、まぁ、その辺は日本人の俺にも想像がしやすい感じではありますけど。
ボーイスカウトなんかよりはずっと戦闘的だし、政治的。
要するに、民兵組織。

あとは、地元の知事とか議員なんかの政治家や、小さな新聞社のオーナーみたいな、資本家。


ざっくりまとめて、右翼勢力、ですね。

彼らが、彼らが「共産主義者」を呼ぶ相手を、「虐殺」した、と。


特に主人公と、彼の“舎弟”及び“同志”は、「虐殺」について、嬉々として語ります。
要するにここが、平易な感想を呼び起こすポイントなんですけど、彼ら自身の中では、「虐殺」は、なんていうか、“権力者たち”からは正当化されていることに加えて、彼ら自身の内面の中でも、その行為を正当化しようとしてきた過去があっただろう、と。
それは、揺るぎのない強固なものなんでしょうけど。

自分の内面を相対化する、とか、自分自身に懐疑を持つ、とか、そういう“知的に高度な内省”みたいなのとは無縁に見える人たちなんで、まぁ、そういうことになるワケですけど。


「虐殺の再現」という試みは、とにかく、着々と進んでいく、と。


幾つかポイントがあるんですけど、まずひとつは、エキストラたちを使うんですね。
もうホントに、その辺の、いわゆる“隣人たち”に呼びかけて、集まってもらって、みたいな感じで。

彼らが、もう迫真の演技を見せるワケです。
いわゆる“素人”たちが。

シャーマニズム/アニミズム的な、トランス状態、みたいな。

“役”に物凄い入り込む。言い方を変えると、“役”に成り切ることができる。
被害者を演じる側は、泣き叫び、加害者を演じる側は、アジテーションに拳を突き上げる。

これは、「“熱狂”の度合い云々」という、まぁ、言葉は悪いですけど、文明論的なアレがまず出てきそうですけど、個人的に思うのは、「虐殺」の“記憶”が、まだ濃厚に残っているんだろうな、ということ。

社会全体、コミュニティ全体で、まだ「虐殺」の記憶が強く共有されていて、それが、「再現映画の撮影」という“祭り”によって、強く呼び起こされる、という。
呼び覚まされる、というか。

作品中では、それが、“加害者側”のメンタルに、非常に影響を与える、ということになっていくワケですけど。
つまり、当事者たちが“ドン引き”するぐらいなワケですよ。その熱狂、というのが。

それがまず一つ。



2番目が、主人公の“同志”として、つまり“当事者”の一人として現れる人物。
彼は、主人公とは違うレベルの“成功者”という感じで生活を送っている人物なんですけど、登場の段階で、ちょっと苦笑いだったりして。
過去の「虐殺」に対する認識、というのが、主人公とはちょっと違う。
若干“反省”している。葛藤を抱え、それを主人公たちに、小出しに語ったりするワケです。

「虐殺」を否定はしないものの、彼らの子供たちが不憫だ、とか、そんな感じで。

彼の登場は、恐らく撮る側にとっても大きなもので、「ジョシュア」は、彼が運転する車の中で、彼に対する単独のインタビューを試みます。
ところが、ここでは彼は、一切の葛藤を見せない。
「ブッシュだってやってる」と言ったりして、なんていうか、かなり強固な理論武装というか、要するに、撮る側の“期待”には応えてくれない。
ガードが固くなってる。
そういう形では、吐露しないワケです。

彼と主人公と、もう一人、同年代の男と三人で話すシークエンス、というのがあるんですけど、三人目はなんと「自分は知らなかった」と言うんですね。
これを、彼は「そんなハズはない」と斬って捨てます。「公然の秘密だった」と。
「自分は関わってない、ということにしたいんだろうけど…」的なことも、ずばり、言います。

つまり、彼は、自分たちの行為の意味を、はっきりと認識している。
“犯罪性”もそうだし、同時に、“成果”というか“効力”というか、彼らの言うところの“価値”、というか。

負の部分をはっきり認識しているからこそ、より強固に、自分を正当化する必要があるワケだし、実際、そうしている。

「虐殺」の再現において、主人公と同じように、ディティールもかなり細かく思い出してたりするんですが、その“意味”を問われた場合においては、正当性・正統性を、揺らがずに、主張する。


三つ目のポイントとして、主人公の隣人として登場しながら、「実は継父が殺されたんです」と言い出す人物。

彼は、母親の再婚相手が、華人だった、ということなんですね。
当時のインドネシアの「共産主義者」は、(ソ連ではなく)中国共産党の影響下にあって、その関連で、華人は、彼ら右翼勢力の“敵”と看做されていて、華人というだけで、拷問及び虐殺の対象だった、ということなんですけど(つまり、ここに「虐殺」の真の犯罪性の一つがあるワケですけど)、「自分の継父が、殺された」と。
その男は、言い始めるんです。
再現映画の、セット撮影の、リハーサルのときに。

「被害者側の取材が許されなかった」という状況の中で、恐らく彼は、もっとも「被害者側」に近い存在なワケですけど、そういう存在が、突如現れる、という。
突然、そう告白し始めるワケですから。

主人公たちは当然、戸惑うワケですけど。

しかし、その彼は、「あなた方を批難しているワケではない」とも言うんですね。その場で。
現政権による言論統制が効いている中では、当然そう言うしかないワケですけど、同時に彼は、なんとも微妙な表情にもなります。

つまり、ここで観る側は、「現実には、そう言う以外にない社会」というものを見せられるワケですけど。

このドキュメンタリー作品全体が、そういう“空間”の中で撮られている、と。
そういうことなワケですね。



主人公の横に常に伴う形で、カメラがあるワケですけど、そこにカメラがある、ということ自体は、実は、主人公たちの主張・立場を、肯定している形になっているワケです。
少なくとも、それを撮っている時と場所においては。


これは、実は、なんていうか、かなり暴力的、というか、かなり危うい形でもあるワケで。

主人公たちは、カメラの“肯定”を背に、例えば、街中を歩くワケです。
華人の商店主たちから、“ショバ代”的を徴収する、というより、単なる恐喝の現場、というシークエンスがあるんですけど、そこでは、商店主たちの屈辱的な姿が露に撮られています。


この“スタンス”は、実は、かなり危うい。
少なくとも、そのカメラが回っている瞬間には。

「再現してくれ。その過程を撮らせてくれ」というのは、彼らに対する“肯定”の意を含ませてのことなワケで、少なくとも、彼らには、そう信じさせている。

しかし、そういう“スタンス”でなければ、撮れないトピック、というのもあるのも間違いないんですけど。


この“危うさ”に関しては、何気に、かなり巧妙に説明が回避されていて、個人的には実は、「撮る側がもうちょっと顔を覗かせてもいいんじゃないか」という、あくまでその程度ですけど、ちょっと不満です。
まぁ、そういう、製作者サイドの“倫理”の問題と、「虐殺」のそれとを比べたら、もう、それこそ比べ物にならない、という話なワケですけど。


ただ。
こんなことを気にするのは、俺だけかもしれませんが、この作品は、形としては、“結果的に”ということになっているワケです。
結果的に、「虐殺」という、その行為の、犯罪性を抉り出している、ということになってる。

そんなことはないワケですね。
“告発”することを目的に、製作されているハズですから。
“結果的に”なワケがない。

まぁ、メタ・ノンフィクション(という言葉があれば)、ということなんだ、と言えば、それまでなんですけど。


もうひとつ、ポイントしてあるのが、主人公が使う、「サド」という言葉。
作中、「映画」(≒フィクション)が、キーワードとして頻出するんですけど、実際の「虐殺」の“参考”にした、とか、そんなことを言いながら、再現しようとしていくワケですけど、その中に、「サド」という単語も出てくる。

これは、主人公としては、「楽しんでやっていたんじゃない」と。
そういう含意だと思うんですね。

「アクション映画で、人が殺されているのを見て楽しむ」という感覚が、「サド」だと。
「人を殺すのを楽しむ」ことが“狂気”だとすれば、自分たちは、違った、と。
そういうことだと思うんですけど。

あくまで彼らの“主張”なワケで、個人的には、敢えて言及する、ということは、逆にそういう感覚があったからだ、と思いますが、これは、実際にどうだったか、というのは、難しい話だとも思います。




話を戻すと、作中の、「再現映画のクライマックス」の、(チープでありながらも)圧倒的な自己肯定感は、もう眩暈がしそうですけど、しかし、それが彼らの“現実”でもある、という。
この感じ。


そして、作品本体の、ラスト。
「虐殺」を再現する中で、「加害者」であった主人公が、「被害者」つまり殺される側を演じることで、自分たちの行為についての“意味”に、“到達”してしまう。

悟ってしまう、という。

心理療法とか、なんとかセラピーとか、ロールプレイ(?)療法、とか、そういうのに“嵌る”状態に突如陥る、というか。


こういう結末になるっていうのは、狙って撮ってたんだろうか?
もしそうだとしたら、これは凄いぞ、と。

そんな感じの感想が咄嗟に浮かんだんですけど、実際はどうなんでしょうか?



まぁ、この“結末”の衝撃度こそが、この作品が持つ本来の衝撃度なワケですけど。



こうなるか、と。



いやホントに、“結末”に対しては、そういう言葉しかないですよねぇ。



主人公の心が突如破壊される、という、そういう意味での“暴力性”も湛えているワケです。
この作品は。



うん。


そういう、衝撃な作品でした。








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