2015年1月4日日曜日

「動乱」を観た

高倉健追悼企画として上映されていた、「動乱」を観た。


高倉健と吉永小百合の二大スター主演で、「二・二六事件」を題材にした作品。
完全に史実をなぞる、ということではなく(そういう作品は、他に幾つもありますが)、高倉健演じる“青年将校”も、フィクショナルに作られたキャラクター、ということみたいです。
もちろん、モデル、というか、“史実”をベースに、しっかりとリアリティある存在として描かれていますけど。

公開は、1980年。
「二・二六事件」の“首謀者”たちを全面的に肯定する、ということでは、80年という、公開当時の“現在”ならではの意味があるのかもしれませんけど、正直、そこまでは分かりません。
逆に、60年代70年代にはできなかったことなのかなぁ、とも思いますけど。


その、「売春婦と傭兵」というのは、所謂「世界最古の職業」とされているワケですよ。
自給自足ではない存在、自分の身体、つまり労働力を、純粋な意味での“金銭”と交換することで生活を成り立たせている存在。

売春婦とは、まさに、身売りされていく吉永小百合であり、高倉健演じる将校の部下である兵卒たちは、貧しい農村からやってきた「国家に雇われた兵士」であって、という。

その、高倉健と吉永小百合が、必然と偶然が重なって、出会い、人生が交錯し、ともに暮らし、そして、と。
よく出来たストーリーですよねぇ。

「二・二六事件」とは、クーデター未遂事件なワケで、そういう、「国家を巡る大きな話」を、主演二人を巡る話、あるいは高倉健一人の胸の内の相剋に、巧く落とし込みながらストーリーをドライブさせていく、という構造になっていて、この構造は、まさに“映画”って感じで。



東北の連隊駐屯地、左遷された先の朝鮮北端の地、東京、と、物語の舞台のスケールも、二大スターの看板に相応しい展開で、まぁ、特に雪原での、“匪賊”たちとの闘いを描く場面、というのは、いいですよねぇ。
敵の姿が見えない、というのも含めて(実際の、本当の敵は“味方”に居るんだ、ということなんですけど)、説得力あります。


吉永小百合の、人買いに買われて、売られて“流されて”売春婦として生きる“生き方”が「楽なの」みたいなセリフとか、素晴らしいですよね。
“身請け”しておきながら、自分を妻として“抱かない”高倉健に対して、「このカネで私を買ってよ」とか。
吉永小百合って、特にこの頃の顔って、少し目つきが鋭いんですよ。
柔和ではないんです。
その目線が、意志の強さを表現してるんだし、運命に抗ったり、生活に苦しみ格闘していたり、人生を引き拓こうとしていくようなキャラクターを、表現してきたワケですけど。
この作品においても、そういう、いわゆる「吉永小百合らしさ」みたいなのが、しっかり打ち出されていて。

つまり、「高倉健らしさ」だけではないワケですよね。
どちらかがどちらかを殺しているワケではない、と。
二人が、それぞれ俳優・女優として持っている「固有の物語」が、作品の物語としっかり融合している。


主演の二人の演技も、ロケーションその他も含めた画作りも、作品すべての要素がしっかりストーリーを支えている、つまり、ストーリーに奉仕している、という、良い作品というのは、どんな作品でのそういう風に出来ているワケで、この作品もそうなんだ、ということなんですけど。


で。

これは完全に個人的な感覚なんですけど、この作品を2015年の現在において観ると、なんていうか、妙な“現代性”を感じてしまう、という。
不思議な現象なんですけど。
追悼上映で観た作品に、妙な現代性、現代に対する批評性、みたいなのを感じてしまう、という。



作中で“統制派”が語る「国家が強くなるためには、まず強い軍隊が必要なんだ」みたいな言葉は、まさに「トリクルダウン」なワケで。

もちろん、具体的な諸々の政策自体は、ネオリベとしての経済政策(所謂アベノミクス)とは、まったく違うんでしょうけど、思想の根本の部分は、というか。


“戦後”は終わったけれども「今は新しい戦前なんだ」という言葉を思い出したりして。

作品が製作された70年代末期、公開された1980年当時とは、また違った意味合いが生まれてきているんじゃないかなぁ、というか。


そういう意味でも、面白かったですねぇ。
映画体験として面白かった、というか。
(もちろん、健さんを追悼する、という意味も十分分かった上で、ということですけど。)



現代に対する批評性、ということでいうと、これはちょっと誤解を生む表現かもしれませんが、高倉健演じる、人望を集める青年将校が、色んなモノを背負っていくうちに、特に「“身請け”した妻」との関係性において、“性的不能”的な状態になってしまうワケです。

そういうシチュエーション、ということですけど。
矛盾や相剋を一人で抱え込もうとするばかりに。


その、「一人で抱え込んで苦悩する」ことこそが、高倉健がずっと表現してきたことなワケですけど、なんていうか、当時はともかく、現在においては、そこに“クール”な感じはしないワケですよねぇ。

それは、「高倉健が演じるキャラクター」以外にはできない、という、なんていうか、“物理的”な制限がある、ということの他に、“性的不能”的な状態に追い込まれてしまう、ということの、(敢えて言いますけど)カッコ悪さ、みたいなのが、どうしても、ある。

作中では、主人公は最後に、(唯一度)それを克服して、二人は肉体的に結ばれるんですけど。
(それは、作品中においては、とても感動的なシーンなんだけど。)

ちなみに、ラスト前、自分で縫った着物を羽織らせる、というシークエンスは、「肉体的な繋がり」のメタファーとして極めて優れた(しかし一般的でもある)表現なんですが、ここでは、それはさておき。


いや、「だからなんだ?」ってトピックではあるんですけどね。

まぁ、一つの特徴、というか、時代性、ということなんでしょうけど。
ちょっと、気になったもんで。




作品のラストショット。
額に巻かれた鉢巻に、射殺の“標的”として、黒い丸が描かれているんですが、これが、撃たれた後に、血で、赤い丸、つまり「日の丸」に変わるんですよ。
「日の丸」の鉢巻をして、死んでいく、という。

まるで、十字架に縛り付けられたキリスト教徒の殉教者か、あるいはイエス・キリスト本人かのように。


「女囚サソリ」のラストショットは、風にはためく「黒い旗」で、それは“アナキズム”の象徴としての“黒”だったワケですけど。

この作品の「日の丸の鉢巻」も、印象的ということでいうと、かなりの強度でした。



うん。



追悼、ということだけでなく、他の意味合いも色々感じてしまう、という、そういう作品でした。
2015年正月、というタイミングで観ることができて、良かったです。

















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