2014年12月2日火曜日

「自由と壁とヒップホップ」を観た

立誠シネマ・プロジェクトでやってた、パレスチナのラッパーたちのドキュメンタリー「自由を壁とヒップホップ」を観た。



この作品は、確か去年か一昨年に日本で公開されてて、観たいとは思ってたんだけど、なんだかんだで見逃してしまっていたヤツで。
なぜか、今年のこのタイミングで、京都の(超)ミニシアターで上映する、ということで、観て参りました。


良かったです。

惜しむらくは、なんていうか、「パレスチナにラッパーがいる」というところにとどまっていること。
そこが惜しい。

もう少し、パレスチナが強いられている状況なり、彼ら(ラッパーたち)の音楽性なり内面なりを、深く掘り下げて欲しかったなぁ、と。

惜しむらくは、ですけどね。


「パレスチナにもヒップホップを体現しているラッパーたちがいる」というメッセージを、世界中にいる「ヒップホップ・ネイション」に集う人々にそれを伝え、連帯を呼びかける“役割”を果たしている、という意味では、ホントに感動的だし、とても意味のある作品で、それはそれで、良いんですけど。


ドキュメンタリーの“価値”というのは、「そこに行き、それを撮る」ことにあるとすれば、もう、十分素晴らしい作品では、あります。



ただね、と。



作品には、何組かのグループのソロのラッパーが登場しますが、彼らは互いに「異なる環境」にいるんですね。
それは、単純に場所や育ちが違う、ということではなくって、パレスチナの現状を文字通り体現している、とも言えるんですけど。

自治区の二つの区域、ガザ地区、西岸地区(west bankというらしいです。)。
そして、イスラエル国家の中で“二級市民”として暮らすパレスチナ人。

この三つ。


この、彼らの互いに差異、みたいなのが、実は作品の隠れたテーマ、みたいになってるんですけど、イスラエルによって「行動の自由」を剥奪されている彼らは、距離的にはすぐ近くに住んでいるんですけど、直接交わることはできない。


これは、別に彼らが自ら選んだ、ということはまったくなく、彼らの親世代・その上の世代が、難民として国外避難を強いられたり、あるいはその後、難民としてキャンプで生活を営むことを選択したり、あるいは、“国内”に居続けることを選択したり、という、そういうことに因る“差異”なワケですけど。

“専門用語”で言えば、まさしく「分断統治」の具体例でもあるんですが、それはさておき。


彼らが直面している“抑圧”というのは、かなり違うワケです。
自治区では、もうホントに、撮影中に銃声がバンバン響いてたり、ロケット弾で破壊されたビル(マンション)があったり、壁一面弾痕があったり、とか、そんな状況で。


“二級市民”として暮らす人々はまた違って、例えば、街を歩いているだけで警察やユダヤ人たちにジロジロ見られ、(ヘブライ語ではなく)アラビア語を話していると尋問される、とか、そういう感じ。


そういう状況下で、より“ハード”で“シリアス”な同胞に対しての引け目、みたいなのも、あるワケです。
彼らも人間ですから。

それらを乗り越えて、互いに連帯し合う、というのが、一つの(隠れた)テーマ。



もう一つは、女性の存在。

女性性、という、また別の“抑圧”があるワケですね。
特に、ムスリム社会には。


面白いことに、へジャブを着ている女性も確かにいるんですが、殆どの女性、特に、作品の中で“マイクを握る”女性たちは皆、セクシーなんですよ。

つまり、イスラム社会でありながら、かなり世俗的な感じで。

しかしそれでも、女性というだけで抑圧を受けている、という。

実は、この「女性蔑視」というのは、ヒップホップ自体が内包しつつ、常に(世界中で)批難と議論と克服の試みがなされている、という、ちょっと違うファクターの問題でもあるんですけど、この作品中では、あくまで、イスラム社会におけるそれ、という形で語られています。

彼女たちの、活き活きとラップし、歌う姿。
まぁ、素晴らしいですよね。



最後にもうひとつ。
これも“隠された”テーマだと思うんですけど、パレスチナ社会においては、(恐らく、ですけど)ヒップホップという“イズム”の信奉者というのは、かなり少数なんじゃないのか、という点。

単純に、ヒップホップのファン、ということですけど。

そんなに市民権を得ている音楽ではないんじゃないかなぁ、と。

これは、あくまで俺の勝手な推測ですけどね。



ただ、そういう意味では、二重三重の“マイノリティ”なワケですね。


パレスチナ人として、イスラエル国家から、直接的・暴力的・恒常的・非人道的・非人間的な抑圧を受けつつ、パレスチナ社会の中のマイノリティとして、「ダンスビートに政治的メッセージを乗せる」≒ヒップホップ・アーティストとして生きる、という。
(女性の場合、そこに女性性という“枷”がそこに加わる。)



もちろん、だからこそ、彼らと世界中のヒップホップが連帯する必要と意味があるワケですけど。




ただね、と。


繰り返しになりますけど、そういう、色んな要素に対しての掘り下げ方が、やっぱり深みが足りない気がするんですよねぇ。

インタビューも、彼らと彼らの家族に対してだけだし。




あと、もう一つ気になったのが、彼らの通信手段。
携帯で互いにコンタクトを取るんです。
あと、PC使ってチャットしたり。

その“ツール”をもうちょっと掘り下げていくって方法だってあったんじゃないの、とか。

だって、その携帯って、イスラエルの企業が提供している回線なハズですから。


“テクノロジー”って、ヒップホップっていうジャンルには、とても大事なファクターだし、この時代においては、とても重要なトピックでしょ。
インターネットって。


ちなみに、この作品が撮られたのは、エジプト市民革命よりもだいぶ前なんで、実際、まだ「フェイスブック」とか「ツイッター」とかのワードは、出てきません。
「抵抗のツール」としてのインターネット、というのは、もうちょっと最近になってからのトピック、ですね。
それはさておき。



あと、タイトルもあんまり好きじゃないです。
「自由」って言葉は、響きがいいし、もちろん彼らにとっても大事なことなんだろうけど、彼らは「平和な生活が欲しい」って言ってるんですよ。
もちろん、それは「自由」ってことでもあるんですけど、でも、彼らはもっと切実だし、このタイトルだと、彼らの“切迫感”みたいなのが伝わってこない気がする。
「パレスチニアン・ラッパー」とか、そんなタイトルでよかったんじゃないのかなぁ、というか。
(Palestinian Rapperzというグループが実際に登場してます。)





なんかケチつけてばっかりですが、いい作品なのは間違いないですよ。
だけど、ということです。




あと、“壁”のインパクトは、やっぱり凄かった。
抑圧とか、そういうレベルじゃないよね。やっぱり。


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